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昨日までの出来事はすべて夢であって欲しいと願ってみたけれど、朝が来て目が覚めても、瑞穂はまだ地獄の最中にいた。


「スペアキーを渡しておきます。僕がいないときも、部屋には自由に出入りしてくれてかまいません」


身支度を終えて部屋を出るときに、総太朗から玄関のスペアキーを受け取った。

瑞穂は、それをなくさないようにバッグのポケットにしまう。


「……本当に大丈夫ですか?」


心配そうな表情をした総太朗が、瑞穂の顔を覗き込む。

瑞穂は、夜通し泣きはらしたせいで、目の周りが真っ赤。おまけに、顔はパンパンにむくんでいた。




地下鉄の駅を出て会社のそばまで来ると、同じ会社の社員の視線が気になって、瑞穂は総太朗から離れて歩こうとする。


ふたりの関係を、変に疑うような人はいないだろう。

それよりも避けたかったのは、女子社員達の動向だ。

自分と一緒にいることで、総太朗まで悪く言われるのが嫌だった。


「一緒に歩いてたら変だよね。ここからは別々で行こう」


瑞穂が足早に歩き出すと、総太朗はその後を追いかけてくる。


「別に変じゃないですよ。同じ会社に行くんですから」

「でも……」


会社の出入口まで来たとき、そばを通りかかった女子社員が言う。


「うわっ、豊嶋さんだ……最悪……」


こんな扱い、惨めでしかたなかった。


「ほらね。私と一緒にいると、みんなから嫌われちゃうよ」


瑞穂は自笑してみせるが、総太朗はピクリとも笑っていなかった。

むしろ、真剣な顔をしていて、


「誰になんて言われても、僕は気にしたりしませんから」


総太朗は、励ましの言葉をくれる。

それでも、瑞穂は俯いたままだ。


「……おはようございます、成瀬さん。ちょっといいですか?」


セキュリティゲート前で、総太朗が呼び止められる。


「先輩、先に行っててください。すぐに追いつきますから」


総太朗と別れた瑞穂は、ひとりでゲートを抜け、他の社員達の流れに合わせて、広報部のフロアを目指す。

エレベーターに乗って五階まで来ると、ホールに女子社員達が集まっていた。

――その中心にいたのは、ルカだ。


「……織田さん、おめでとう!」


女子社員から祝福の言葉を送られて、ルカは嬉しそうに笑っている。

一体、どういうことだろう。

瑞穂が遠巻きに眺めていると、それに気づいたルカが、左手の薬指にした指輪を見せつけるように口元にかざす。



「アタシ、織田瑠華はーっ、営業の南澤さんと結婚しますっ!」



衝撃を受けた瑞穂は、呆然と立ち尽くす。

そこへ駆け寄ってきたルカが、甘えたような感じで話しかけてくる。


「ごめんね、瑞穂。アタシ、こんなつもりじゃなかったの……」


周囲に聞こえるような大きな声に、大袈裟な素振り。


「まさか、瑞穂が南澤さんとつき合ってたなんて知らなくて。ホントだよ」


ルカは瑞穂の手を取り、そっと耳打ちしてくる。



「……っていうか、誘ってきたのは南澤さんの方なんだけどね」



もう何が嘘で、本当なのか、わからなくなってしまった。

瑞穂は、下唇を噛んで俯く。


「どうして……」


小さな声で呟くと、ルカが耳に手を添えて近づいてきた。


「瑞穂、もっと大きな声で言わないと、聞こえないよ~っ?」


煽られているのはわかっていても、黙ってはいられなかった。

顔を上げた瑞穂は、ルカに向かって声を張る。


「なんでいつも、私から大切なものを奪うの!?」


ルカは、待ってましたと言わんばかりに反論する。


「だから、知らなかったって言ってるでしょ」

「いい加減にして! 嘘吐かないでよ!」

「嘘吐きはそっちじゃない」

「違う! 私は嘘吐いたりしない!」

「そんなに言うなら、どっちが正しいかみんなに聞いてみようよ」


声を荒らげてしまった後で、瑞穂はハッとする。

その場にいた女子社員達が、冷たい目で瑞穂を睨んでいた。


――ついカッとなって、ルカの思惑通りに動いてしまった。

それからというもの、瑞穂は女子社員達から無視されるようになった。




社内のどこへ行ってもあからさまに避けられて、声を掛けてもみんな知らん顔をする。

女子社員から総スカンを食らってしまったのだ。


「領収書の件なんですけど……」


経理部のフロアでも、女子社員はひとりも応じてくれない。

見かねた年配の男性社員が、瑞穂に声を掛けてくる。


「……どうしました? 領収書ですか?」


「広報部の豊嶋です。領収書を持ってきました」


どうにかこの場を切り抜けることはできたが、状況は変わらずだ。

女子社員達は、瑞穂に聞こえるくらいの声でお喋りを始める。


「あの人、南澤さんとつき合ってたの黙ってたんでしょ?」

「そういえば、南澤さんと喋ってるの、いつも遠くから見てたよね」

「実は自分が彼女ですって、秘かにマウント取ってたのかな? 性格悪くない?」


瑞穂は、一度は言い返そうと彼女達の方を向き直ったのだが、すぐにそれを止める。

言い返しても無意味だと思ったからだ。


経理の男性社員に領収書を渡すと、瑞穂は何も言わずにその場を後にする。



広報部のフロアへ戻ろうと通路を歩いていると、正面から来た女性社員が声を掛けてきた。


「豊嶋さん、今お時間ありますか?」

「何かありました?」

「人事部へ来てもらえますか?」


普段あまり関わりのない部署からの呼び出しに警戒する瑞穂に、女性社員が言う。


「実は、パワハラの件で……」


パワハラなんて、寝耳に水だった。




人事部のフロアまで来た瑞穂を待っていたのは、人事部の山居部長と、女性社員の森下〈もりした〉、コンプライアンス担当の宇野〈うの〉。

広報部の藤塚課長も呼び出され、揃って面談ブースに案内された。

そこからは、ただひたすら責められるだけ。


「広報部の織田さんから、パワハラの件で相談がありました。他の社員に聞き取りしたところ、貴方が織田さんを怒鳴っているのを見たという話も多数上がっています」


森下の話を、瑞穂は黙って聞いていた。


「豊嶋さんは、織田さんを注意しようとしただけで……」

「藤塚くん、そうじゃないんだよ」


代わりに藤塚課長が説明しようとしたが、それを遮った山居部長が瑞穂に言う。


「私的な怨みがあって、織田くんの仕事にケチを付けたらしいね」


この人は、はなからルカを信用しきっているのだから、どんなに言い訳しても無駄だろう。

――もう諦めるしかない。



面談が終わると、瑞穂はブースを後にする。


「あの、豊嶋さん……」


藤塚課長が話しかけてきたが、瑞穂は返事もできずに人事部のフロアを出て行く。

共有通路を力なく歩いていると、奈央が追いかけてきた。


「……待って、瑞穂!ごめんね。パワハラなんて間違いだって、瑞穂はそんなことする人じゃないって話したんだけど、山居部長が聞いてくれなくて。止められなくて」


奈央は、必死に瑞穂を庇おうとしてくれた。


「もう一度、話し合いできるように頼んでみるから。瑞穂は悪いことしてないって、わかってもらえるまで戦おう」


けれど、瑞穂に反論する力はもう残っていなかったのだ。



***



「……だから、違うの!」


記憶の中、大学生の瑞穂は叫んだ。


「私じゃない! 嘘を吐いてるのは、ルカの方なの!」


必死の訴えが、友人達に届くことはない。


「なんでルカが、そんなことしなくちゃいけないの?」

「ってか、ルカは絶対嘘なんて吐かないんだから」


友人達は軽蔑するような眼差しを向け、瑞穂を罵倒した。


「ルカのせいにするなんて、ヤバくない?」

「前から思ってたけど、瑞穂って性格悪すぎ!」


その言葉に、瑞穂は深く傷ついた――誰も信じてくれないんだ。



ひとり残された瑞穂が呆然と立ち尽くしていると、その場へやって来たルカが声を掛けてくる。


「可哀想な瑞穂。みーんなに嫌われちゃったねっ」


瑞穂は、ルカをキッと睨み付ける。


「……こんなこと許されると思ってるの?」


すると、ルカは笑いながら答える。



「だって、みんなアタシのこと好きだから。アタシは、何をしても許されるの」



それが彼女の根底にある思想で、誰でも意のままにできると本気で思っているのだ。

ターゲットにされてしまったら最後、すべてめちゃくちゃにされてしまう。

奪われたものは、もう戻ってこない。



***



その日、総太朗の部屋に戻った瑞穂は、スーツケースに荷物をまとめていた。

会社を辞めて、この部屋も出ていくつもりだった。


「……このままでいいんですか?」


声を掛けられて振り向くと、出入口に総太朗が立っていた。


「人事部の崎本さんから話は聞きました。織田さんにやられっぱなしで、悔しくないんですか?」


総太朗は、発破を掛けて瑞穂を引き留めようと考えているのだろう。

しかし、瑞穂にルカと向き合うという選択肢はない。


「成瀬くんは、ルカがどんな子か知らないから、そんなこと言えるんだよ」


過去を思い起こしてみれば、同じようなことを何度もされていたが、一度だって瑞穂がルカに敵った試しはない。

いつもルカの思い通りだ。


「明るくて人懐っこくて、みんなから好かれて、いつも中心にいて。素直で、正直で、裏表がないって、みんなあの子を信じて疑わない」


絶対的存在を前にして、それでも戦おうなんて無謀でしかない。


「私は、あの子とは関わりたくない。悪者にされるのは、こっちだから。二度と顔も見たくない。これ以上、傷つきたくないから」


そうやって嘆く瑞穂に、総太朗は言う。


「僕は、豊嶋先輩を信じます」


そばへやって来てた総太朗が、スーツケースを退かして瑞穂の前に座り込む。


「他の誰も信じなくても、僕だけは先輩を信じます。先輩の味方でいたい。だから、諦めないでください」


「諦めるなって言われても……頑張ったところで、もう何も残ってないじゃない……」

「残ってます!」


総太朗は、ポケットから取り出したスマホを瑞穂に見せる。

画面に表示されていたのは、会社のwebサイト。

そこに、新商品発表会とイベントのお知らせが掲載されていた。


長く頑張ってきた企画が、ようやく実を結ぶときがきたのだ。


「あんなに一生懸命取り組んできた企画を途中で投げ出すなんて、先輩はそんなことしませんよね?」


総太朗は、必死に瑞穂に呼びかける。



「好きなんですよね? 四ツ屋のお菓子が。広報部の仕事が。あの企画が大切なんですよね? それなら、その手で送り出しましょう」



その言葉に心動かされた瑞穂は、もう一度立ち上がろうと決めた――。



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