②
退社後、駅前のカフェに寄り道した瑞穂は、改めて奈央と話をする。
「和真ももうすぐ三十だし、私も今年で二十八でしょ? そろそろだよねって、自然とそういう流れになったの」
「そっか~、瑞穂と南澤先輩、とうとう結婚するんだ」
和真との結婚の経緯を聞いた奈央は、ホッとしたような顔をする。
「あの先輩とつき合ってるって聞いたときは、ちょっと心配だったんだよ。うちの会社、社内恋愛に寛容じゃないから」
「……その節はすみません」
社内恋愛にトラブルはつきもの。
ひとつ間違えれば、仕事にも影響が出る。
最悪の場合、どちらかが転勤という事態も起きかねない。
それを避けるために、社内では内緒で交際を続けてきたのだけれど……。
和真が相手となれば、超えなくてはいけない苦労が山ほどあった。
「先輩ってモテるでしょ? そういう噂も絶えなかったからさ。バレて乱闘が始まるんじゃないかって、ヒヤヒヤだったよ」
「さすがに乱闘はしないけどね。でもまあ、つき合ってからもあちこちからアタックされてたし。正直きがきじゃなかったよ」
「別れるかもって、何度か相談されたこともあったもんね」
瑞穂が和真と女子社員達を遠巻きに眺めていられるのは、内緒でつき合っている手前そうしているだけで、心に余裕があるわけではない。
むしろ、不安だからこそ結婚を焦っているのだ。
「それで、具体的にいつ籍を入れるの? 結婚式もするんでしょ?」
「そこはまだ、これから話し合うことになってて。せめて、籍は早めに入れたいなって思ってる」
早くゴールインしたい。結婚という確かなものを手にして安心したい――瑞穂は、そんな気持ちでいっぱいだった。
「つき合って三年、いろいろあったけど。ようやく落ち着けそうだよ」
「結婚してからも大変だよ~。うちのお姉ちゃんも、しょっちゅう愚痴りに帰ってくるよ。お姑さんがかなりアクが強いらしくてさ。毎日修羅場だって」
「そこは大丈夫そう。ご両親とは会ったことがあって。お義母さん、すごく優しくていい人なんだ」
「じゃあ、嫁姑関係は問題なさそうだね」
和真との結婚に、まったく問題がないとは言い切れない。
「あちらのご両親は、大丈夫そうなんだけど。どちらかというと、うちの方が……ね」
「瑞穂んち? 何かあったんだっけ?」
「今話してたアクが強い姑さんよりも、問題あるかもしれない」
「えっ、そんなに?」
「……うん」
家族のことを思い出したら、途端にゲッソリとしてしまった。
そんな瑞穂の肩を、奈央がポンッと叩いた。
「なんだかんだ言っても、当人同士が幸せなら、それでいいんだよ」
奈央の言葉が身に染みて、瑞穂はジーンときてしまった。
「そうだよね。これからのことは、和真とふたりで決めていけばいいよね」
「これまで苦労した分、いーっぱい幸せになるんだよ!」
「ありがとう、奈央」
ふと視線を向けた窓の外、買い物袋を提げて腕を組みながら歩く、若い夫婦が通り過ぎる。
あんなふうに穏やかになれたらいいと、瑞穂は切に願っていた。
奈央と別れてから買い物を済ませ、マンションへ戻ったのは、ちょうど十九時を過ぎた頃。
帰宅した瑞穂は、キッチンで夕飯の支度をしていた。
2LDKの部屋はそこそこ古かったが、オシャレにリノベーションされていて、ふたりで住むには広さも丁度いい。
――ふたり? いいや、ふたりと一匹だ。
リビングの隅に設置されたキャットタワーから、猫のムギがピョンと飛び降りて、キッチンの方へかけてくる。
「ムギ、どうしたの?」
ルディカラーのふわふわのボディに、ふさふさの長い尻尾が特徴的。
「ニャー」と返事をしたムギは、瑞穂の足にすり寄ったかと思うと、エプロンの紐に飛びかかる。
「ちょっと、ムギ! それ、おもちゃじゃないよ!」
いたずらするムギを笑いながら止めようとしていると、ガチャンと扉が開く音が聞こえてくる。
パッと花が咲くみたいに、表情を明るくした瑞穂は、猫を抱えて玄関へ向かう。
「和真、おかえりなさい!」
靴を履き替えていた和真は、優しい笑顔をみせる。
「ただいま、瑞穂」
この瞬間が、瑞穂はたまらなく好きだった。
「遅かったね。営業、忙しかった?」
「ああ、取引先とのうち合わせが長引いてさ」
「そうなんだ。お疲れ様」
廊下を歩いて行く和真の後を、瑞穂はピッタリついて歩く。
ムギが和真にじゃれついて、猫パンチをしている。
リビングまで来ると、和真がダイニングの方を見る。
テーブルの上には、ラップのかけられた料理の皿が並べられていた。
「ごはん、作っておいてくれたんだ?」
「うん。和真がお腹空かして帰ってくると思って」
カバンを下ろした和真が、瑞穂を抱きしめる。
「ありがとう、瑞穂」
潰されたムギが「ニャン!」と鳴いて、瑞穂の腕からスルリと抜け出していく。
「ごめんね、ムギ!」
「あれ? もしかして潰した?」
バタンバタンと尻尾を振って、不機嫌に毛繕いを始めたムギを見て、ふたりで笑った。
温かなオレンジ色の灯りに照らされるダイニングで、お喋りをしながらご飯を食べる。
そんなごく普通の、だけど幸せな食卓が、瑞穂の憧れだった。
――今、まさにその最中にいる。
「そういえば、高城さんから連絡があったよ。うちの会社との取引、前向きに考えてくれるって」
「そう、よかったね」
「ありがとう。瑞穂が高城さんと話をしておいてくれたんだろ? おかげで助かったよ」
「ううん、私は何も。前に別の仕事で関わりがあったから、そのときのご挨拶とお礼をしただけだから」
和真は、目を細めて言う。
「瑞穂は最高のパートナーだよ」
それを聞いた瑞穂は、天にも昇る気持ちだ。
「今度、実家に瑞穂を連れてくるように言われてるんだ。一緒に来てくれるだろ?」
「ええ、もちろん。予定空けておくね」
向かい合い、席に着いたふたりは嬉しそうに笑った。
「お土産用意しないと。何がいいかな?」
「それなら、柳月堂の和菓子がいいんじゃないかな? 母さんが好きだって言ってたんだ」
「じゃあ、仕事の帰りに買ってきておくね」
こんな毎日がずっと続けばいい――と思えるほど、瑞穂は順風満帆な人生を送っているはずだった。
***
朝になると一緒にマンションを後にした瑞穂と和真は、電車に乗るタイミングで別れて、それぞれ会社へ向かった。
社内で会ったときには、ふたりはただの先輩後輩。
「南澤先輩、おはようございます」
「ああ、豊嶋さん。おはよう」
瑞穂と和真は、離れてエレベーターに乗る。
すると、それを追うように忽那が駆け込んでくる。
「おはようございます! 豊嶋主任、ちょっと聞いてくださいよ!」
息を切らして、忽那はずいぶんと慌てているようだ。
「……忽那さん、おはよう。どうしたの?」
「さっき人事部の人と話してて知ったんですけど、中途採用の人が入ってくるんですよね?」
「ええ、そうみたい。うちの部署に配属されるって、課長から聞いてるわ」
主任である瑞穂には、人事について先に通達が来ていたのだが。
営業部がある三階で和真がエレベーターを降り、広報部員がふたりきりになったところで、忽那が声を大にして言う。
「なんか、ヘッドハンティングされて来たらしいんですよ、その人!」
他業種から転職してくる人は度々いるが、『ヘッドハンティング』という採用方法を、四ツ屋コーポレーションではあまり聞いたことがなかった。
「よっぽど優秀ってことかな?」
「ですよね。どんな人なんだろう……」
五階でエレベーターを降りた瑞穂と忽那は、首を傾げながら廊下を行く。
広報部のフロアまで来たそのとき、ザワザワと騒がしいことに気づいた。
「豊嶋主任、ヘッドハンティングの人、もう来てるみたいですよ」
集まっていた社員のもとへ、梶が駆け寄る。
広報部課長の藤塚が、中途採用の女性を部署のみんなに紹介していた。
その女性の姿を見た瑞穂は、カタカタと震え出す。
見覚えのある丸顔に、大きめのたれ目、口角の上がった口元。
「広報部企画広報課に配属されることになった、織田ルカさんです」
彼女の名前を聞いた途端に、瑞穂の表情は凍りついた。
――ああ、織田ルカだ……。




