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遡ること数時間前。四ツ屋コーポレーションビル一階のセキュリティゲート前で待ち構えていたルカが、何かに気づいて顔を上げる。


仕事を終えて退社する和真が、エレベーターを降りてきたところだ。


「……南澤さーんっ!」


フロアに響く朗らかな声。

ルカは、ピョコピョコ飛び跳ねながら、両手をブンブン振って、和真にアピールをする。

そばにいた社員達はギョッとした顔をしていたが、そんなものはお構いなし。

ルカは、笑顔で和真を手招きする。


周囲の様子を気にしながら、その場へやって来た和真は、遠慮がちにルカに話しかける。


「織田さん? どうしたの?」


ルカとは関わらないと、和真は瑞穂と約束したばかりだったが、


「実は相談があって。瑞穂のことなんですけど……」


深刻そうな顔をされたら、話を聞かずにはいられなかった。


「何? 瑞穂がどうしたって?」


撒いた餌に和真が食いつくと、あとは釣り上げるだけ。


「話したいことがあるので、この後、時間ありますか?」


こうして、ルカの術中に和真はまんまと嵌まってしまったのだった。



***



絶望的な瞬間が、スマホの画面に映し出される。

和真と瑞穂が暮らすマンションの部屋に、ルカが上がり込んでいるのだ。



――どうして? なんでルカがいるの? 和真は? 何があったの?



考えれば考えるほど、悪いことしか浮かばなくて、瑞穂の顔はみるみると青ざめていく。


『瑞穂ったら、こーんな素敵な部屋に住んでるんだね』


リアルタイムで視聴されていると知ってか知らずか、ルカはペットカメラに向かって話しかけてくる。


『いいな~っ。リビングは広いし、カウンターキッチンもオシャレ』


大きめのカッターシャツは、和真のものだろう。

下着の上にカッターシャツを羽織っただけの格好で、ルカは部屋の中をうろうろし始めた。

それには、猫のムギも驚いて逃げ惑っている。


そんな様子を見せられたら、いてもたってもいられない――すぐにでもその場に駆けつけたかった。


けれど、瑞穂は都内にいない。遠く離れた名古屋から、指をくわえて見ていることしかできない。


『ちょっと、これ! このバッグ、アタシも欲しかったの!』


勝手に瑞穂の部屋へ入っていって、無邪気な声を上げて。持ってきたのは、瑞穂が買ったばかりのバッグだった。


『超可愛い! 貰っちゃおうかなっ!』


「止めて! 私のものに手を出さないで!」


店内だというのも忘れて、思わず叫んでしまった。

そんな瑞穂を、総太朗が宥めようとする。


「豊嶋先輩、大丈夫ですか? 落ち着いてください」


落ち着いてなんかいられない……と、大声を張り上げてしまいそうだった。

瑞穂は、今にも泣き出しそうだ。


「ごめん……ちょっと今……その……」


このままでは、大切なものを奪われてしまう。

わかっていても止められない。その歯がゆさから下唇を噛んだ。

その様子を見ているかのように、ルカは楽しそうに瑞穂をあおり続ける。


『だって、瑞穂にはもったいないでしょ? この部屋も、このバッグも、カレシも、会社も、主任って地位も。いいもの持ちすぎ。ねえ? 瑞穂のくせに生意気じゃない?』


これが、ルカの本性だ。


「これって、織田さんですか?」


スマホの画面を見た総太朗が、驚いたような顔をする。

疑うのも無理はない。

普段のルカの清純なイメージとは、まったくの真逆だ。

ふしだらで破廉恥な姿はあまりに不快で、誰だって目を背けたくなるだろう。



『顔だって大したことないし、スタイルなんて芋だし、性格も何もかも全部ブス』



おまけにこの言い草だ。

汚いものでも見るような目をした総太朗が、思わず顔をしかめた。


「酷いですね。最低だ……」


「ルカって、こういう子だよ。明るくて人懐っこい子だって信じて、誰も疑おうとしないんだけどね」


スマホから手を放した瑞穂は、テーブルに伏せる。


「にしても、どうして織田さんが、豊嶋先輩の部屋に?」

「……私、つき合ってる人がいるの。営業部の南澤さん。一年前から同棲してて」

「えっ? 南澤さんって、あの人ですか?」


一瞬、総太朗は怪訝な顔をした。


「豊嶋先輩が南澤さんとつき合っていたとして、この状況は?」

「たぶん、彼がルカを部屋に上げたんだと思う」


返事をしているうちに、少しずつ状況が整理されてきて、冷静さを取り戻してきた瑞穂は、グラスの水を一口飲んでから言う。


「つまり、浮気現場のリアルタイム映像ね」


ルカの格好を見れば、何があったかは明白だ。



『……織田さん、そんなところで何してるの?』



スマホのスピーカーから和真の声が聞こえてきて、瑞穂は再び画面を見る。

リビングへやって来た和真は、下着一枚というとんでもない姿だった。


『別に、何でもないですーっ。南澤さん、飲み過ぎたんじゃないですか?』

『ああ、ちょっと……頭が痛くて……』


フラフラと歩く和真に、ルカがべったりとくっつく。


『ほら、危ないからベッドに戻って』


和真はルカに抱きつき、そのままふたりはキスをした。

あたまを鈍器で殴られたような、強い衝撃が瑞穂を襲う。


たった今、自分の恋人とルカは情事の最中。怒りも嘆きも、あのふたりには届かない。


大きく息を吐いた瑞穂は、スマホの画面を伏せる。

いたたまれない状況を見かねたのか、腕時計を見た総太朗が言う。


「今ならまだ東京に戻れます。明日の始発で新大阪まで出れば、午前の会議には間に合いますよ」


確かに仕事には間に合う。けれど、もう遅いのだ。


「もし、遅延が起きたら? 午後からは、取引先へ挨拶に行く予定でしょう? 大事なうち合わせに穴を開けられないわ」

「そのときは、僕がなんとかします!」


総太朗の必死の訴えに、瑞穂は首を横に振った。


「……そんな無責任なことできないよ」


たったひとつの判断ミスで、仕事が不意になることだってある。

これまで頑張ってきたのは、瑞穂だけではない。

今抱えている仕事には、同じ部署の梶や忽那、総太朗、他部署の人たちや関連企業の人たち、一緒に仕事をしてくれる関係者……たくさんの人が関わってきたのだ。


「豊嶋先輩? どこへ……」


テーブルにお代を置いて席を立った瑞穂は、総太朗に背を向ける。


「ホテルに戻るわ。明日の準備しなくちゃ」

「でも、このまま放っておいていいんですか?」


引き留めようとした総太朗の手を、瑞穂は払いのける。


「どのみち、戻ってももう遅いから」


ルカに狙われたものは、必ず奪われる。

友達でも、恋人でも、家族すらも……どんな手を使ってでも、ルカは奪い取っていく。

それを、瑞穂は嫌というほど知っていた。



ホテルの部屋へ戻った瑞穂は、スマホを手に取り電話をかける。相手は和真だ。

プルルルル……と、呼び出し音が何度鳴っても、電話は繋がることはない。


そのうちプツンと音がして、留守電に切り替わってしまった。


「――ただいま電話に出ることができません……」


ベッドにグッタリと倒れこむと、布団にくるまった。

灯りも付いていない部屋で、瑞穂はひとり泣いた。




翌日の朝早く、新幹線で大阪へ出た瑞穂と総太朗は、四ツ屋コーポレーションの大阪支社を訪れた。


名古屋支社でのスケジュールとほぼ変わらず、この日もうち合わせや挨拶回りに奔走。

オススメのランチの店に総太朗を案内することはできず、結局コンビニで買ったおにぎりを食べるはめになった。


総太朗がずっと様子を気にしてくれていたが、瑞穂は昨晩の出来事はなかったかのように仕事に励んだ。


そうしてすべての業務を終えて、夜には東京まで戻って来た。




マンションの前まで来た瑞穂は、タクシーを降りてスーツケースを受け取る。


「成瀬くん、領収書は任せるわね」


同乗していた総太朗は、このままタクシーで帰宅する予定だったが、瑞穂を心配しているのか、わざわざエントランスまで付き添ってくれた。


「本当に大丈夫ですか? 僕も一緒に行きましょうか?」

「平気。プライベートなことだし、自分でなんとかするから」


瑞穂はもうボロボロだったが、どうにか笑ってみせる。


「ごめんね、成瀬くんは関係ないのに……」


総太朗は悲しそうな顔をして、瑞穂を見送る。


「……それじゃあ、お疲れ様でした」


スーツケースを引いて、エレベーターに乗り込んだ瑞穂は、和真の待つ部屋へと急ぐ。

エレベーターが到着すると、共有通路を早足で抜けて部屋の前まで来た。

玄関の扉を開けると中は真っ暗。


「和真! いないの? ねえ、和真!」


呼びかけてみたが返事はない。

部屋には、誰もいないようだ。


「アオーアオー」と、猫のムギの遠吠えのような鳴き声が聞こえてくる。


「……ムギ……ムギ! どこにいるの?」


瑞穂が名前を呼ぶと、廊下に顔を出したムギが、そろりそろりと歩いてくる。

上目づかいで瑞穂を見上げて、ムギは警戒しているみたい。


「ごめんね、ムギ!」


荷物をその場に置いて、ムギを抱き上げた瑞穂は、リビングへ向かう。

ムギのご飯皿は空っぽで、お水もほとんどなくなっていた。

和真は、ムギの世話を放棄したのだろう。

ご飯とお水を与えると、ムギは慌ててご飯を食べ始めた。


猫の世話を一通り終えると、自分の部屋に戻った瑞穂は愕然とした。

クローゼットの扉は開けっぱなし、ドレッサーには化粧品が散らかしっぱなし、ベッドの上には服が散乱していた。


出張前にはきちんと綺麗にしてあったのに――ルカの仕業だ。


部屋には物色された形跡があった。



「ない……バッグがない……」



バッグが抜き取られた箱を見た瑞穂は、腹立たしいやら、泣きたいやら……もうめちゃくちゃ。

あの映像のとおり、ルカは部屋に上がって、好き勝手していたわけだ。


瑞穂は、自分の部屋を後にすると、今度は和真の部屋へ向かう。

扉の前で一度立ち止まって、ドアノブを持つ手を止めて、何度かためらいもしたが、そのうち扉を開けて中を覗いてみた。


誰もいない部屋の中には甘ったるい香水の匂いが漂っていて、グチャグチャのなったシーツが生々しく残されていた。


夢でも幻でもなく、本当にあのふたりは……吐き気をもよおした瑞穂は、和真の部屋を後にする。



その日、和真は部屋に戻って来なかった。



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