⑪
――まさか、部屋を追い出されるなんて……。
一階のエントランスまで来た瑞穂は、ホールのソファーにグッタリと座り込む。
どうしてこんなことになってしまったのか、自分でもまだ状況が飲み込めずに途方に暮れていたが、ぼんやりしている暇はない。
キャリーケースがないから、ムギは瑞穂の腕の中。今のところおとなしく抱かれているけれど、いつ暴れ出すかわからない。
「せめてムギだけでも部屋に置いてもらえないか」
いいや、和真がムギの世話をしてくれるとは思えない。
バッグからスマホを取り出すと、ペット可の友達をあたる。
「……もしもし、奈央?」
一番近くに住んでいて、事情を知っているのは奈央だ。
「実は今、和真に家を追い出されて」
「――追い出された? 何それ!?」
ほんの少し前まで「結婚する」と言っていたのだから、驚くのも無理はない。
「詳しいことは後で話すから。奈央の部屋に泊めてもらいたいんだけど、猫も一緒には無理だよね?」
「――瑞穂はいいけど……ごめんね。うちのマンション、ペット不可だから」
「ああ、やっぱり。どうしよう。ペット可のところって少ないもんね」
瑞穂も奈央も戸惑うばかり。
「急に電話して、無理言ってごめんね」
「――よかったら、猫を預かれる人を探してみようか?」
「本当? ありがとう! 助かる!」
「――とにかく、気を確かに持つんだよ」
「うん……」
電話を切った瑞穂は、他にムギを頼めそうな人を探して、連絡を取ろうとする。
実家を頼るという選択肢は、最初から頭になかった。
猫を抱えたままスマホを操作していると、マンション前に車が停まった。
運転席から下りてきたのは、総太朗だった。
「……豊嶋先輩!」
「成瀬くん? どうして?」
立ち上がった瞬間に、ムギがスルリと腕から抜け出す。
逃げだそうとしたムギを追いかけて、瑞穂が出入口まで行くと、総太朗がムギを捕まえて抱き上げた。
「先輩がパスケースを忘れていったんで、届けようと思って。こんなところで、何してるんですか? この猫は?」
「部屋から出てけって言われて。猫も外に放り出されて……実家にも帰れないし……」
事情を聞いた途端に、総太朗の表情が険しくなる。
いつも穏やかで優しい彼の、そんな顔を見るのは初めてだった。
「成瀬くん……?」
「とにかく車へ。このままにしておけないんで」
総太朗は、ムギを抱えたまま車へ戻ろうとする。
瑞穂は、スーツケースを手に後を追いかける。
「成瀬くんに迷惑はかけられない。今、猫を預けられるところを探してるから、少し待って」
「それなら平気です。うちのマンション、ペット可なんで」
総太朗は、後部座席の扉を開ける。
「どうぞ。乗ってください」
ムギのことを考えたら、迷っている暇はない。
瑞穂は、ムギと一緒に総太朗の車に乗り込んだ。
***
総太朗に連れられて向かったのは、高級住宅街の中にある一軒のマンション。
瑞穂と和真が住んでいた物件よりも、ずっと新しくて綺麗な物件だ。
「……どうぞ、あがってください」
案内されたのは、ペット可の2LDKの部屋――こんなところに、ひとりで住んでるの?
スリッパに履き替えたところで立ち止まり、辺りをキョロキョロ見回していると、総太朗が玄関のそばの扉を開ける。
「うちはもう猫はいないんですけど、前に飼っていたときのものがあるんで、よかったら使ってください」
六畳の部屋の隅には、空のペットケージとキャットタワーが置かれていた。
途中のコンビニでペットフードと猫砂は購入したが、夜遅くにペット用品を揃えるのは至難の業だ。
どれも使用感があったが充分使えそうで、すぐに使えるように準備をした。
ここへ連れてこられたときから、ムギは警戒しているようだったが、匂いを嗅いで部屋中を歩き回った後、落ち着いたのか水を飲み始めた。
「成瀬くん、ありがとう。猫だけでも預かってもらえたら助かるわ」
瑞穂はバッグからスマホを取り出すと、奈央に泊めてもらえないか連絡しようとした。
「先輩もどうぞ」
「えっ?」
総太朗はクローゼットを開けて、布団やシーツを取り出す。
「この部屋以外も、自由に使ってください」
「それはちょっと……」
「平気ですよ。友達もよく遊びにくるし、何泊も泊まっていったりします」
慣れた感じで言うわれても、やはり同僚というだけで、親しい間柄でもないふたりだ。
「友達とは違うでしょ。私、同じ会社の人だよ。っていうか、それだけだし。だからこそ、気まずいんじゃない?」
瑞穂は、丁重にお断りすることにしたのだけれど。
「でも、猫だけってわけにもいかないんじゃないですか?」
総太朗の言う通り、よく見るとムギが瑞穂の足に縋り付いていた。
「飼い主がいないと安心できなくて、徘徊したり夜鳴きしたりすると思いますよ」
「うーん……確かに……」
結局迷惑を掛けるのなら、この際ムギ共々泊めてもらうことにした。
「明日、部屋を探してくるから。一日だけ、よろしくお願いします」
「そんなに慌てなくてもいいですよ。ペット可の賃貸って、簡単には見つからないだろうし。気にせず使ってください」
「布団は自分で準備するから、そこに置いておいて」
「わかりました。それじゃあ、あとはお願いします」
ムギを抱えた瑞穂は、ベッドに歩み寄る。
女性らしい柄のシーツ……誰かと一緒に暮らしていたのだろう。
そう思ったが、あえて聞かないことにした。
「歯ブラシとか、買い置きしてあるのを何でも使ってください。服はさすがに置いてないんですけど。僕のを適当に使っていいですよ」
「それなら、たぶん持ってるかも」
ハッとした瑞穂は、スーツケースを見る。
「さっそくなんだけど、洗濯機を借りてもいい?」
スーツケースの中身は、出張に行った日のまま。片付ける暇も、心の余裕もなくて、放置してあったのだ。
「洗濯機は洗面所にあります。バスルームとトイレは、部屋を出て正面の扉です」
「ありがとう。使わせてもらうね」
「わからないことがあったら呼んでください」
総太朗が部屋を後にする。
ムギを下ろした瑞穂は、先にスーツケースの中身を片付け始める。
使っていないものと、洗濯に回すものを仕分けしていると……ぽつり、ぽつりと、涙の雫が落ちる。
ムギのことで必死になっていて、他は考えられなくなっていたが、不意に泣けてしまった。
瑞穂は、手の甲で涙を拭う。
何度も何度も拭っても涙は止まらなくて、そのうち嗚咽も酷くなって。瑞穂は両手で顔を覆い、大声を上げて泣いた。




