第1話 今夜も眠れない
花冠は、祝福のためのものだったはずだ。
白い花弁に金糸を絡め、輪の内側へ小さな飾り灯を等間隔に留める。火が近すぎれば花が乾く。遠すぎれば光が死ぬ。だからジェルジは、昼のうちに三度も灯具を組み直した。花の茎の太さ、油皿の深さ、舞台袖から入る風の向きまで見て、最後に芯を半節だけ短くした。これで燃え広がることはないと、自分の手で確かめた。
それなのに、王城の大広間で火は上がった。
音より先に熱が来た。花冠を捧げ持った侍女が息をのみ、次の瞬間、飾り灯のひとつがばちんと弾けた。青白い火花が散り、乾いた花弁へ噛みつくように炎が走る。誰かが悲鳴を上げた。楽師の弓が止まり、絹の裾がいっせいに引かれる。磨かれた床に光が跳ね、燃える花の匂いが甘く焦げた。
「離れて! 油皿を倒さないで!」
ジェルジは駆け出した。叫びながら、飾り台の脚を蹴って倒す。火を広げないためだった。だが、その動きだけが切り取られた。
「見たぞ」
甲高い声が、ざわめきの上を滑った。
「ジェルジ様が花冠に触れていましたわ」
振り向くと、伯爵令嬢リセラが扇を口元へ当てていた。心配そうな顔をしているのに、目だけがひどく乾いている。
「違います。私が触れたのは準備の段階だけです。さっき弾けた火は――」
「では、なぜあなたは真っ先に台を倒したのかしら」
「延焼を防ぐためです」
「ずいぶん手慣れているのね」
周囲の視線が変わるのが分かった。問いただす目ではない。すでに答えを決めた目だ。近衛が来る。侍従が来る。誰かが、花冠に細工をした悪役令嬢、と言った。その言葉は火より早く広がった。
ジェルジは説明した。芯の長さ。油の配合。飾り灯の留め具。昼の点検。けれど、差し出した言葉は一つも拾われなかった。拾われたのは、侯爵家の養女であること、社交の席で目立たないこと、灯具の扱いに詳しすぎること、その程度だった。
結局、その夜のうちに決まったのは、真相ではなく処分だった。
王都を離れ、山あいの辺境村カラモリへ移ること。侯爵家の名を表で使わぬこと。王城の灯具には今後一切関わらぬこと。
あまりに手早い裁きに、さすがに義父が何か言うかと思った。けれど、侯爵は書面に目を落としたまま、「しばらく頭を冷やしなさい」とだけ言った。養母はハンカチを握り、兄妹たちは目を伏せた。泣いたのが惜しんでなのか、面倒を嫌ってなのか、それすら分からなかった。
王都を発つ朝、ジェルジの荷は驚くほど少なかった。作業服が三着。丈夫な靴が二足。工具箱が一つ。帳面が二冊。小さな油差し。芯を巻くための針金。眠れない夜に役立つよう、縫い針まで持った。宝石箱は置いてきた。開けるたび、自分の居場所がからっぽに見えそうだったからだ。
馬車は石畳を離れ、街道を北へ進み、昼過ぎには舗装のよい道も終わった。窓の外から色が減っていく。店先の布も、庭園の薔薇も、見栄えのする看板も消え、代わりに裸木の山肌と、薄い雪の残る斜面が続く。
御者は無口で、必要なことしか言わなかった。
「次の橋を渡れば、もうカラモリ領です」
「宿はありますか」
「昔はな」
短い返事だった。
夕方、空が鈍い鉛色に沈み始めた頃、馬車はようやく村へ着いた。深い山に抱え込まれた谷の底だった。家はどれも低く、屋根は雪を落としやすい急勾配で、煙突から細い煙が立っている。畑はまだ茶色く眠り、柵には獣除けの鈴が吊られていた。日暮れ前なのに、あたりはもう薄暗い。谷の奥から、灰色の霧がゆっくり流れてくる。
「霧が早いな」
御者が舌打ちした。
「夜は道を外れるなよ、お嬢さん」
その呼び方に、少しだけ腹が立った。王都から追いやられた身でも、自分の足で灯具を扱ってきたつもりだった。けれど、今のジェルジは怒るだけの場所もない。馬車を降り、冷たい空気を吸い込む。肺の奥まで刺すような匂いがした。湿った木と土、それに雪解け前の水の匂い。
村のはずれに案内された建物を見た瞬間、ジェルジは思わず立ち止まった。
宿、と聞いていた。
だが目の前にあるのは、宿だったものだ。二階建ての木造は骨組みこそ太いが、軒はゆがみ、窓枠は片方が外れ、看板は半分欠けている。戸口の脇には壊れた行灯が三つ重ねられ、雨樋は途中で折れていた。庭先の井戸には木の蓋が斜めにかかり、雪解け水が石畳へ細く流れている。
「ここです」
村役人らしい中年男が、申し訳なさそうに頭をかいた。
「帳場も台所も使えます。たぶん」
「たぶん」
「火床は生きてます。たぶん」
「……たぶんが多いですね」
「しばらく人の手が入ってなくて」
苦笑いのあと、中年男は鍵を渡した。
「村長には伝えてあります。困ったら明日、広場の鐘を鳴らしてください。今日は霧が出るので、もう皆、戸を閉めます」
それだけ言うと、男は本当に帰ってしまった。御者も、荷を下ろすとすぐに馬車を返した。車輪の音が遠ざかる。霧がそれを飲み込む。残ったのは、工具箱と小さな鞄、それから古宿だけだった。
ジェルジはしばらく戸口に立ち尽くした。
泣くなら今だろうか、と一瞬だけ思う。けれど、泣いたところで軒の歪みは戻らない。戸の隙間風も塞がらない。今夜の寝場所を確保しなければ、本当に凍える。
「……まず、火」
自分に向かって言い、鍵を差し込む。
戸は重く、押すと蝶番が嫌な声を出した。中は薄暗く、乾いた埃の匂いと古い油の酸っぱい匂いが混じっていた。帳場の上に帳簿が積まれている。どれも端が反り、鼠にかじられた跡まである。食堂の卓は三台。椅子は五脚。六脚目は脚が折れて壁に立てかけられていた。奥へ進むと台所があり、竈は煤で真っ黒だが、確かに割れてはいない。薪も少しだけ残っている。
救いは、まったくの廃屋ではないことだった。
ジェルジは袖をまくった。火床を掃く。煤を掻き出す。残った薪を乾いたものと湿ったものに分ける。窓の桟に触れて、どこから風が入るか確かめる。無意識に体が動く。王都での長い夜も、灯具の手入れのときは同じだった。まず見る。次に分ける。最後に直す。
竈へ火が入ったのは、外がほとんど夜になってからだった。ぱち、と細い枝が鳴る。その小さな音だけで、胸の奥に張っていたものが少し緩む。
だが、問題は明かりだった。
食堂の壁に掛かった行灯は四基。卓上用が二基。どれも煤け、ガラスは曇り、ひとつは底皿に罅が入っている。替え芯は見当たらない。油壺には古い油が指一本ほど。これでは朝までもたない。
ジェルジは一番ましな卓上行灯を選び、部品を外した。爪で触るだけで、芯がぼろぼろ崩れる。長く放置され、油を吸ったまま腐っていたのだ。舌打ちしかけて、やめる。道具に八つ当たりしても直らない。
鞄から予備の芯を取り出し、針金で押さえを締める。油皿の歪みは指先で確かめ、火が片寄らぬよう縁を少し起こす。王都から連れてきた小さな油差しを傾けると、とろりと琥珀色が落ちた。惜しい量だったが、今夜だけは仕方ない。
火を移す。
小さな灯が立つ。
行灯の薄いガラス越しに、弱い黄色が卓へこぼれた。十分ではない。それでも闇に全部を奪われるより、ずっとましだ。ジェルジは椅子へ腰を下ろし、指先を見つめた。煤で黒い。爪の間にも入り込んでいる。王都なら侍女が眉をひそめたはずだ。けれど、今はその汚れが少しだけ頼もしかった。
食事は、乾いたパンと、道中で買った固い干し肉だけで済ませた。湯を沸かし、塩をひとつまみ落とす。腹へ入れば、冷えた体がようやく人心地つく。
それでも夜は長かった。
二階の客間は三つあったが、まともに使えそうなのは一部屋だけだった。ジェルジはその部屋の床を掃き、薄い寝台へ持参の毛布を重ねた。行灯を枕元の箱へ置く。窓は閉めた。戸も確かめた。刃物は届く場所に置いた。火も確認した。やれることはやった。
なのに、目を閉じると王城の炎が浮かんだ。
花弁が焦げる匂い。高い声。見たぞ、という言葉。義父の低い声。しばらく頭を冷やしなさい。頭を冷やすのはどちらだろうと思ったが、その場では口にできなかった。口にしたところで、書面に載った処分は変わらない。
寝返りを打つたび、古い寝台が軋んだ。風がどこかで鳴る。屋根だ。軒かもしれない。いや、もっと近い。二階の端だろうか。規則のない音で、乾いた板がかたかたと鳴る。
眠れない。
まぶたの裏に火がちらつく。
今度は、下で音がした。
からん、と硬いものが触れ合う小さな音だった。続いて、重みをかけた板がみしりと鳴る。鼠ではない。もっと大きい。泥棒かもしれない、と考えた瞬間、指先の冷えが一気に腕へ駆け上がった。
ジェルジは起き上がり、毛布の下に忍ばせていた小刀を握った。行灯の火を指で覆い、明かりを絞る。耳を澄ます。もう一度、音。今度は戸口のほうではなく、食堂の壁際からだ。
足音を殺し、階段を一段ずつ下りる。古宿の板は、黙っていてくれと頼んでも容赦なく鳴る。ぎし、ぎし、と鈍い声を上げた。そのたびに、自分の喉まで固くなる。
階下は行灯の弱い灯りだけで、卓の影が長く伸びていた。帳場の横に積まれた壊れた灯具の脇へ、人影がしゃがんでいる。
ジェルジは小刀を前へ向けた。
「そこで何をしているの」
影がぴたりと止まった。
振り向いた顔に、まず目がいったのは耳だった。灰色の髪から尖った獣耳が二つ、ぴんと立っている。次に見えたのは、肩越しに揺れる尾だった。狼の尾に似ていた。若い男だ。厚手の外套を着て、背中に縄と工具をぶら下げている。
驚いたのは、向こうも同じらしかった。
「……人がいた」
「宿なんだからいるでしょう」
「いや、今日から来るって話だったから、もっと明るくしてるかと思った」
「失礼ですね」
男はじっとジェルジを見たあと、彼女の手の小刀より先に、枕元から持ってきた行灯へ視線を落とした。
「火の置き方が雑だ」
第一声がそれだった。
ジェルジは目を細めた。
「泥棒かと思えば、文句ですか」
「泥棒じゃない。村長に頼まれて屋根の様子を見に来た。昼のうちに来るつもりだったけど、沢向こうの荷運びが長引いた」
「それなら先に名乗ってください」
「モフャ」
たったそれだけ言って、男――モフャは立ち上がった。近くで見ると背が高い。肩も広い。けれど威圧感より、山の冷たい風をそのまま連れてきたような匂いが先にあった。雪、木、少しだけ獣毛の匂い。
「で、雑って何ですか」
「その行灯」
モフャは顎で示した。
「二階の箱の上に直置きしただろ。床が傾いてる。寝返りで落ちる。あと、この宿、北側の梁が風を拾うから、夜中に火が揺れる」
言われて、ジェルジはわずかに唇を噛んだ。確認したつもりだった。だが、この宿の癖まではまだ読めていない。
「……見に来ただけなのに、ずいぶん詳しいんですね」
「昔、ここで吹雪をやり過ごしたことがある」
モフャはそう言って、壊れた灯具の山から一本を拾い上げた。煤けた胴を指でなぞり、底の歪みを見ている。
「これはまだ使える。こっちは駄目。底が焼けてる」
「勝手に触らないで」
「捨てる気だったなら、もったいない」
当たり前のような口ぶりだった。ジェルジは腹が立つより、拍子抜けした。王都で灯具を見ても、人はたいてい値段か飾りしか見なかった。焼け方や歪みを最初に見る者は少ない。
「……あなた、行灯が分かるんですか」
「分かるほどじゃない。燃え方で危ないかどうかを見るだけ」
「それ、十分に分かっている人の言い方です」
モフャの耳が、少しだけ動いた。照れたのか、風の音を聞いたのかは分からない。
そのとき、頭上で、ばき、と嫌な音がした。
ジェルジが息をのむより早く、モフャが天井を見上げる。
「屋根の端だ」
「何が」
「雪解け水を含んで、木がふやけてる。次に風が来たら一部落ちる」
言葉どおり、直後に強い風が宿を叩いた。北側の壁が低く唸り、梁がみしりと歪む。
「外へ出て」
「こんな霧の中で?」
「食堂の中央へ寄れって意味だ」
モフャは卓を二つ引きずり、壁際から離した。ジェルジも反射的に椅子をどける。次の瞬間、二階の端で何かが崩れ、細かな木片と土埃がぱらぱら降ってきた。天井板の一部が裂け、冷たい空気が細く吹き下ろす。
ジェルジは思わず肩をすくめた。もし寝台の位置が少し違っていたら、まともに落ちていた。
「だから雑だって言った」
「先に言ってください」
「今言った」
腹立たしいのに、言い返す余裕が残っていることが不思議だった。さっきまで胸を締めつけていた王城の炎が、少し遠のいている。
モフャはすでに縄を下ろし、脚立代わりに卓へ上がって裂け目を見ていた。外套の裾から覗く前掛けは、ところどころ木屑で白くなっている。
「応急で押さえる。釘あるか」
「工具箱に」
「持って」
命令口調だった。だが、いちいち気分を害している場合ではない。ジェルジは工具箱を抱えて卓の横へ立った。釘。木槌。細縄。指示されたものを出す。
モフャの手は驚くほど速かった。裂けた板へ仮の添え木を当て、縄で荷重を逃がし、吹き込む風の筋を変えていく。夜目が利くのか、弱い行灯の光でも迷いがない。
ジェルジもじっと見ているだけではいられなくなった。行灯をもう一基持ってきて、火を移す。作業の影が減るよう位置をずらし、風で揺れないよう底を布で固定する。
「そこ、いい」
ぽつりと、モフャが言った。
褒め言葉に飢えていたわけではない。けれど、その短い一言が胸の奥へすっと入った。王都を出てから、誰かに仕事の手つきを認められたのは初めてだった。
応急修理が終わるころには、外の風も少し弱まっていた。裂け目はみっともない添え木で押さえられている。それでも、今夜すぐ落ちることはなさそうだった。
モフャが卓から飛び降りる。
「朝、もう一回来る」
「村長に頼まれて?」
「それもある」
「ほかには」
モフャは少しだけ黙った。
「火の具合が気になる」
そう言って、彼は壊れた灯具の中から、一番小さな行灯をジェルジの前に置いた。取っ手は曲がっているが、胴はまだしっかりしている。
「これは?」
「捨てるな。直せる」
「あなた、さっきから勝手に拾って勝手に判断しますね」
「間違ってたら、明日言って」
言い残して、モフャは戸口へ向かった。扉を開けると、濃い霧が白く流れ込む。冷気の中で、狼の耳が小さく震えた。
「あの」
思わずジェルジは呼び止めた。
モフャが振り向く。
「助かりました」
言うつもりはなかった。意地があった。知らない男へ簡単に礼を言うのも悔しい気がした。けれど、口から出た。
モフャはしばらく黙っていたが、やがて短くうなずいた。
「なら、明日はちゃんと火を置け」
それだけ言って、霧の中へ消えた。
戸が閉まり、宿の中へ静けさが戻る。
さっきまで心細さしかなかった食堂に、今は木槌の匂いと、人が働いたあとの熱が残っていた。卓の上には添え木の木屑。床には泥の足跡。壊れたと思っていた宿が、ほんの少しだけ息を吹き返したように見える。
ジェルジは小さな行灯を持ち上げた。たしかに歪みは少なく、芯押さえも替えれば使えそうだった。
「直せる、か」
誰に聞かせるでもなく呟く。
自分のことまで言われたような気がして、すぐに首を振った。そんな都合のいい話があるものか。けれど、完全に否定もできなかった。
二階の寝台へ戻る前に、ジェルジは行灯の置き場所を変えた。箱の上ではなく、床に近い低い台へ。火皿の向きも直す。風の通りをもう一度確かめる。
寝台へ入ると、疲れがいきなり重くのしかかった。王城のことを忘れたわけではない。濡れ衣も、冷たい目も、そのままだ。明日になれば、この宿の壊れ具合とも向き合わなければならない。
それでも今夜は、闇の中に自分ひとりではなかった。
枕元の行灯は、さっきより安定した火で燃えている。小さな光の輪が、毛布の端と、煤で黒くなった指先をやさしく照らした。
ジェルジはその光を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。
今夜は少しだけ、眠れるかもしれないと思った。




