⑰
――あの男性は、本当に総太朗だったのだろうか。
まさか確かめに行くわけにもいかず、遠巻きに見ることしかできなかった。
あの男性は、すぐにエレベーターに乗り込んでどこかへ行ってしまったし……結局、何もわからずじまいだった。
考えごとをしながら、瑞穂が広報部のフロアまで来ると、梶と忽那がそばへ駆け寄ってくる。
「豊嶋さん、辞令見ましたか?」
「なんか、秘書課って書いてあったんですけど?」
パニックを起こしていたのは、瑞穂だけではなかったようだ。
「私にも全然意味がわからなくて。だって、人事部にも殴り込みしたし、山居部長にも絶対嫌われただろうし……」
「豊嶋さん、好き嫌いで人事は動きませんよ。安心してください」
「にしても、殴り込みって? 主任、マズいんじゃないですか?」
ハッとした瑞穂は、みるみると青ざめていく。
「まさか、秘書課と見せかけた窓際部署?」
梶と忽那は、「「それだ!」」とうなずく。
「問題のある社員だけが集められる、窓際部署……」
「私、聞いたことあります。社内に、そういう部署があるって」
すると、藤塚課長が三人にそっと助言する。
「窓際じゃないよ。四ツ屋ホールディングスは親会社だからね。いわゆる栄転だよ」
それを聞いた瑞穂は、口をポカンと開けたまま立ち尽くしてしまった。
「豊嶋さん、よかったですね。栄転ですって」
「主任の仕事ぶりが認められたんですよ」
お祝いムードの中、遅れて出社してきたルカが瑞穂に詰め寄る。
眉間にシワを寄せて、まるで鬼のような形相だ。
「……瑞穂、あんた、どんな手を使ったのっ?」
ルカは、瑞穂に掴みかかる寸前だ。
「だって、おかしいでしょ。アタシを差し置いて、瑞穂が秘書課なんてありえない」
あまりに酷い言いがかりだ。
「ちょっと、織田さん。豊嶋さんに失礼ですよ」
「ってか、織田さん、この前何したかわかってんの?」
一触即発のムードが漂い始める。
「梶さん、忽那さん……」
心配になった瑞穂が、止めに入ろうとしたそのときだ。
「おはようございます!」
広報部のフロアに、総太朗の声が響き渡る。
社員達の視線が、一斉にそちらを向く。
そこにいたのは、一階のエレベーター前で見かけたあの男性だ。
彼は、総太朗のデスクにカバンを置く。
――やはり、あの男性が総太朗だったのだ。
スーツの上着を脱いだ総太朗が、周囲の視線に気づいてきょとんとする。
「皆さん、どうしました?」
どうしたも、こうしたもない。
恐る恐る近寄っていった梶と忽那が、総太朗の顔を覗き込む。
「成瀬さんの偽物ですか?」
「よーく見ると、似ているような……」
ふたりが疑いの眼差しを向けると、総太朗はカバンから名刺入れを取り出し、名刺を差し出す。
「……実は僕、こういう者です」
梶が名刺を受け取り、忽那がそれを覗き込んで見た。
「四ツ屋総太朗? 総太朗は、成瀬くんの名前ですよね?」
「四ツ屋は、会社名の四ツ屋だから……」
途端にふたり揃って叫び声を上げる。
「「四ツ屋の御曹司!?」」
再び周囲の視線が一斉に向けられたが、総太朗は特に気にすることなく平然と答える。
「はい、僕は成瀬で、四ツ屋の跡取りです」
真相を知らされても、頭がパンクしてしまった瑞穂は、ぼけっと突っ立ったままだ。
そばまで来た総太朗が、そっと耳打ちする。
「……詳しいことは、帰ったら話しますね」
瑞穂が見上げると、総太朗はいつも以上に優しい顔で頬笑んでみせた。
途端にルカが瑞穂を押し退けて、総太朗の前に立つ。
「成瀬さんっ、その格好、どうしたんですか? すっごくカッコいいですぅ~!」
何をするのかと思えば、彼女お得意の猫なで声に、ねっとりとしたボディタッチ。
突然の手のひら返しに、周囲はドン引きだ。
「まさか次期社長だったなんて~。何で言ってくれなかったんですか?」
「えっ? 僕は“キモオタ眼鏡”ですよね?」
ルカは彼に酷い態度を取ってきたわけで、それを今更なかったことにはできないだろう。
「キモオタ眼鏡が次期社長なんて、驚きましたか?」
「ヤダーッ、キモオタ眼鏡って、何のことですぅ~?」
「えっ? 僕のことそう呼んでましたよね?」
総太朗は、爽やかな笑みをみせながら言う。
「キモオタ眼鏡、聞こえてましたよ?」
そうしてルカの手を退けて、カッターシャツを払う。
汚いものに触られた、と言わんばかりの態度だ。
「品のないボディタッチも、胸焼けしそうな猫なで声も、僕に通用しないので。やめてくださいね」
すっかり拒絶されてしまったルカは、悔しそうな顔をして、
「アンタなんかに興味ないわよ! アタシには、悠聖くんがいるんだからっ!」
そう言い残し、広報部のフロアから出て行ってしまった。
「お騒がせして、すみませんでした。どうぞ、業務に戻ってください」
事態を収束しようと、総太朗はみんなに声を掛けたが、広報部内は沸き立ってしまっていて、簡単には戻れそうにない。
騒動の最中、瑞穂は辞令を配りに来た奈央を捕まえ、広報部のフロアから外へ出る。
誰もいない給湯室へ奈央を連れ込むと、辞令のプリントを一枚奪って、それを彼女に見せて問う。
「この辞令、どういうこと?」
奈央は、辞令のプリントをビシッと手で押し退ける。
「どういうことって言われても、私は人事部の末端だから、詳しいことはわからないよ」
「……そうだよね」
正論で返されてしまい、それ以上は何も言えなくなってしまった。
そんな瑞穂に、奈央がコソッと話をする。
「ただ……」
「奈央、何?」
「成瀬くんは社会人経験を積むために、四ツ屋コーポレーションに入社させられたらしいよ」
「……そうなの?」
「会長の意向みたい。“何も知らないボンボンに、会社は継がせられない!”って、言われたとかなんとか」
どうやら家庭の事情があって、総太郎は社員として働いていたみたい。
「どうして、“成瀬”って名乗ってたの?」
「それね、社長の奥様の旧姓らしいよ。まあ、社内で四ツ屋は名乗れないからね。社長の息子だってすぐにバレちゃうでしょ」
「そっか。そうだよね」
奈央からの情報はそこでおしまい
あとは、本人に聞くしかなさそうだ。
「成瀬くんが、四ツ屋の御曹司か……」
ぽつりと呟いて、その言葉に納得した後で、瑞穂は目を白黒させる。
とんでもない人の家に転がり込んでしまったと、今になって気づいたのだ。
***
その日はきっちり定時で退社し、瑞穂は急いで部屋に戻った。
「おかえりなさい」
玄関の扉を開けると、先に帰っていた総太朗が瑞穂を出迎えた。
隠す必要がなくなったからか、前髪はかき上げていて、眼鏡もかけていない。
素顔の総太郎に、瑞穂は戸惑うばかり。
「ぇえっと、成瀬くん……」
一体、これはどういうことなのか。
すぐにでも、話を聞きたいと思った。
しかし、瑞穂の口を人差し指で塞いだ総太朗は言う。
「話はお預けで。まだ異動前なんですけど、ひとつお願いしてもいいですか?」




