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総督の遺言  作者: 西季幽司
プロローグ
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雲と月③

 四月八日、李鴻章は李経方と共に交渉の席に戻った。これ見よがしに血の滲む包帯を顔面に巻いた李鴻章の姿を見て、伊藤博文も陸奥宗光も(やりにくい)と感じたようだ。それでも日本側は講和条件を譲らず、遼東半島の割譲地に多少、変更はあったものの、賠償金二億両という巨額の賠償額を清国側に認めさせ、講和条件は日清両国の合意を得た。

 十五日、賠償金の支払い方法など、細部の取り決めを行い、引接寺に戻った李鴻章は弥助の沸かしてくれた風呂で一汗流した後、弥助を部屋に呼んだ。通詞が同席しており、弥助に李鴻章の言葉を伝えた。

「弥助よ。両国の講和も成り、明後日には講和条約を締結し、総督はこの地を離れ、清国にご帰国なさる」

「はあ・・・閣下は国にお戻りになるのか?」

 弥助に講和の話は分からなかった。ただ、明後日には李鴻章が馬関の地を後にすることだけは分かった。

「総督はお前の献身的な働きにいたく感動なされ、自ら筆を取り、書をしたためてお前に下されたいというご意向だ。有難くお受けするように」

 通詞が仰々しく言い放ったが、弥助には言葉の意味がよく理解できなかった。李鴻章は横で墨を擦っていたが、通詞の言葉が終わると、さらさらと筆を動かした。

 流れるような筆で、「三十功名塵與土、八千里路雲和月」と一気に書いた。

 南宋の武将、岳飛の心の叫びを記した詩「満江紅」の一節だ。岳飛が生きた時代、趙匡胤が建国した宋は北方異民族である女真族の侵略を受け、華北の地を捨て南遷し、淮河以南に南宋を築き、盤踞していた。そして華北の地は女真族の建てた金が支配していた。

 金との戦いで戦功を上げ、武将として節度使にまで上り詰めた岳飛は、華北の地を奪還すべく、北伐を決意する。北伐に向かう岳飛が心境を読み上げた詩が「満江紅」だと言われている。愛国の情を切々と詠い、必ずや金を滅し、北の大地を取り戻し、恨みを漱いで戻って来るという気概に溢れた詩だ。

 一一四〇年五月、金の大軍が南下を始め、北伐を渋っていた南宋朝廷は掌を返したように岳飛に出陣を命じる。南宋の宰相であった佞臣、秦檜は民衆の間で絶大な人気を誇る岳飛がこれ以上、高名を立てることを恐れた。金が滅んでしまうと、金の圧力を背景に恐怖政治を敷いていた自らの立場が危ういものとなることは明らかだった。

 岳飛は連戦連勝、金軍が籠る開封へ迫った。ところがここで不可解な撤退命令が岳飛のもとに届く。秦檜は「南宋の兵は少なく、民は困窮している。何故、岳将軍は敵地に深入りしようとするのでしょうか――⁉」と皇帝に訴え、岳飛の撤退命令を出させたのだ。

 命令を受けた岳飛は「十年の力戦が、ここに雲散霧消するのか!」と長嘆息したという。

 南宋に戻った岳飛は秦檜に冤罪を着せられ、誅殺されてしまう。稀代の英雄は三十九年の短い生涯を終えた。その死を惜しむ民衆により岳飛は救国の英雄として讃えられ、杭州の西湖のほとりに岳王廟が建立された。

 岳飛は神となった。

 岳王廟には岳飛を陥れた秦檜が縄で繋がれ、正座させられた像が据えらえている。今でも岳飛は民衆の間で人気の高い武将だ。

 明治の初め、西郷隆盛が征韓論を唱えて下野した際、自らの心情を岳飛に例えた。西郷は「秦檜多遺類、武公難再生、正邪今那定、後世必知清」と詠んだ。「(奸計を以って岳飛を貶めた)秦檜のような輩が多く、武公の再生は難しい。(征韓論の)正邪を今は論じる必要はない。後世になれば(自分が)正しかったことが必ず証明されるだろう」と言った意味だろう。

 武公とは岳飛のことである。

 李鴻章の記した「満江紅」の一節は「三十路を迎えたが、功名は塵と土のようなものだ。そして今、八千里の道を雲と月と行かん」とでも訳すのだろう。岳飛の北伐への決意が伺える一節だ。

 李鴻章の年齢は既に七十歳を超えていた。「満江紅」の一節は海を越え遥か日本まで講和交渉にやって来た自分の境遇と心情を現していた。講和交渉を終えて帰国する李鴻章には茨の道が待っていることだろう。事実、李鴻章は台湾を日本に割譲した「売国奴」として、中国本土で長く世間の批判に晒されることになる。

 李鴻章は書の出来栄えに満足した様子で、落款をしたため落款印を押すと、書きあがった書を手に立ち上がった。

「弥助。有難くお受けしろ」と通詞の言葉が飛ぶ。

 弥助は「ほいほい」とその場に這いつくばると、李鴻章の手から書を押し頂いた。

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