⑧
遡ること数時間前。四ツ屋コーポレーションビル一階のセキュリティゲート前で待ち構えていたルカが、何かに気づいて顔を上げる。
仕事を終えて退社する和真が、エレベーターを降りてきたところだ。
「……南澤さーんっ!」
フロアに響く朗らかな声。
ルカは、ピョコピョコ飛び跳ねながら、両手をブンブン振って、和真にアピールをする。
そばにいた社員達はギョッとした顔をしていたが、そんなものはお構いなし。
ルカは、笑顔で和真を手招きする。
周囲の様子を気にしながら、その場へやって来た和真は、遠慮がちにルカに話しかける。
「織田さん? どうしたの?」
ルカとは関わらないと、和真は瑞穂と約束したばかりだったが、
「実は相談があって。瑞穂のことなんですけど……」
深刻そうな顔をされたら、話を聞かずにはいられなかった。
「何? 瑞穂がどうしたって?」
撒いた餌に和真が食いつくと、あとは釣り上げるだけ。
「話したいことがあるので、この後、時間ありますか?」
こうして、ルカの術中に和真はまんまと嵌まってしまったのだった。
***
絶望的な瞬間が、スマホの画面に映し出される。
和真と瑞穂が暮らすマンションの部屋に、ルカが上がり込んでいるのだ。
――どうして? なんでルカがいるの? 和真は? 何があったの?
考えれば考えるほど、悪いことしか浮かばなくて、瑞穂の顔はみるみると青ざめていく。
『瑞穂ったら、こーんな素敵な部屋に住んでるんだね』
リアルタイムで視聴されていると知ってか知らずか、ルカはペットカメラに向かって話しかけてくる。
『いいな~っ。リビングは広いし、カウンターキッチンもオシャレ』
大きめのカッターシャツは、和真のものだろう。
下着の上にカッターシャツを羽織っただけの格好で、ルカは部屋の中をうろうろし始めた。
それには、猫のムギも驚いて逃げ惑っている。
そんな様子を見せられたら、いてもたってもいられない――すぐにでもその場に駆けつけたかった。
けれど、瑞穂は都内にいない。遠く離れた名古屋から、指をくわえて見ていることしかできない。
『ちょっと、これ! このバッグ、アタシも欲しかったの!』
勝手に瑞穂の部屋へ入っていって、無邪気な声を上げて。持ってきたのは、瑞穂が買ったばかりのバッグだった。
『超可愛い! 貰っちゃおうかなっ!』
「止めて! 私のものに手を出さないで!」
店内だというのも忘れて、思わず叫んでしまった。
そんな瑞穂を、総太朗が宥めようとする。
「豊嶋先輩、大丈夫ですか? 落ち着いてください」
落ち着いてなんかいられない……と、大声を張り上げてしまいそうだった。
瑞穂は、今にも泣き出しそうだ。
「ごめん……ちょっと今……その……」
このままでは、大切なものを奪われてしまう。
わかっていても止められない。その歯がゆさから下唇を噛んだ。
その様子を見ているかのように、ルカは楽しそうに瑞穂をあおり続ける。
『だって、瑞穂にはもったいないでしょ? この部屋も、このバッグも、カレシも、会社も、主任って地位も。いいもの持ちすぎ。ねえ? 瑞穂のくせに生意気じゃない?』
これが、ルカの本性だ。
「これって、織田さんですか?」
スマホの画面を見た総太朗が、驚いたような顔をする。
疑うのも無理はない。
普段のルカの清純なイメージとは、まったくの真逆だ。
ふしだらで破廉恥な姿はあまりに不快で、誰だって目を背けたくなるだろう。
『顔だって大したことないし、スタイルなんて芋だし、性格も何もかも全部ブス』
おまけにこの言い草だ。
汚いものでも見るような目をした総太朗が、思わず顔をしかめた。
「酷いですね。最低だ……」
「ルカって、こういう子だよ。明るくて人懐っこい子だって信じて、誰も疑おうとしないんだけどね」
スマホから手を放した瑞穂は、テーブルに伏せる。
「にしても、どうして織田さんが、豊嶋先輩の部屋に?」
「……私、つき合ってる人がいるの。営業部の南澤さん。一年前から同棲してて」
「えっ? 南澤さんって、あの人ですか?」
一瞬、総太朗は怪訝な顔をした。
「豊嶋先輩が南澤さんとつき合っていたとして、この状況は?」
「たぶん、彼がルカを部屋に上げたんだと思う」
返事をしているうちに、少しずつ状況が整理されてきて、冷静さを取り戻してきた瑞穂は、グラスの水を一口飲んでから言う。
「つまり、浮気現場のリアルタイム映像ね」
ルカの格好を見れば、何があったかは明白だ。
『……織田さん、そんなところで何してるの?』
スマホのスピーカーから和真の声が聞こえてきて、瑞穂は再び画面を見る。
リビングへやって来た和真は、下着一枚というとんでもない姿だった。
『別に、何でもないですーっ。南澤さん、飲み過ぎたんじゃないですか?』
『ああ、ちょっと……頭が痛くて……』
フラフラと歩く和真に、ルカがべったりとくっつく。
『ほら、危ないからベッドに戻って』
和真はルカに抱きつき、そのままふたりはキスをした。
あたまを鈍器で殴られたような、強い衝撃が瑞穂を襲う。
たった今、自分の恋人とルカは情事の最中。怒りも嘆きも、あのふたりには届かない。
大きく息を吐いた瑞穂は、スマホの画面を伏せる。
いたたまれない状況を見かねたのか、腕時計を見た総太朗が言う。
「今ならまだ東京に戻れます。明日の始発で新大阪まで出れば、午前の会議には間に合いますよ」
確かに仕事には間に合う。けれど、もう遅いのだ。
「もし、遅延が起きたら? 午後からは、取引先へ挨拶に行く予定でしょう? 大事なうち合わせに穴を開けられないわ」
「そのときは、僕がなんとかします!」
総太朗の必死の訴えに、瑞穂は首を横に振った。
「……そんな無責任なことできないよ」
たったひとつの判断ミスで、仕事が不意になることだってある。
これまで頑張ってきたのは、瑞穂だけではない。
今抱えている仕事には、同じ部署の梶や忽那、総太朗、他部署の人たちや関連企業の人たち、一緒に仕事をしてくれる関係者……たくさんの人が関わってきたのだ。
「豊嶋先輩? どこへ……」
テーブルにお代を置いて席を立った瑞穂は、総太朗に背を向ける。
「ホテルに戻るわ。明日の準備しなくちゃ」
「でも、このまま放っておいていいんですか?」
引き留めようとした総太朗の手を、瑞穂は払いのける。
「どのみち、戻ってももう遅いから」
ルカに狙われたものは、必ず奪われる。
友達でも、恋人でも、家族すらも……どんな手を使ってでも、ルカは奪い取っていく。
それを、瑞穂は嫌というほど知っていた。
ホテルの部屋へ戻った瑞穂は、スマホを手に取り電話をかける。相手は和真だ。
プルルルル……と、呼び出し音が何度鳴っても、電話は繋がることはない。
そのうちプツンと音がして、留守電に切り替わってしまった。
「――ただいま電話に出ることができません……」
ベッドにグッタリと倒れこむと、布団にくるまった。
灯りも付いていない部屋で、瑞穂はひとり泣いた。
翌日の朝早く、新幹線で大阪へ出た瑞穂と総太朗は、四ツ屋コーポレーションの大阪支社を訪れた。
名古屋支社でのスケジュールとほぼ変わらず、この日もうち合わせや挨拶回りに奔走。
オススメのランチの店に総太朗を案内することはできず、結局コンビニで買ったおにぎりを食べるはめになった。
総太朗がずっと様子を気にしてくれていたが、瑞穂は昨晩の出来事はなかったかのように仕事に励んだ。
そうしてすべての業務を終えて、夜には東京まで戻って来た。
マンションの前まで来た瑞穂は、タクシーを降りてスーツケースを受け取る。
「成瀬くん、領収書は任せるわね」
同乗していた総太朗は、このままタクシーで帰宅する予定だったが、瑞穂を心配しているのか、わざわざエントランスまで付き添ってくれた。
「本当に大丈夫ですか? 僕も一緒に行きましょうか?」
「平気。プライベートなことだし、自分でなんとかするから」
瑞穂はもうボロボロだったが、どうにか笑ってみせる。
「ごめんね、成瀬くんは関係ないのに……」
総太朗は悲しそうな顔をして、瑞穂を見送る。
「……それじゃあ、お疲れ様でした」
スーツケースを引いて、エレベーターに乗り込んだ瑞穂は、和真の待つ部屋へと急ぐ。
エレベーターが到着すると、共有通路を早足で抜けて部屋の前まで来た。
玄関の扉を開けると中は真っ暗。
「和真! いないの? ねえ、和真!」
呼びかけてみたが返事はない。
部屋には、誰もいないようだ。
「アオーアオー」と、猫のムギの遠吠えのような鳴き声が聞こえてくる。
「……ムギ……ムギ! どこにいるの?」
瑞穂が名前を呼ぶと、廊下に顔を出したムギが、そろりそろりと歩いてくる。
上目づかいで瑞穂を見上げて、ムギは警戒しているみたい。
「ごめんね、ムギ!」
荷物をその場に置いて、ムギを抱き上げた瑞穂は、リビングへ向かう。
ムギのご飯皿は空っぽで、お水もほとんどなくなっていた。
和真は、ムギの世話を放棄したのだろう。
ご飯とお水を与えると、ムギは慌ててご飯を食べ始めた。
猫の世話を一通り終えると、自分の部屋に戻った瑞穂は愕然とした。
クローゼットの扉は開けっぱなし、ドレッサーには化粧品が散らかしっぱなし、ベッドの上には服が散乱していた。
出張前にはきちんと綺麗にしてあったのに――ルカの仕業だ。
部屋には物色された形跡があった。
「ない……バッグがない……」
バッグが抜き取られた箱を見た瑞穂は、腹立たしいやら、泣きたいやら……もうめちゃくちゃ。
あの映像のとおり、ルカは部屋に上がって、好き勝手していたわけだ。
瑞穂は、自分の部屋を後にすると、今度は和真の部屋へ向かう。
扉の前で一度立ち止まって、ドアノブを持つ手を止めて、何度かためらいもしたが、そのうち扉を開けて中を覗いてみた。
誰もいない部屋の中には甘ったるい香水の匂いが漂っていて、グチャグチャのなったシーツが生々しく残されていた。
夢でも幻でもなく、本当にあのふたりは……吐き気をもよおした瑞穂は、和真の部屋を後にする。
その日、和真は部屋に戻って来なかった。




