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中途採用の手続きやオリエンテーションで別行動を取っていたルカが、本格的に業務に就くことになったのは入社数日後のことだ。


午前中は広報部での基本的な業務を瑞穂がルカに教え、午後からは他の社員の仕事にルカを同行してもらう予定でいた。


「豊嶋さん、キャンペーンの件でイベント会社とのうち合わせに行ってきます」

「じゃあ、織田さんを連れてってもらえる?」


ルカの指導役は、梶が担当することになった。


「織田さん! 梶さんのうち合わせに同行して!」


指示を飛ばしながら、瑞穂は荷物をまとめる。


「豊嶋さんは、今日はグローリアスプロダクションですか?」


「ええ、完成したポスターと商品見本を持って行ってくるわ。イベントでの配布物の最終確認が取れたら、すぐに連絡するから」


グローリアスプロダクションは、今回CM出演するタレントの如月悠聖が所属する、タレント事務所だ。



「えっ!? アタシ、そっちに行きたい!」



突然ガラッと椅子を引いて立ち上がったルカが、瑞穂を指差す。

正確に言うと、瑞穂が持っていたポスターを指していたのだが……。


「瑞穂、それって如月悠聖でしょ?」

「そうだけど、何?」

「アタシ、如月悠聖のファンなの」


ルカは、目をキラキラ輝かせながら言う。



「いいなーっ、アタシも如月悠聖に会いたいなぁ」



しかし、仕事に私情を挟むのは御法度だ。


「遊びに行くわけじゃないの。事務所には、成瀬くんに同行してもらうから」


少し強めに注意すると、ルカがぽつりと呟く。



「瑞穂って、相変わらず頭固い……」



笑顔の裏に垣間見えた狂気。瑞穂は、ゾクゾクと背筋を震わせる。


「……ええっと、ルカ?」


瑞穂が様子をうかがうように顔を覗き込むと、ルカは唇を尖らせる。


「えーっ、残念! 会いたかったなぁ、如月悠聖!」


さっきの悪寒は、気のせいだったのだろうか。


「イケメン好きの私が、初めて“この人だっ!”って思ったのが、如月悠聖! 超カッコいいんだからっ!」


ルカが騒いでいると、通りすがりの忽那がフッと笑みをこぼす。


「織田さん、正直すぎ。まあ、推しに会いたいのはわかるけどね」

「でしょう? 会いたいよね?」

「私もこの前、ファンミに行ってきましたよ。推し、マジでかっこよかったです」

「ええっ、なになに? どこのグループ?」


ふたりは意気投合したみたい。


「豊嶋主任、織田さんですけど、午前中は梶さんに同行するなら、午後は私が企画開発部へ案内しますね」

「忽那さん、ありがとう。それじゃあ、よろしくね」


忽那にルカを任せて、瑞穂は予定通り総太朗と一緒に会社を後にした。



***



タレント事務所へ着くと、案内されたガラス張りの商談ブースで、瑞穂は荷物を置いて一息吐く。


「……先輩、大丈夫ですか? このところずっと、疲れてるように見えるんですけど?」

「まあね、アラサーだからね。坂道はきついわ」

「いいえ、体力の衰えの話じゃなくて精神的な話です」


隣の席に座った総太朗は、瑞穂を心配しているみたい。


「何か困っていることがあるとか、不安なことがあるんじゃないですか?」


ルカと再会して以来、瑞穂は何かと気苦労が絶えなかった。

いつどこでルカが何をしでかすか……ただたんに考えすぎなのかもしれないけれど、そのせいでのびのびと仕事をする余裕はなくなっていた。


けれど、瑞穂は平静を装う。

同僚で後輩の総太朗に、個人的な悩みを相談するわけにはいかないからだ。


「特にないかな。プライベートも仕事も順調だしね」


適当な言葉で誤魔化して、その場を収めた。


「それより、成瀬くん。あの名刺は持ってきた?」

「はい、ありますよ」


瑞穂と総太朗が話をしていると、タレント事務所の営業担当が、商談ブースへやって来る。


「本日はご足労いただき、ありがとうございます」

「こちらこそ、お忙しい中お時間を作ってくださって、ありがとうございます」


お互いに挨拶が済むと、企画書をもとに話し合いを進めていく。


「本日は、商品サンプルとポスター、その他販促物をお持ちしました」


瑞穂は、持参したものをテーブルに並べていく。


「こちらは何ですか?」


総太朗が差し出した名刺を、営業担当が手に取る。


「そちらは、メディア向けに行われる新作発表会の後、イベントの際に試供品と一緒に参加者に配布していただくものです」

「名刺ですか……」


「CM撮影の際に、一緒に写真を撮らせていただきました。マネージャーの方には了承を得ましたが、お話は伺っていますか?」


「ああ、はい、聞いてます。これのことだったんですね」

「はい。実は、二種類作成したんですけど……」


話し合いの途中、ガラス壁の向こうを如月が歩いてくるのが見えた。

扉を開けて顔を覗かせた如月は、愛嬌たっぷりの笑顔をみせる。


「……お疲れ様です!」


立ち上がった瑞穂は、如月に頭を下げる。


「お疲れ様です! 如月さん、先日はCM撮影の参加してくださって、ありがとうございました。如月さんのおかげで、とても良いものが撮れました」

「本当ですか? よかった!」


如月が、営業担当から名刺をスッと取り上げる。


「何これ? 俺の名刺?」


その問いに総太朗が答える。


「今度のイベントで配布する販促品です。二種類とも配布するか、どちらかにするか、ご意見をいただいてもよろしいでしょうか?」


如月は、角度を変えてみたり、光を当ててみたりして、二種類の名刺を確認する。


「せっかくだし、サイン入れていい?」


営業担当からマジックを借りて、如月は名刺にサインを書き込む。

二枚を見比べて、そうして一枚を選んだ。


「こっちがいいな。写真の写りがいいし、デザインもオシャレだし」


名刺を受け取った瑞穂は、如月に頭を下げる。


「ありがとうございます! お預かりしますね!」

「よろしければ、サインのデータを別でお送りしましょうか?」


営業担当がそう言うと、如月が頬を膨らませる。


「それじゃあ、今書いたのと違くなっちゃうじゃん!」


それを聞いた瑞穂は、総太朗に問いかける。


「成瀬くん、デザイン制作部ならできるよね?」


できれば、如月の意向を汲んであげたい。

そう思ったのは、瑞穂だけではない。


「大丈夫だと思います。すぐに確認取りますね」


総太朗がデザイン担当へ連絡してOKが出ると、瑞穂と営業担当は一安心。

如月は、総太朗と握手をする。


想定していたよりもずっと良い方向へ、企画が進みそうだ。




タレント事務所を後にした瑞穂と総太朗は、駅までの坂道をゆっくり下っていく。

瑞穂は、ファイルの入ったバッグをギュッと抱きしめたままだ。


「豊嶋先輩、まさか会社までそのままの格好で戻るんですか?」

「もちろん! 如月さんの名刺を落したりしたら大変でしょ?」


名刺を守ろうと必死の瑞穂を見て、総太朗はクスクスと笑い出す。


「前に仕事が好きっていうのは聞きましたけど、どうしてうちの会社だったんですか?」

「どうしてって? 四ツ屋のお菓子が好きだからだよ」


駅前の交差点を信号待ちで立ち止まると、瑞穂は総太朗に昔の話をする。



「子どもの頃、大好きなお菓子があったの」



それはまだ、ほんの幼い頃のことだ。

両親がケンカばかりで、家に居場所がなかった瑞穂は、よくひとりで公園にいた。

どこを見渡しても、幸せそうな親子連ればかりで、ひとりぼっちの瑞穂は、悲しみに暮れていたのだけけれど。


「辛いときや、悲しいとき、そのお菓子を食べると元気になれた。それが、四ツ屋のお菓子だった」


ひとつのお菓子が、瑞穂の救いになったのだ。


「そのお菓子は、廃盤になっちゃったんだけどね。でも、四ツ屋のお菓子がずっと大好きで。もっとみんなに知ってもらいたくて、入社以来ずっと広報部を希望してたの」


「そうだったんですね」

「話してみた後で言うのもなんだけど、たいした理由じゃなくてごめんね」


気恥ずかしくなった瑞穂は、信号が青に変わるとすぐ歩き出す。

そんな瑞穂に向かって、総太朗が言う。



「四ツ屋のお菓子を好きになってくれて、ありがとうございます」



その言葉に違和感を覚えた瑞穂は、立ち止まって振り返る。


「成瀬くん、今、なんて言ったの?」

「好きなことを仕事にするって、素敵なことだと思いますよ」


瑞穂のもとへ駆けてきた総太朗は、穏やかで優しい笑みをみせた。




ふたりが出かけてから会社へ戻るまで、まだ半日も経っていないのに、その頃にはルカはすっかり部署に馴染んでいて、同じチーム以外の社員とお喋りをしていた。


「ただいま戻りました」


瑞穂は、デスクに置かれていたイベント会社からもらってきたであろう資料を見つけると、梶に声を掛ける。


「梶さん、資料ありがとうございます。イベント会社の方はどうだった?」


すると、デスクでパソコンを使って作業をしていた梶が、ピタリと手を止める。


「……特に問題ありませんでした」


一瞬、返事をするのに間が空いた。

それが気になって、瑞穂は梶に問いかける。


「織田さんを任せて大丈夫だった?」


しかし、梶は瑞穂の方を見向きもしないで答える。


「特に問題ありませんでした」


先程から同じ台詞ばかり――どうしてしまったんだろう?

梶の様子に戸惑うばかりだ。

瑞穂は、広報部のフロアへ戻ってきた忽那を呼び止める。


「忽那さん、名刺のデザインの件なんだけど、今いい?」


忽那はなぜ顔をしかめる。


「……いいですけど……何かありました?」


おまけに歯切れが悪い。


そんな忽那の様子をうかがいつつ、瑞穂は如月のサインが入った二種類の名刺を差し出し、採用した方を伝える。


「如月さんが選んで、こっちのデザインになったから」

「えっ? これ、本人のサインですか?」

「ええ、そうなの。現物をこのままデータ化して使うように、成瀬くんがデザイン部と話をしてくれたから。あとは忽那さんに任せてもいい?」


忽那が名刺を受け取った、そのときだ。


「ねえねえ、それってもしかして、如月のサイン!?」


デスクへ戻って来たルカが、忽那の手元を覗き込む。


「そうだって。こっちが採用されたみたいですよ」

「ってことは、こっちは不採用なんだよね?」


ルカは、キラキラした目で名刺に手を伸ばす。



「これ、欲しいっ! アタシにちょうだい!」



驚きの発言に、瑞穂はガタッと勢いよく椅子を引いて立ち上がる。


「ちょっと、織田さん!?」


コンプライアンス的に、完全にアウトだ。


「こういうのは社内秘だから、持ち出しちゃダメなんですよ」


忽那は、企画用のファイルのポケットにしまう。

瑞穂は安堵して椅子に座り直したが、肝が冷える思いだった。

軽く窘められてへそを曲げてしまったのか、ルカが唇を尖らせる。


「えーっ、ケチじゃない?」


この言い草――やっぱり、昔と変わってないのだろう。


「あのね、織田さん……」


ルカの態度が気になって、瑞穂は注意しようとした。

そこへ、人事部の山居〈やまい〉部長が訪ねてくる。


「織田くん、元気にしているかい?」


声を掛けられたルカは、クルリと振り向くと、パッと表情を明るくする。


「部長! アタシに会いに来てくれたんですかっ?」


親子ほどに年の離れたふたりだ。


「何か困っていることはないかい?」

「はい! おかげさまで楽しく仕事できてます~っ!」


山居部長はルカを心配して、広報部へ偵察に来たようだが、ただならぬ雰囲気を感じ取った人もいただろう。

その場にいた社員に山居部長は言う。


「私がヘッドハンティングしたんだ。織田くんをよろしく」


思わぬ牽制に、広報部の社員達は引き気味だ。

たった今しがたルカに注意しようと考えていた瑞穂は、気まずさからさっと俯く。

それを見たルカは、したり顔で瑞穂を見下ろしていた。



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