⑥
「あー……ごめんね、織田さんと一緒の班に入るって、約束してるから」
それは高校二年生の初夏、クラスで修学旅行のグループ決めをしていたときのこと。
先に何人かに声を掛けていたはずだったが、なぜかみんな約束を反故にし、瑞穂の元を去って行った。
「私も織田さんと組むから」
ずっと仲良くしていた友達も、ルカのもとへ行ってしまう。
「ええっと……」
他の誰かに声を掛けたくても、みんな瑞穂のそばから離れいく。
まるで示し合わせて、近づかないようにしているみたい。
気がつくと、瑞穂は教室の真ん中にぽつんとひとりで立っていた。
辺りには、クスクス、クスクスと、嫌な笑い声が響いている。
「あの子ひとりだよ」
「可哀想」
「誰か入れてあげなよ?」
「やだよ」
悪意に満ちた言葉が教室中に充満して、聞くに堪えられずに瑞穂は両手で耳を塞いだ。
――あのときのことを、大人になった今、不思議と鮮明に思い出していた。
***
「瑞穂、今朝からずっとぼんやりしてるけど、何かあった?」
和真に声をかけられて、ハッと我に返った。
瑞穂は車の助手席に座っていて、和真の運転で彼の実家へ向かっているところだった。
「体調が悪いなら、今日は実家へ行くのはやめておこうか?」
瑞穂は適当な理由で誤魔化して、和真との会話を続ける。
「ううん、平気。ちょっと緊張してるだけ」
「俺の実家なら、前にも来たことあるだろ」
「結婚の挨拶をするんだから、緊張するでしょ?」
「いや、別に、瑞穂がうちの親に“婿にください!”って、言うわけじゃないから」
「そうなの? 言うつもりだったのに」
冗談を言って、笑い合って、その場はやり過ごす。
和真の実家の前で車が停まったそのとき、そばを歩いていた若い男性が手を振ってくる。
「和真、誰? 知り合い?」
「同級生だよ。中学と高校が一緒だった」
「そう……同級生ね……」
「そういえば、昨日あの子に話しかけられたよ。瑞穂の部署に新しく入った、織田さんだった?」
どうして突然、ルカが話題に挙がるのだろう。
瑞穂は訝しげな顔をする。
「何で今、織田さんの話をするの?」
「高校と大学で友達だって聞いたからさ。仲良かったのかなって思ってさ」
正直にルカについて不安だと話せばよかったのだが、そうなれば昔のことを和真に話さなくてはいけなくなる。
ルカについて説明したところで、信じてもらえるかわからない。
それに、わずらわしいと思われるかもしれない――それだけは避けたい。
今は、結婚に向けた大事な時期だから。
「うーん、まあまあ仲良しかな……」
瑞穂は、ルカについて曖昧に返事をしておいた。
「瑞穂、着いたよ。お土産忘れないようにしろよ」
閑静な住宅街の一軒家。車を降りた瑞穂は、広い敷地に建てられた邸宅を見て、ついため息を吐いてしまう。
「いつ見ても素敵な家だね」
「そうかな? 俺は見慣れてるから、何とも思わないなあ」
門を開けた和真は、さっさと玄関へ向かう。
その後に続いて、瑞穂も家へ上がった。
「ただいまーっ。母さん、いるんだろ?」
和真が呼びかけると、家の奥から出てきた和真の母が、笑顔で瑞穂を出迎える。
「いらっしゃい。瑞穂さん、どうぞ上がってください」
スリッパに履き替えた瑞穂は、和真の母の元へ挨拶に向かう。
「ご無沙汰しています。お元気でいらっしゃいましたか?」
「ええ、主人も私も病気ひとつせず、ピンピンしているわ」
「それならよかったです……あの、たいしたものではないんですけど、よければ召し上がってください」
瑞穂は、用意していたお土産を和真の母に差し出す。
「まあ、私の好きな柳月堂の和菓子かしら?」
受け取った和真の母は、家の奥に向かって声を掛ける。
「貴方―っ! 和真と瑞穂さんが来てるわよ。お茶にしましょう。瑞穂さん、こちらへどうぞ」
リビングへ案内された瑞穂は、ピシッと背筋を伸ばしてソファーに座る。
車内で和真と話していた“緊張してる”は冗談だったが、実際にこの場に来てみれば、緊張しない方がおかしい。
隣には結婚を約束した恋人。その両親が、テーブルを挟んで向かい側に座っているのだ。
「瑞穂さんがお嫁に来てくれるなら、私達も安心だわ。ねえ、あなた」
「そうだな。素敵な女性と出会えて、和真は幸せ者だな」
終始笑顔の両親に対して、和真も満足そうな顔をしている。
「今度、両家で顔合わせしようって話してたんだ。父さんも母さんも、どうかな?」
話はトントン拍子に進んでいく。
「そうね。ぜひ、瑞穂さんのご両親に会ってみたいわ」
「そうだな。お父様のお仕事は? お母様は専業主婦かい?」
和真の父の問いに、瑞穂が答える。
「……父は公務員です。母は、少し前までは会社員をしていましたが、今は退職して家にいます」
大丈夫、順調にいっている……と、瑞穂は心に言い聞かせる。
けれども、心配でしかたなくておかしくなりそうなのは、仕事からプライベートに至るまで、あちらこちらにルカの影を見てしまうからだ。
翌日、社内で仕事していた瑞穂は梶に声を掛ける。
「梶さん、今いい?」
「他の人に頼んでください」
イベントの件で頼みたいことがあったが、内容を言う前に門前払いされてしまった。
「忽那さん……」
「私、忙しいんで」
忽那にいたっては、名前を呼んだだけで、あからさまに嫌悪を露わにした。
梶にも、忽那にも、壁を作られている――この微妙な空気に覚えがあった。
瑞穂は、ざわめく胸を両手で押さえる。
「ねえ、瑞穂ーっ。アタシにも仕事ちょうだい!」
ルカに詰め寄られた瑞穂は、思わず視線をそらす。
「織田さんは、今日も部署内の仕事に同行してもらいます」
「またそれっ!? 広報部って、もっとキラキラした職場なんだと思ってた。アタシ、派手で目立つ仕事がしたいなぁ~」
正直なのはいいが、それを押し通せばただの自己中だ。
「みんなコツコツ努力してるの。織田さんも頑張って」
瑞穂がルカに手を焼いていると、総太朗が助け船を出してくれる。
「豊嶋先輩、今日は僕が織田さんの指導につきます」
すると突然、ルカが瑞穂の腕を掴んで引っ張る。
「瑞穂、ちょっと来て!」
「織田さん? 何?」
少し離れたところまで来ると、ルカは言う。
「指導役は、あの人以外にして」
瑞穂は、思わずぽかんとする。
「えっ? どうして?」
ルカは、総一朗に対して嫌悪感を露わにする。
「あのキモオタ眼鏡、昔、勘違いしてつきまとってきた奴に似てるの」
いつもとは明らかに違う態度だ。
フンッとそっぽを向いたルカは、ポツリと呟く。
「……あのブサイク、マジで無理」
これには、瑞穂も黙っていられなかった。
「彼は礼儀正しくて、人にも商品にも誠実で、信頼できる人だよ」
総太朗を知っている人なら、誰でも同じように反論しただろう。
しかし、それをルカは面白がっているみたい。
「何? 瑞穂、もしかして成瀬さんのこと好きなの?」
ありもしないことで茶化そうとしてくる。
「そういうことじゃなくて! 同じ職場で働く同僚として、尊敬してるっていってるの!」
「えーっ、やだ、豊嶋さん、怒らないでっ」
こんなの、まともに対応してもしかたない。
そう判断した瑞穂は、ルカをその場に残し、総太朗のもとへ向かう。
「ごめんね、成瀬くん。聞こえてたよね? 織田さんには、別の人についてもらうから」
「豊嶋先輩が謝る必要ないですよ。僕は平気ですから、織田さんのことは任せてください」
総太朗と話をしていると、そこへ藤塚課長が声をかけてくる。
「豊嶋さん、成瀬くん、リニューアル商品の宣伝企画の件で相談があるんだ」
藤塚課長が持ってきたのは、リニューアル商品の宣伝企画チームの招集を知らせる案内書類だった。
「今のチームは関係なくて、広報部内から選抜で誰か出すようにと言われていてね」
瑞穂が案内書類を受け取ろうとしたそのとき、ルカが横からそれを奪っていく。
「はいっ! アタシ、やります!」
ルカが立候補すると、瑞穂が慌てて止める。
「織田さんは、業務に慣れてもらうのが優先で……」
「何? アタシには早いって言いたいの?」
実際、まだ早すぎる案件だ。
広報部の基本的な業務すら、まともに覚えられていないのに……。
「焦らなくても、業務に慣れたらいろいろな役が回ってくるから」
瑞穂に参加を反対されると、ルカはプクッと頬を膨らませる。
「課長! 豊嶋さんが意地悪してきます!」
子どもじゃあるまいし、上司の課長相手に失礼だろう。
そう思っていると、立ち上がった梶が藤塚課長に言う。
「織田さんは頑張っているので、参加させてもいいんじゃないですか?」
ルカを擁護するような言葉に、瑞穂は驚いてしまった。
しかし、梶だけではない。
席に座っていた忽那も、ポソッと呟く。
「確かに。やる気がある人に仕事を与えないなんて、ただの妨害じゃん」
こちらは完全に、瑞穂を否定する言葉だった。
これまでずっと協力し合ってきた仲間から、突き放されるような態度を取られてショックを受けた瑞穂は、もう何も言えなくなってしまった。
「この件は、また後日話し合いましょう。それより、豊島さんは週末出張でしたよね?」
「はい、そうです」
「九州支社は私が行きますから、名古屋支社と大阪支社はよろしくお願いします」
「はい、ありがとうございます」
返事をするのがやっとの瑞穂に、ルカは追い打ちを掛けようというのか、嫌みな言葉を投げつける。
「……自分だけいい仕事もらって」
すれ違いざまに、クスッと瑞穂のことを鼻で笑って、
「課長、リニューアル商品企画、アタシ参加します。よろしくお願いします」
そう宣言すると、ルカはさっさとその場を後にした。
「課長、大丈夫ですか?」
「成瀬くん、そうだね。まあ、やる気を買ってみるのもいいんじゃないかな?」
「僕が参加できたら良かったんですけど、タイミングが合わなくて。他に企画に参加しそうな人をあたって、織田さんのことをお願いしておきます」
「そうしてもらえると助かるよ」
藤塚課長と話をしていた総太朗が、不意に瑞穂に問いかける。
「……豊嶋先輩?」
「ごめんね、ちょっと席外すね」
気分が悪くなった瑞穂は、トイレへ向かおうと広報部のフロアを後にする。
すると、給湯室でルカと梶がお喋りをしていた。
瑞穂が話しかけようか迷っていると、ドンッと肩をぶつけられる。
その場を通り抜けて、給湯室へ入っていったのは忽那だった。
「梶さん、織田さん! 何話してるんですか?」
給湯室からは、三人の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
自分の知らないところで、ルカが何かしようとしている……いいや、すでに何か動き出しているのかもしれない。
――瑞穂の中で、不安はどんどん膨らんでいった。




