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総督の遺言  作者: 西季幽司
プロローグ
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雲と月②

 引接寺に弥助という下男がいた。

 気の良い若者で何を頼んでも「ほいほい」と引き受けてくれることから、「ほいほいの弥助」と呼ばれていた。

 弥助は顔面、血だらけで引接寺に担ぎ込まれた李鴻章を見て肝を潰した。「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」と右往左往するだけで、医者でもない弥助に出来ることなど何もなかった。

(また変な奴が大切な客人を襲ってくるやもしれん)そう思った弥助は、李鴻章が居る部屋の前の縁側で寝ずの番をしようとした。

 清国の役人たちは、「日本人は信用できぬ」と自分たちの手で李鴻章を警護しようとした。日本政府からの警察官や憲兵の立ち入りさえ認めなかった。

 当然のように弥助も李鴻章の部屋の前から追い払われた。縁側を追われた弥助は、今度は庭に座り込んだ。

別座(ビエズオ)!(座るな!)」と弥助は清国の役人に追い払われるのだが、いつの間にかやって来ては、また庭に座り込んでいる。

 見かねた清国の通詞が、「弥助、お前は武術の心得がないし、武器も持っていない。そんなお前が庭に座り込んで総督の警護をして、一体、何の役に立つと言うのだ? いざ兇漢が襲って来たら、お前では何の役にも立たない」と言うと、弥助は「こんなわしでも客人の代わりに死ぬことくらいはできる」と飄々と答えた。

「お客人は遠い国から来た、とても偉い人だと聞いている。わしの命なぞ、葉っぱのように軽いもんじゃ。お客人の代わりに死ねるならそれで良い。わしが斬られている間に、お前らで悪い奴を取り押さえてくれ」

 弥助の言葉に清国の通詞はもう何も言わなかった。

 その話を伝え聞いたのだろう。李鴻章は襖を開けると、庭に座り込んでいる弥助を見た。弥助は李鴻章の痛々しい姿を見ると、雷に打たれたように体を震わせて平伏した。そして「おいたわしや~」とおんおん、声を上げて泣いた。

(ター)(ジェン)(シー)()好人(ハオレン)!(何て良いやつ)」と李鴻章は弥助のことがいたく気に入った様子だった。

 弥助は李鴻章専属の下男のようになった。甲斐甲斐しく李鴻章の身の回りの世話を焼き、通詞から李鴻章が魚を食べたがっていると聞けば、「ほいほい」と馬関の港まで魚を求めて駆けて行った。

 国際世論による批難の高まりと停戦を斡旋する米、英、露からの三国干渉を恐れた日本政府は、交渉の早期妥結を目指し、李鴻章襲撃より四日後の二十八日に、まずは休戦を条件とした草案を清国側に提示する。そして三十日には休戦条約が締結されている。だが、弥助にそんなことは分からなかった。

 李鴻章は顔面にめり込んだ弾丸を摘出しないまま、引接寺で交渉の指揮に当たり、休戦へと持ち込んだ。

 弥助は何時、寝ているのか分からないほど李鴻章の世話を焼いていた。そして、夜になると、相変わらず庭で寝ずの番を続けていた。李鴻章から通詞を通じて、「心配は要らないので少し休むように」と言われたが、弥助は何時ものように「ほいほい」と返事をするだけだった。

「体が丈夫なことだけがわしの取り柄じゃ」と庭を動かなかった。

 休戦に引き続き、講和の条件に関しての交渉が続く。

 四月一日、日本側から講和に関する条件の草案の提示があった。草案では朝鮮の独立、遼東半島と台湾の割譲、巨額の賠償金の支払いが条件となっていた。

「お客人、寝ていておくんなさい」と弥助は言うが、李鴻章は病床より起きて執務を執っていた。

 李鴻章は草案を読んだ途端、「不行(ブシン)!(ダメだ!)」と言って破り捨てようとした。「大人(ダーレン)!」と取り巻きの役人に言われて、はっと気がついた様子で、引き裂きそうになった草案を手放した。到底、清国側で受け入れることのできない条件だった。

 李鴻章は筆を取ると、さらさらと「朝鮮の独立は両国が認めること」を条件に加え、割譲地は全面否定、賠償金は減額を求めた書簡をしたためた。

 清国より負傷した李鴻章の交代として、代表団に同行していた李鴻章の甥、李経方を全権とする旨の勅使がやって来た。李経方は李鴻章の下で外交事務を担当しており、駐英公使の随員として赴任した英国から帰国したばかりだった。

 代役として最適な人選だった。

「李鴻章、襲わる!」の一報に接した清国側は、李経方を欽差全権大臣とする勅使を送って来たのだ。

 周りの役人たちは「交渉は李経方様に任せて、閣下は引き続き静養に勤められますように」と進言したが、李鴻章は聞き入れなかった。弥助も「寝ていておくれ」と言うのだが、「傷もようよう癒えて来た。もう大丈夫」と李鴻章は全権を譲らなかった。

 李鴻章はこの年、齢、七十二歳、本人は「不要(ブーヤオ)担心(ダンシン)(心配無用)」と言うものの、既に無理の利く年ではなかった。

 引接寺から春帆楼へと通う道筋は、海沿いの街道ではなく、山沿いの細道を行くことにした。輿で行くには骨の折れる道筋だったが、愛国心を勘違いした兇漢の襲撃を避ける為、致し方なかった。小山豊太郎は憲兵により取り押さえられていたが、第二、第三の小山豊太郎が現れないとは限らない。

 李鴻章の辿った山道は、今でも「李鴻章道」と呼ばれているという。

 弥助も輿について行こうとしたが、李鴻章が許さなかった。李鴻章は弥助に「休息(シューシー)一下(イーシア)(少し休みなさい)」と直接、声をかけた。寝ずの番で弥助の疲労はピークに達していた。春帆楼での交渉を行っている間、弥助を寺で休ませようとした。

 弥助に李鴻章の言った言葉の意味は分からなかった。だが、李鴻章の言わんとしていることが、おぼろげに理解できた。何時もは「ほいほい」と何でも言うことを聞く弥助だったが、この時は「閣下のお供をさせてくれい」と涙ながらに訴えた。

 李鴻章は目を細めると、通詞を通して弥助に「この寺の風呂は最高だ。熱い風呂を用意して待っていてくれ。寺に戻ったら先ず風呂に入りたい」と伝えさせると輿に消えた。

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