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総督の遺言  作者: 西季幽司
プロローグ
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雲と月①

祓川を主人公にした長編小説の第二弾に当たる。祓川は有能な刑事だが、性格に難があり、警視庁捜査一課に上司と衝突して、所轄に左遷されたという設定。所轄でも持て余してしまい、事件を解決する度に異動させられている。そんな祓川が目黒署でバラバラ殺人事件と遭遇する。

 一八九四年、日本の年号では明治二十七年、中華の大地を支配する大国清の年号では光緒二十年、朝鮮半島での覇権を巡り、日本は清国との開戦に踏み切った。近代化を推し進める日本軍は、旧態依然の腐敗した官僚制度から抜け出せずにいる清国軍を圧倒、瞬く間に平壌城を陥落させた。

 勢いに乗った日本軍は、黄海の制海権を巡って、清国の北洋艦隊と激突する。黄海海戦だ。海戦はほぼ互角の勢力を有する近代的な装甲艦同士の激突だった。機動力で勝る日本連合艦隊は伊東祐亨司令長官の巧みな指揮のもと北洋艦隊を圧倒、四時間に及ぶ激戦の末に撃破した。

 連合艦隊はほぼ無傷だったが、清国側は主力艦五隻を失う大損害を受けた。

 黄海海戦の勝利の報に接した大本営は、北洋艦隊の基地があった旅順要塞を攻略する好機であると判断し、軍を旅順へと進めた。士気の下がっていた清軍は旅順の攻防戦にも破れ、旅順要塞は陥落した。

 破竹の勢いに乗る日本軍はその後も終始、戦局を有利に進め、朝鮮半島及び遼東半島を実効支配した。

 世に言う日清戦争である。

 戦局の不利を悟った清国は、翌年には早くも停戦と講和の為に、全権大使として李鴻章を日本に派遣した。李鴻章は士大夫の家系の出身で、科挙に合格し進士となったエリート官僚だ。曽国藩の門下生となり、清末に起こったキリスト教の信仰を紐帯とした太平天国の乱で、曽国藩の「湘軍」に倣って地元、合肥で兵を募り、「淮軍」を組織して清の有力武将の一人となった。李鴻章は反乱軍の征討に大きく貢献し、太平天国の乱と時を同じくして華北で起こった捻軍の鎮圧でも功績を上げた。

 一八七〇年、李鴻章は皇帝のお膝元である北京市一帯の直隷地の軍政・民政を統括する直隷総督となり、対外通商と外交事務を担当する北洋通商大臣を兼ねた。

 位人臣を極めた――といって良いだろう。

 三月十九日、李鴻章が当時「馬関」と呼ばれた今の山口県下関に到着、日本側は伊藤博文が全権となり、外務大臣の陸奥宗光が交渉役となって割烹旅館の春帆楼にて講和のための交渉が始まった。

 交渉の席上、日本側は台湾の割譲を要求、李鴻章は「台湾本土に日本軍は上陸しておらず、筋が通らない」と反論した。

 三月二十四日、停戦を求める清国側と譲歩を求める日本側の交渉は平行線を辿るばかりで、李鴻章は失意のまま宿舎である引接寺へと引き上げるしかなかった。

「李全権大使――!」

 春帆楼の門前で輿に乗ろうとした李鴻章に声をかける者があった。

 門前は清国の全権大使として派遣されて来た李鴻章の姿を一目見ようと、野次馬で溢れていた。声の主を確かめようと李鴻章が野次馬を振り返ると、一人の男が人ごみを割って前に踊り出て来て、懐から短銃を取り出した。

 ――ごおん!

 濁った音が周囲に響いた。

 李鴻章はまるで殴られたかのように大きくのけぞると、顔を押さえ、片膝をついてうずくまった。付き人の清国側の役人が「総督!」と李鴻章を助け起こした。

 男は致命傷を負わせることができたかどうか、確認しようと銃を片手に「どけ!」と叫びながら李鴻章に近づこうとした。

 男が短銃を持っているのを見て、輿を担ぐ人足が「わっ」と悲鳴を上げながら逃げ去った。逃げ惑う人足に混じって清国の役人の姿が見えた。

 春帆楼の警護に当たっていた警察官と憲兵が銃声を聞きつけて駆けつけて来た。ばらばらと逃げ去る野次馬が「逃げろ!」、「やりやがった」と悲鳴を上げながら押し寄せる。人波に逆らいながら、警察官と憲兵が男に突進した。

 清国の役人が自らの体を盾に照準を遮りながら、李鴻章の体を輿へと押し込もうとした。男は二発目の銃弾を撃ち込もうと焦った。

 その時、駆けつけた憲兵の一人が、背後から男に飛びかかった。男を地面に押し倒すと、直ぐに二人、三人と警察官と憲兵が加わった。

「おのれ~!うぬらは奸賊に味方するのか――!」

 男は憲兵に取り押さえられながら喚いた。

 男は群馬県館林出身の自由党系の壮士で、名を小山豊太郎と言った。父親は県会議員を勤めた資産家だった。上流階級の出身と言って良い。だが、豊太郎は素行不良を理由に父親から廃嫡されていた。

 狂気を纏った人物だった。

 騒ぎが収まって輿を担ぐ人足が戻って来ると、「(ゾウ)!」と李鴻章を乗せた輿は引接寺へと一目散に駆けさせた。

 僅か二メートルの距離から銃撃された。小山の放った銃弾は的を過たず、李鴻章の顔面、左の眼の一センチ下の頬に着弾していた。

 李鴻章の顔面は朱に染まっていたが、意識はしっかりとしていた。李鴻章は輿の中で「没事(メイシー)、没事(大丈夫、大丈夫)」と繰り返した。

 当時の短銃は操作性が極めて悪く、命中精度が低かった。火薬として黒煙火薬が用いられていたことから、殺傷力が弱く、李鴻章の顔面の傷も致命傷には程遠かった。

 とは言え、和平交渉の為に訪れていた使節団の全権大使が暴漢に襲われたのだ。馬関は大騒ぎとなった。当然のように講和交渉は一時中断となり、引接寺には李鴻章を見舞う人たちが列をなした。

 講和交渉とは言え、国を代表して訪れた他国の全権大使に傷を負わせてしまったことを恥じた馬関の市民たちは、李鴻章の快癒を祈願し、見舞いと称して巨大なガラス水槽に魚や蛸たこを入れて引接寺の病室に搬入したという。

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