8章サブ話③: 教会聖都・異端審問局 内部書簡 機密指定:紅「北方における「代償なき事象」の継続調査について」
現地調査員のシモンは、報告書を前にして筆を止めた。
目の前で起きた「代償なき奇跡」は、教会の摂理に従えば存在してはならない、断じて魔法であってはならない光景だった。
【教会聖都・異端審問局 内部書簡 機密指定:紅】
—北方における「代償なき事象」の継続調査について—
【第一書簡】
差出人:現地調査員 シモン・クロス
受取人:異端審問局長 ████████
発信地:港町近郊・修道院
局長殿。
報告します。
対象は北方へ移動しました。
森に入りました。
同行者:成人複数名、████、動物一体。
魔法の使用:確認済み。
代償の徴収:
確認できません。
繰り返します。
代償が、ありません。
術後の対象の状態:
通常。
疲労の兆候はありますが。
それだけです。
神の摂理において、魔法には代償が必要です。
代償なき魔法は存在しません。
ですから私が見たものは、魔法ではありません。
では、何を見たのか。
(この行以降、空白)
同行者の一名について。
名前:取得できませんでした。
年齢:取得できませんでした。
外見:████████████████████████████████。
備考:
記録を試みました。
三度、試みました。
書いた内容を見直すと、毎回、別のことが書いてありました。
内容は一致していませんでした。
ただ「危険ではない」という印象だけが、
三回とも同じでした。
この印象の出所が、わかりません。
以上を報告します。
追記:
対象が港町を出発する前夜。
街の漁師が、こう言っていました。
「あの子が北へ行ったら、戻ってこないかもしれない」
「でも止めようとは、思わなかった」
「なんでかはわからない」
私もその感覚が、わかる気がしました。
わかる気がしたことを、報告すべきか迷いました。
報告します。
(以下、白紙)
【第二書簡】
差出人:異端審問局長 ████████
受取人:現地調査員 シモン・クロス
発信地:教会聖都
クロス。
確認した。
「代償なき魔法は存在しない」。
これが我々の立場だ。
よって、貴君が見たものは魔法ではない。
以上。
追加指示:
同行者の記録について。
████████████████████████████████。
████████████████████████████████。
この件について、以後の報告書への記載を禁ずる。
理由:████████████████████████████████。
(封蝋:完全)
【第三書簡】
差出人:現地調査員 シモン・クロス
受取人:異端審問局長 ████████
発信地:港町近郊・修道院
局長殿。
了解しました。
ただ、一点だけ報告させてください。
港町の修道院に、若い修道士がいます。
彼が昨夜、私にこう言いました。
「シモン修道士。もし神様が代償をいらないと言ったとしたら、どういう意味になりますか」
私は答えませんでした。
答えられませんでした。
彼はしばらく待って、こう続けました。
「漁師のおじさんが言ってたんです。あの子は塔に選ばれたんじゃないかって」
「選ばれた、か」と私は思いました。
「違う」とも思いました。
「選ばれた」という言葉では、あの対象を説明できないと、
直感的に、思いました。
では何と呼ぶべきか。
(空白)
(次の行に、小さな字で:「わからない」)
【修道院付属図書室 若い修道士の覚書 非公式】
記録者:ヴァル(見習い修道士、十四歳)
今日、シモン修道士に聞いた。
神様が代償をいらないって言ったら、どういう意味かって。
怒られると思ったけど、怒られなかった。
ただ、すごく長い間、黙っていた。
それだけだった。
上の人たちが最近ずっとこそこそしてる。
「代償」とか「異端」とかって言葉が聞こえてくる。
あの子のことだと思う。
でも私は、怖いとは思わない。
なんでかな。
港の漁師のおじさんが言ってた。
あの子が北へ向かった日の朝、海が変だったって。
嵐みたいに静かで、
でも嵐は来なかったって。
「待ってるみたいだった」って。
何を待ってたんだろう。
先輩修道士に聞いたら怒られた。
「そういうことを考えるな」って言われた。
でも——
もし本当に、代償がいらないなら。
私たちが今まで払ってきたものは、
何だったんだろう。
【第四書簡 未送付・シモン・クロスの所持品より発見】
差出人:現地調査員 シモン・クロス
受取人:(宛名なし)
状態:未封・未送付
書く必要があるかわからないが、書く。
対象が森に消えた夜。
私は塔を見ていた。
塔は、まだ赤かった。
赤いのに。
綺麗だと、思った。
それが怖かった。
異端審問官の候補として、
神の代理として裁く立場の人間が、
あれを綺麗だと思った。
この書簡は送らない。
送れば記録になる。
記録になれば意味が変わる。
ただ——
あの子が北の塔に着いたとき。
何かが、変わる気がする。
良いことかどうかは、わからない。
わからないのに。
早く着けばいいと、思っている。
なぜかは、書かない。
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(8章サブ話③ 終)
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教義による否定と、現場で芽生えた直感の間で、シモンの記録は白紙のまま途切れた。
代償を求めないその存在を何と呼ぶべきか。
答えを持たぬまま、静かな問いだけが修道院に残された。
観察は、続く。




