第1話 外海びいきのアヤカ
嘉永六年(西暦一八五三年)……この日、横須賀浦賀沖に現れるはずだった黒船は、海上に発生した薄靄によって航路を失った。
代わりに現れたのは、無数の帆船に乗った異形のモノたち。
飛空船が空を舞い、大地が白い霧に覆われ、海に靄が立ちこめる。船乗りたちは惑わされ、外洋に出ることは叶わない。日本列島は異なる世界と融合し、外界と隔離された。
地形は変容し、面積は広大になり、魔物と呼ばれる怪物が現れ、それまで隠れ住んでいた妖怪たちが大手を振って町を歩き始める……そんな時代。
地球との行き来はできなくなったものの、ごく一部の――かつて悪魔と呼ばれていた「人ならざるもの」たちだけは例外的に外海から日本に入りこんでくる。
列島に住まう人々もまた、異世界の影響を色濃く受けた。ごく一部の人間は肉体がより強靭になり、特殊な能力を身につける。戦闘力が跳ね上がり、人ならざるものたちと変わらぬ強さを手に入れる。
そうして十年、二十年……三十年が経った。その頃には、日本はもはや異世界と見分けがつかないほどの大変貌を遂げていた。
◇
嫌な雰囲気だ、とアヤカは思った。
空き家にできた賭場には、十人ばかりの人間が集まっている。やっているのは毎度おなじみ丁半博打――ではなく、外海由来のポーカーだ。土間にテーブルとイスを持ち込み、いかにもそれっぽく仕立てている。
主であるアヤカの趣味だった。外海びいきのこの娘は、南蛮由来の天正カルタでは満足できず、わざわざ外海から最新のトランプを取り寄せてドローポーカーを行なっていた。
アヤカはディーラーとしてカードを配りながら、苛立たしげに――だが、決して気取られぬように尻尾と猫耳を揺らした。
〔こういうとき、耳と尻尾があると不便ニャんだよねぇ……〕
アヤカは人間ではない。妖怪だ。彼女には二本の尾があり、頭には猫の耳が生えている。外海びいきらしく赤いドレスに身を包み、長い黒髪に真っ赤なリボンをつけていた。豊満な胸を強調するようにアヤカのドレスは胸元が大きく開いている。そのため賭場に来る男たちは、好色な視線をアヤカに向けることが多かった。
だが、アヤカがそれらを気にかけたことはない。
自分の体に注目が集まるのは、己の肉体に魅力がある証拠――彼女はそう断じて、男たちの視線を好んですらいた。だからこそ躊躇なく露出している。
しかし、今ここに来ている客はそうではない。いや、ほかの客はいつもどおりだ。だが、たったひとりだけ……アヤカに対してまったく注意を向けない男がいる。
袴姿の剣客だ。着流しや股引姿の男が多いなか、きっちり袴まで履いているのは珍しい。年齢はアヤカとそう変わらないだろう。十代後半から二十歳前後……背は高くも低くもなく、一見すると目立たないが、身ごなしから相当鍛えられているとわかる。
腰に大小の二本差しをしているから武士であることは間違いない。だが、主がいるようにも見えなかった。髷を結っていないのだ。
今の御時世、月代を剃るような時代錯誤な人間はそうそう見かけない。だが、どこかに仕える武士なら髷を結って総髪にするものだ。ところが、この男は散切り頭だった。侍ではないし、御家人のたぐいでもないだろう。
「ベット」
そう言って、中年の股引姿がチップを賭けた。テーブルには五人の男が腰掛けている。残りは立ち見客だ。例の……袴姿の剣客も立ち見である。袴姿は興味深そうな顔で、ゲームの行方を見守っていた。
「レイズ」
若い着流しがチップを上乗せした。三人が「コール」で応じ、ひとりが「フォールド」でゲームを降りる。最初のベッティング・ラウンドが終わり、アヤカは残った四人の要求に応じてカードを交換した。
二回目のベッティング・ラウンドが始まり、若い着流しが強気に「レイズ」でチップを上乗せする。中年の股引が「レイズ」で応じる。ドローポーカーにおけるベッティング・ラウンドはチップが同額になるまで続く。
残る二人も最初こそ「コール」で応じたが、互いにレイズし合う様子を見て「フォールド」した。若い着流しと中年の股引の勝負になる。
「ツーペア」
「スリー・オブ・ア・カインド」
中年の股引は顔を引きつらせ、若い着流しは勝利の笑みを浮かべた。と、そこへ袴姿が唐突に言った。
「イカサマだな」
袴姿に注目が集まる。それまでテーブルのカードに向けられていた視線が、一斉に袴姿にそそがれた。
「見ない顔ですねぇ……」
若い着流しがぼやくように言って、無遠慮な視線を袴姿にぶつける。
「イチャモンをつけられちゃあ困りますよ? こちらのお嬢さんは」
と、若い着流しはちらりとアヤカに目を向けた。
「ご覧のとおりの猫又だ。私がイカサマで呪を使ったんならすぐわかる。でしょう?」
「もちろん! わちきの目はごまかせニャいよ!」
アヤカも少しばかりムッとして言った。
「幻術のたぐいが使われたニャら、わちきにはばっちりわかるんだから!」
「術は使ってない。ただの手品だ」
神速の抜刀――アヤカには、いつ袴姿が刀を抜いたかわからなかった。気づいたときには着流しのたもとが斬り裂かれていた。土間にトランプのカードが散らばる。
「んニャ!?」
アヤカが驚きの声を上げる。袴姿はつかつかとテーブルに近寄って、
「そっちの山札を確認してみろ。同じ札があるぞ」
「そ、そんニャはずは……!」
慌てて山札を表向きにして調べると――はたしてハートのクイーンが一枚出てきた。若い着流しが作ったスリー・オブ・ア・カインドは、スペードのクイーンをのぞく三枚だ。つまり――
「イカサマじゃねぇかテメェ!」
中年の股引が激昂して殴りかかった。不意を打たれた着流しは横っ面を叩かれ、イスから転げ落ちる。なおも追撃しようとする股引だったが、逆に吹っ飛ばされた。
「まったく……これだから蛮人は」
着流しは吐き捨てるように言って、その身を変貌させた――といっても異形の甲冑をまとっただけで、肉体そのものはまったく変異していない。
だが、はた目には着流しの身体そのものが変化したように見えただろう。なにせ全身を金属質の特殊素材で覆っている。頭のてっぺんから爪先まですべてが鎧に包まれているのだ。顔も見えず、肌が露出している箇所もない。
全身が大きくふくれ上がって巨大化している。着流しのもともとの背丈は中背で、ごく普通だった。ところが異形甲冑を身にまとうと、身の丈が九尺(およそ二七三センチ)にも達する。さらに頭の部分は獣を模した恰好に変化する。
着流しの場合、角の生えた虎だった。この変貌は一瞬で起こるため、事情を知らないものが見れば、着流しが突如として異形のモノに変異したとしか思えない。
「こいつ……! 異人かよ! ふざけやがって!」
股引が鼻血を流しながら叫んだ。
異人たちの一部は、日本人とよく似た外見をしている。なのでその手の連中が着物を着ると、日本人と見分けがつかない。ドローポーカーで何度か顔を合わせているアヤカでさえ、着流しが異人とは知らなかった。
股引はふらつく足取りのまま、長ドスを腰から抜き放った。いや、彼だけではない。イカサマをされた他の客、それに異人が気に入らない立ち見客も、それぞれ長ドスを手に異形のモノへと果敢に斬りかかる。
だが、異形甲冑の力は絶大だ。呪も使えない生身の人間が倒せるほど甘くない。異人は易々と彼らを返り討ちにする。軽く腕を振るっただけで、あっさりと他の客は吹き飛ばされ、長ドスが土間に転がる。