⑲
瑞穂と別れてからというもの、和真はほとんど実家に入り浸りの状態になっていた。
もともと同棲する前は実家暮らしで、家事一切は母親がやっていたのだから、和真はてんで何もできないわけで。
瑞穂がいなくなった今や、マンションの部屋は荒れ放題なのは、いうまでもないだろう。
和真がリビングのソファーでゴロゴロしていると、夕食後のキッチンの片付けを終えた母親が声を掛けてくる。
「和真、ちょっといいかしら」
「母さん、どうしたの?」
「この前、うちに連れてきたあの子なんだけど。貴方、本当にあの子とつき合ってるの?」
母親の言う“あの子”というのは、ルカのことだ。
和真は瑞穂と別れるよりも先に、ルカを実家へ連れてきていたのだ。
「ああ、そうだよ。今はルカとつき合ってる」
和真がそう答えると、母は顔をしかめる。
「あの子はやめておきなさい」
「どうして? ルカはいい子だっただろ?」
「奥ゆかしさもなければ、品もない。まだ、瑞穂さんの方がマシだったわ」
「だから、瑞穂は酷い女でさ」
起き上がった和真は母親に言う。
「ルカは社内でもあっという間に人気者になって、評判もいいし、人事の人間にもツテがあるんだ。俺にとっては都合がいいんだよ」
彼は、こういう利己的な人だ。
瑞穂に対しても、愛情よりも打算の方が大きかった。
だから、あんなに簡単に別れを切り出せるのだった。
「そう言われてもね。あの子がうちの嫁なんて考えられないわ」
「そんなこと言わないでよ」
着信音が聞こえてきて、和真はスマホを手に取る。
電話の相手はルカだった。
「――ねえ、和真……また瑞穂に嫌がらせされたの……」
時刻は20時を回ったところ。
「――今日ね、タレント事務所のパーティに行ったの。そしたら、瑞穂と成瀬さんがいて。それでね……」
パーティ会場から追い出されたルカが、自宅へ戻って和真に電話を掛けてきたようだ。
「――アタシ、何も悪いことしてないのに、追い出されたんだよ。きっと、瑞穂が何かしたんだよっ」
「そっか、それは、瑞穂が悪いな」
「――ねえ、どうしたら瑞穂を」
「そうだなあ……」
退屈そうに相槌を打っていた和真は、ふと何か思いついたみたい。
「ルカ、ごめん。電話切るよ」
電話をブチリと切ると、母親の方を見た。
「瑞穂よりルカの方がふさわしいってわかれば、つき合うのを許してくれるんだよね?」
和真は、すぐさま瑞穂に電話を掛けた。
***
人事異動の辞令が発表されてから、何日か経ったある日のこと。
新商品の宣伝企画は、残務整理済むとすべての業務を終えて、チームは解散。
メンバーは、それぞれの仕事に戻っていった。
まだ実感がわかないままだったが、広報部では新しい企画に向けた準備が始まっていた。
リーダーを任されたのは梶で、その補佐に瑞穂がつくことになった。
ふたりは、応接ブースでうち合わせ。
「チームの参加メンバーは、もう決まったの?」
「まだ確定はしていませんが、藤塚課長にピックアップしたリストをもらいました」
仕事熱心な梶は、次の人事で主任の役職が付くと打診されていた。
瑞穂の業務の引き継ぎ先も、ほとんど彼女が引き受けてくれている。
「新企画が引き継ぎもお願いして、負担になってない?」
「いいえ、平気です」
返事をした梶は、瑞穂の方へ向き直る。
「……私、実は豊嶋さんが主任になったとき、納得してなかったんですよ」
「えっ? そうなの?」
突然の告白に驚いた瑞穂だったが、梶の気持ちには何となく気づいていた。
「豊嶋さんって、行き当たりばったりなところがあったりするじゃないですか? 大雑把というか、仕事が粗いというか」
なかなか辛辣な意見だ。
「確かにそうかも。おかげでミスもあるしね」
「私は、もっと丁寧にかつ迅速にサービスを提供したいんですよ」
瑞穂と梶は正反対。だけど、お互いを嫌っているわけではない。
「うん、いいと思う。それって、すごく梶さんらしいから」
「でも……自分で言っておいて、そのやり方が少し不安なんです」
瑞穂は梶を尊敬しているし、梶も瑞穂を慕っているのだ。
「私には豊嶋さんのような行動力がないから、ミスがあったときに対処できるか考えたら、心配になるんです」
少し弱気の梶に、瑞穂は言う。
「この前のイベントのときにも言ったでしょう? 梶さんだから任せられるんだって。梶さんのことを信頼してるからだよ」
そんなふうに思える相手は、きっと限られている。
「きっとみんなもそうだと思う。信頼し合える。協力し合える。そういう仲間がいれば、何があっても乗り越えられると思うの」
瑞穂にとって、梶や忽那、そして総太朗は大切な仲間だ。
別々の道を進もうと、そこにある思いは変わらない。
「梶さん、頑張ってね。応援してる。私も一応まだ広報部にいるから、しっかりサポートさせてもらうね」
「……ありがとうございます、豊嶋主任」
梶に“主任”と呼ばれたのは、初めてだった。
何だかくすぐったくて、瑞穂は指で頬をかきながら微笑んだ。
梶とのうち合わせを終えた瑞穂が、応接ブースを後にしたそのとき。
「……おい、瑞穂」
広報部のフロアを訪ねてきた和真が、横柄な感じで声を掛けてくる。
「今更、何の用?」
「オマエが電話に出ないから、わざわざ来てやったんだよ」
和真からの着信には気づいていた。
けれど、関わればろくな事がないから、着信拒否にして無視し続けていた。
その予測のとおりだ。
「今度の日曜日、俺の実家に来て、うちの親に謝罪しろ」
突然、何を言い出すのかと思えば、またとんでもないことを要求してきた。
これには、瑞穂も開いた口が塞がらなかった。
「えっ? ちょっと待って? 謝罪? 何を謝れって言うの?」
「だから、俺んちの親に謝れって言ってんだよ」
何度聞いてもおかしな話だ。
「婚約寸前で破談になったんだ。謝るのが筋だって言ってんだよ」
和真の言い分を聞いた瑞穂は、眉間にシワを寄せる。
「浮気したのはそっちでしょ? そのせいで別れたんじゃない!」
「証拠は? 俺がいつ誰と浮気したって? 証明できるものは?」
結婚まで考えていた相手が、こんなに酷い男だったなんて……別れて正解だったと改めて思った。
瑞穂は、和真をキッと睨み付ける。
「貴方の両親が怒っていようが、私にはもう関係ないわ」
「そんなこと言っていいのかよ。謝罪しないなら、オマエのヒミツをバラしてやるからな」
「私のヒミツ?」
「ルカのこといじめてたって、会社中に言いふらしてやる」
まるで子どものような言い草だ。
クズもここまで来ると、情けなく思えてしまった瑞穂は、大きなため息を吐く。
「言いたければ言えばいい。けど、恥をかくのはそっちだと思うよ」
如月悠聖へのつきまといの件で、コンプライアンス担当の宇野からこっぴどく怒られたルカは、今日は体調不良を理由に早退していた。
そんなルカの言い分を信じる人は、それこそ和真くらいしかいないだろう。
「だいたい、恥ずかしくないの? 別れた元カノに、いつまでも因縁つけて絡むなんて、いい大人がすることじゃないでしょ」
「何だよその言い草。つき合ってた頃は、従順だったくせに。それも得意の嘘だったってワケか」
言い争いを続けていると、周囲がザワザワと騒がしくなる。
騒動を聞きつけた総太朗が、その場へ駆けつけようとした。
「豊嶋先輩……」
「ごめんね、すぐに戻るから。デスクで待ってて」
瑞穂が止めると、総太朗はしぶしぶ広報部のフロアへ戻っていく。
それを見た和真が、フンッと鼻で笑う。
「たらい回しの成瀬が専務か。オマエみたいなのを秘書にするって言うんだから、成瀬もどうかしてるよな」
自分のことならまだしも、総太朗のことを悪く言うなんて。言われっぱなしで、黙っていられなかった。
「和真、いい加減に……」
瑞穂は、途中で話を止める。
このまま言い争いを続けても、解決には至らないと思った――それなら、もっと別の方法をとろうと思った。
「……わかった。今度の日曜ね。もちろん、ルカも呼んでおいてね」
瑞穂は、和真との関係に今度こそ決着を付けると心に決めた。
その日の夜、外で食事を済ませて部屋に戻ると、先に帰っていた総太朗が、リビングでムギと遊んでいた。
「成瀬くんは、本当に猫好きなんだね」
ムギも総太朗が好きなのか、膝に乗ってゴロゴロ喉を鳴らしている。
「子どもの頃から猫を飼ってたんで、いない方が、違和感があるくらいです」
「……そんなに?」
荷物を置いて総太朗のそばに座り込んだ瑞穂は、ムギの頭を撫でる。
「先輩、また南澤さんともめてるんですか?」
「心配しないで。たいしたことじゃないから」
瑞穂は、総太朗に笑顔をみせる。
「今度の日曜日に出かけてくるね。今度こそ決着をつけてくるわ」
その決意を聞いた総太朗は、大きく頷く。
「それじゃあ、決着がついたら、大事な話をしましょう」
「話って? やっと詳しく説明する気になったの?」
「もっと大事な話です。先輩に、言わないといけないことがあるんです」
瑞穂の手にそっと触れ、総太朗は祈るように言った。
「先輩が帰ってくるのを、ここで待ってます」




