⑨
それは、高校三年の秋のこと。
文化祭の準備を終えた瑞穂は、友達と一緒に下校しようとしたが、途中で忘れものをしたことに気づく。
「ごめんね、取りに戻らないと」
友達と別れた瑞穂は、ひとりで来た道を逆戻りする。
校舎が、夕陽の茜色に染まる。
教室まで来たそのとき、瑞穂はピタリと足を止める。
「ルカ……?」
教室の中央、男子生徒とルカがキスをしていた。
驚いたのは、それだけではない。
相手の男子生徒が、瑞穂のカレシだったのだ。
「ふたりとも、何してるの?」
瑞穂が声を掛けると、男子生徒は慌ててルカを引き剥がす。
「違うんだ、これは……織田さんが急に迫ってきて、それで……」
言い訳したところで、すでに事後。
おまけに、その瞬間をバッチリ目撃してしまった。
瑞穂は、軽蔑の眼差しを向ける。
「何したかわかってるの?」
「しょうがないだろ。瑞穂が忙しいって言って、俺をほったらかしにするからいけないんだ」
「だからって、こんなことしていい理由にはならないでしょ」
男子生徒と言い争いをしていると、ルカが瑞穂に言う。
「ごめんね、瑞穂。アタシ、こんなつもりじゃ」
――ブツンッと、そこで記憶の再生が途切れた。
***
明るくて人懐っこいルカは、どんな相手でもすぐに距離を詰めて、自分のペースに巻き込むのが得意。
初対面の人でも、ルカの手にかかればあっという間に友達だ。
その手を使って、これまで何度も瑞穂から友達や恋人を奪ってきた。
――距離感がバグっている、節操のないクズ女だ。
「ねえ、見て! このバッグ、可愛いくなーいっ?」
一階のエレベーター前のホールには、キャッキャとはしゃぐルカの姿があった。
その手には、新品のバッグ。それを、ルカは上機嫌で見せびらかしていた。
「この形とか、色とか、超気に入ってるんだーっ」
ファッションショーでもするように、ころころポーズを変えて。子どもみたいな素振りで、無邪気に笑う。
まさか、彼女が同僚の恋人を寝取っただなんて誰が思うだろう。
ルカ自身も、何事もなかったような顔でお喋りを続けている。
「カレに“すごく似合うよ”って言われて、それでもらっちゃったの!」
その端々には、匂わせ的な発言が見え隠れしていた。
出社してきた瑞穂は、ルカのその様子を見て、わなわなと震える。
憤りを抑えきれなかったのだった。
「あっ、瑞穂! おはようっ!」
気軽に声を掛けられれば、余計に腹が立った。
瑞穂は、ルカのもとへツカツカと歩いていく。
「……そのバッグ、私のでしょ」
確かに、そのバッグは瑞穂のもの。
和真と瑞穂の部屋に上がり込んだあの日、ルカが強奪していったものだ。
「私の部屋から貴方が盗っていったって、知ってるんだからね」
すごみのある声でそう言って、瑞穂はルカを睨み付ける。
すると突然、ルカが大声を張り上げる。
「えーっ、やだぁ! 瑞穂ってば、怖い~っ!」
一階の隅々にまで響き渡るような声だ。
周囲の視線が一斉に、瑞穂とルカの方を向く。
注目を集めたところで、ルカは腕を抱えて怯えたようなフリをする。
「これ、アタシのバッグなのに! 瑞穂が盗ったって言うのっ!」
そのふざけた態度に瑞穂は、ルカに言い返そうする。
「ちょっと、ル……」
「待って待って!」
瑞穂の言葉を途中で遮ったルカは、集まっていた女子社員達に言う。
「みんな、瑞穂を責めないであげて。きっと自分のだって勘違いしただけだよ」
健気な自分を演じ、同情を引いて、そうして瑞穂を悪者にしようとするのだ。
「誰にだって間違いはあるよ。そうだよね、瑞穂」
ルカのペースに完璧に呑まれてしまった――そう気づいたときには、取り返しが付かない事態に陥っていた。
あとはもう誰に何を言っても無駄だ。
今朝の出来事はあっという間に広まり、社内にいれば同僚達が瑞穂についてヒソヒソと話をしているのを耳にした。
「豊嶋さんって、ちょっとヤバくない?」
「新しく入った人に因縁つけたりして。あんな人だと思わなかった」
針のように刺さる視線に、居心地の悪さを思えた瑞穂は、急いで広報部のフロアへ戻る。
デスクへ付くと、額に手を当てて大きなため息を吐いた。
――さすがに学生時代のようなことは起きないだろう……なんて。これじゃあ、学生の頃と変わらないじゃないか。
そうだ、人なんて簡単には変わらないのだ。
ガチャッと椅子を引く音がして、ハッとした瑞穂は顔を上げる。
ちょうど、昼休みの時間に入ったところだ。
梶と忽那が一緒に席を外そうとしているのを見て、瑞穂は呼び止める。
「……梶さん、忽那さん」
しかし、ふたりは振り向きもしないで行ってしまう。
こんなの地獄だ……。
「豊嶋先輩、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ?」
デスクに残っていた総太朗が、心配そうな顔をして声を掛けてくる。
「ううん、別に何でもないよ。大したことないから」
瑞穂は返事をしたつもりだったが、まるで自分に言い聞かせるみたいな言葉だった。
「……南澤さん、お疲れ様です」
不意に和真の名前が聞こえてきて、勢いよく席を立った瑞穂は、出入口の方を見る。
通路にいる和真は、誰かとお喋りをしているみたいだ。
いてもたってもいられず、瑞穂はそちらへ駆けていく。
「南澤さん、ちょっといいですか?」
有無を言わさず和真を捕まえ、給湯室へ連れ込んだ。
「和真、今まで何してたの?」
聞きたいことは山のようにある。
「電話しても出ないし、メッセージも未読無視して。休日の間はどこに行ってたの? なんで帰ってこなかったの?」
「仕事中だろ。話しかけてくるなよ」
「ルカの家にいたの? ねえ、どういうことなの?」
瑞穂が腕に縋り付くと、それを振り払った和真は眉間にシワを寄せ、険しい顔をしていた。
今まで一度も見たことがない表情だ。
「俺は、瑞穂に失望したんだ」
蔑むような目を向けられ、戸惑う瑞穂は問いかける。
「失望? 何に?」
返事もろくにせず、和真はその場を後にする。
彼のその背中に向かって、瑞穂は必死に呼びかける。
「今日の夜、話がしたい。だから、ちゃんと帰ってきて」
その声が届いていたかはわからない。
追いかけようか迷っていると、和真と入れ違いでやって来た女性社員が、瑞穂に声を掛けてくる。
「豊嶋さん、ちょっといいですか? 相談したいことがあるんです」
彼女は、リニューアル商品企画チームのリーダーの白川だ。
今の瑞穂は相談に乗れるほど心に余裕はなかったが、白川があまりに深刻そうな顔をしていたので、話を聞かないわけにはいかなかった。
「白川さん、どうしたの?」
「先日、チーム内でポップのデザインと商品説明の案を募ったんです」
周囲をキョロキョロと見回した白川は、誰もいないことを確認すると、瑞穂のそばへ寄ってきて、ファイルを広げて見せる。
「これ、織田さんの案なんですけど……」
どうやら、ルカが考えたデザイン案に問題があったみたい。
一瞥しただけで、瑞穂は何がいけないのかすぐにわかった。
「……イラストがAIですね」
「やっぱり! わかりますよね?」
どこかで見たような女の子のイラストと、言い回しが絶妙におかしい文章は、AIで作成したときの特徴だった。
「商品説明もAIを使ってるんじゃないかな」
「そっちもですか?」
白川は、額に手を当てて俯く。
「これって、このまま使うとマズいですよね?」
「AI使うと著作権引っかかると思う。コンプラ研修で聞いたことがあるわ」
「ですよね……」
「あっ、でも、デザイン制作部に持っていって説明したら、上手く描き直してくれるんじゃない?」
力なく項垂れる白川に、瑞穂は改善策を提示した。
しかし、そうはいかない事情がある様子。
「実は、人事部の部長が“織田さんの案を使え”って言いに来て。それで、織田さんの案をそっくりそのまま使うって言う方向で決まりそうなんです」
まさか、広報とは関係ない部署の人間に首を突っ込まれるなんて、白川が頭を抱えてしまうのもわかる。
「なんとかしなくちゃないんですけど、どうしたらいいのかわからなくて……」
このままでは、企画がめちゃくちゃになってしまう。
「とりあえず、本人に聞いてみるわ。AIを使ったって本人が言えば、コンプライアンス違反で担当が動くと思うから」
デザイン案を預かった瑞穂は、ルカを探して社内を行く。
次から次へと問題を起こすルカに、ほとほと愛想が尽きていた。
瑞穂は、広報部のフロアでルカを見つけると、デザイン案を突きつける。
「織田さん、このデザイン案、AIを使ってるでしょ?」
ルカは、ムッとした顔をして言い返してくる。
「……アタシ、そんなことしてません!」
あとはふたりで言い合いだ。
「じゃあ、どうやってこのイラストを作成したの? あなたイラストなんて描かないでしょ?」
「瑞穂が知らないだけでしょ。アタシだって、イラストくらい描けるんだからっ!」
同じフロアで業務をしていた社員達が、引き気味にふたりを見ている。
見かねた藤塚課長がふたりの間に入る。
「豊嶋さん、織田さんも、どうしたんだい?」
ルカは、藤塚課長の手を取り縋る。
「アタシのデザイン案に、豊嶋さんが言いがかりを付けてきたんです」
あからさまなボディタッチに、過剰なスキンシップ――昔からそうだ。
そうやって相手に好意を抱かせて、自分の思い通りにしようとするんだ。
「言いがかりじゃありません。AIが使われていないか、確認を取ろうとしていただけです」
「だから、違うって言ってるのに……アタシ、ちゃんと自分で考えたのに……」
両手で顔を覆ったルカは、めそめそと泣き出してしまった。
ただし、どう見ても嘘泣きだ。
「手が空いている人、ちょっとこのデザイン案を確認してくれませんか?」
藤塚課長に言われて、デザイン案の方へ社員達の目が向いた。
次の瞬間、ルカは瑞穂に向かって「ベーッ」と、舌を出してみせた。
腹立たしくて、今すぐにでも引っぱたいてやりたかった。
けれども、そんなことできるはずない。
どんなに酷い目に遭ったとしても、これまで積み上げてきた大事なものを、壊すわけにはいかないから。
瑞穂は、怒りを堪えるしかなかった。
――こんなこと、いつまで続くのだろう。




