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退社後、駅前のカフェに寄り道した瑞穂は、改めて奈央と話をする。


「和真ももうすぐ三十だし、私も今年で二十八でしょ? そろそろだよねって、自然とそういう流れになったの」

「そっか~、瑞穂と南澤先輩、とうとう結婚するんだ」


和真との結婚の経緯を聞いた奈央は、ホッとしたような顔をする。


「あの先輩とつき合ってるって聞いたときは、ちょっと心配だったんだよ。うちの会社、社内恋愛に寛容じゃないから」

「……その節はすみません」


社内恋愛にトラブルはつきもの。

ひとつ間違えれば、仕事にも影響が出る。


最悪の場合、どちらかが転勤という事態も起きかねない。

それを避けるために、社内では内緒で交際を続けてきたのだけれど……。

和真が相手となれば、超えなくてはいけない苦労が山ほどあった。


「先輩ってモテるでしょ? そういう噂も絶えなかったからさ。バレて乱闘が始まるんじゃないかって、ヒヤヒヤだったよ」

「さすがに乱闘はしないけどね。でもまあ、つき合ってからもあちこちからアタックされてたし。正直きがきじゃなかったよ」


「別れるかもって、何度か相談されたこともあったもんね」


瑞穂が和真と女子社員達を遠巻きに眺めていられるのは、内緒でつき合っている手前そうしているだけで、心に余裕があるわけではない。


むしろ、不安だからこそ結婚を焦っているのだ。


「それで、具体的にいつ籍を入れるの? 結婚式もするんでしょ?」

「そこはまだ、これから話し合うことになってて。せめて、籍は早めに入れたいなって思ってる」


早くゴールインしたい。結婚という確かなものを手にして安心したい――瑞穂は、そんな気持ちでいっぱいだった。


「つき合って三年、いろいろあったけど。ようやく落ち着けそうだよ」

「結婚してからも大変だよ~。うちのお姉ちゃんも、しょっちゅう愚痴りに帰ってくるよ。お姑さんがかなりアクが強いらしくてさ。毎日修羅場だって」

「そこは大丈夫そう。ご両親とは会ったことがあって。お義母さん、すごく優しくていい人なんだ」

「じゃあ、嫁姑関係は問題なさそうだね」


和真との結婚に、まったく問題がないとは言い切れない。


「あちらのご両親は、大丈夫そうなんだけど。どちらかというと、うちの方が……ね」

「瑞穂んち? 何かあったんだっけ?」

「今話してたアクが強い姑さんよりも、問題あるかもしれない」

「えっ、そんなに?」

「……うん」


家族のことを思い出したら、途端にゲッソリとしてしまった。

そんな瑞穂の肩を、奈央がポンッと叩いた。


「なんだかんだ言っても、当人同士が幸せなら、それでいいんだよ」


奈央の言葉が身に染みて、瑞穂はジーンときてしまった。


「そうだよね。これからのことは、和真とふたりで決めていけばいいよね」

「これまで苦労した分、いーっぱい幸せになるんだよ!」

「ありがとう、奈央」


ふと視線を向けた窓の外、買い物袋を提げて腕を組みながら歩く、若い夫婦が通り過ぎる。

あんなふうに穏やかになれたらいいと、瑞穂は切に願っていた。




奈央と別れてから買い物を済ませ、マンションへ戻ったのは、ちょうど十九時を過ぎた頃。

帰宅した瑞穂は、キッチンで夕飯の支度をしていた。

2LDKの部屋はそこそこ古かったが、オシャレにリノベーションされていて、ふたりで住むには広さも丁度いい。



――ふたり? いいや、ふたりと一匹だ。



リビングの隅に設置されたキャットタワーから、猫のムギがピョンと飛び降りて、キッチンの方へかけてくる。


「ムギ、どうしたの?」


ルディカラーのふわふわのボディに、ふさふさの長い尻尾が特徴的。

「ニャー」と返事をしたムギは、瑞穂の足にすり寄ったかと思うと、エプロンの紐に飛びかかる。


「ちょっと、ムギ! それ、おもちゃじゃないよ!」


いたずらするムギを笑いながら止めようとしていると、ガチャンと扉が開く音が聞こえてくる。

パッと花が咲くみたいに、表情を明るくした瑞穂は、猫を抱えて玄関へ向かう。


「和真、おかえりなさい!」


靴を履き替えていた和真は、優しい笑顔をみせる。


「ただいま、瑞穂」


この瞬間が、瑞穂はたまらなく好きだった。


「遅かったね。営業、忙しかった?」

「ああ、取引先とのうち合わせが長引いてさ」

「そうなんだ。お疲れ様」


廊下を歩いて行く和真の後を、瑞穂はピッタリついて歩く。

ムギが和真にじゃれついて、猫パンチをしている。


リビングまで来ると、和真がダイニングの方を見る。

テーブルの上には、ラップのかけられた料理の皿が並べられていた。


「ごはん、作っておいてくれたんだ?」

「うん。和真がお腹空かして帰ってくると思って」


カバンを下ろした和真が、瑞穂を抱きしめる。


「ありがとう、瑞穂」


潰されたムギが「ニャン!」と鳴いて、瑞穂の腕からスルリと抜け出していく。


「ごめんね、ムギ!」

「あれ? もしかして潰した?」


バタンバタンと尻尾を振って、不機嫌に毛繕いを始めたムギを見て、ふたりで笑った。




温かなオレンジ色の灯りに照らされるダイニングで、お喋りをしながらご飯を食べる。

そんなごく普通の、だけど幸せな食卓が、瑞穂の憧れだった。



――今、まさにその最中にいる。



「そういえば、高城さんから連絡があったよ。うちの会社との取引、前向きに考えてくれるって」

「そう、よかったね」

「ありがとう。瑞穂が高城さんと話をしておいてくれたんだろ? おかげで助かったよ」

「ううん、私は何も。前に別の仕事で関わりがあったから、そのときのご挨拶とお礼をしただけだから」


和真は、目を細めて言う。


「瑞穂は最高のパートナーだよ」


それを聞いた瑞穂は、天にも昇る気持ちだ。


「今度、実家に瑞穂を連れてくるように言われてるんだ。一緒に来てくれるだろ?」

「ええ、もちろん。予定空けておくね」


向かい合い、席に着いたふたりは嬉しそうに笑った。


「お土産用意しないと。何がいいかな?」

「それなら、柳月堂の和菓子がいいんじゃないかな? 母さんが好きだって言ってたんだ」

「じゃあ、仕事の帰りに買ってきておくね」


こんな毎日がずっと続けばいい――と思えるほど、瑞穂は順風満帆な人生を送っているはずだった。



***



朝になると一緒にマンションを後にした瑞穂と和真は、電車に乗るタイミングで別れて、それぞれ会社へ向かった。

社内で会ったときには、ふたりはただの先輩後輩。


「南澤先輩、おはようございます」

「ああ、豊嶋さん。おはよう」


瑞穂と和真は、離れてエレベーターに乗る。

すると、それを追うように忽那が駆け込んでくる。


「おはようございます! 豊嶋主任、ちょっと聞いてくださいよ!」


息を切らして、忽那はずいぶんと慌てているようだ。


「……忽那さん、おはよう。どうしたの?」

「さっき人事部の人と話してて知ったんですけど、中途採用の人が入ってくるんですよね?」

「ええ、そうみたい。うちの部署に配属されるって、課長から聞いてるわ」


主任である瑞穂には、人事について先に通達が来ていたのだが。

営業部がある三階で和真がエレベーターを降り、広報部員がふたりきりになったところで、忽那が声を大にして言う。


「なんか、ヘッドハンティングされて来たらしいんですよ、その人!」


他業種から転職してくる人は度々いるが、『ヘッドハンティング』という採用方法を、四ツ屋コーポレーションではあまり聞いたことがなかった。


「よっぽど優秀ってことかな?」

「ですよね。どんな人なんだろう……」


五階でエレベーターを降りた瑞穂と忽那は、首を傾げながら廊下を行く。

広報部のフロアまで来たそのとき、ザワザワと騒がしいことに気づいた。


「豊嶋主任、ヘッドハンティングの人、もう来てるみたいですよ」


集まっていた社員のもとへ、梶が駆け寄る。

広報部課長の藤塚が、中途採用の女性を部署のみんなに紹介していた。

その女性の姿を見た瑞穂は、カタカタと震え出す。


見覚えのある丸顔に、大きめのたれ目、口角の上がった口元。


「広報部企画広報課に配属されることになった、織田ルカさんです」


彼女の名前を聞いた途端に、瑞穂の表情は凍りついた。



――ああ、織田ルカだ……。


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