【短編小説】I was a
僕には最近、気になっている女性がいる。
あれは1週間前。春風と共に、河川敷を散歩している時だった。
「ありがとうございます」
そう言った彼女の瞳には、満開の桜が映っていて、まるで春を詰め込んだようだった。
白いワンピースに、きれいな黒い髪を下ろしていた。この世に天使がいるとしたら、こんな感じなのかもしれないと思うほど眩しいその姿に、僕は思わず目を逸らしてしまった。
落とし物を彼女の手に届けた瞬間、風が強く吹き、髪で隠れていた鎖骨が見えて僕はハッとした。白い肌の上には見逃してしまうほど小さな字で、I was a plastic bottle.と書かれていた。
彼女は以前、ペットボトルだったのだ。
この星では珍しいことではない。
科学の発展というのは素晴らしく、また、恐ろしいものである。僕の住む星では、まるでリサイクルするように、プラスチックから人間が生み出される。
15年前、とある科学者が人類初のリサイクル人間というものを生み出した。その技術は公表されていないが、プラスチックで作られた部品を人間の骨と同様に組み立て、心臓部分には、体中の配線に指示を出す、機械が埋め込まれているという。爪や髪もプラスチックから作られているのだとか。
現在約200体のリサイクル人間が生み出され、世界のどこかで暮らしている。リサイクル人間は、研究を重ねるごとにどんどん本物の人間に近づき、今では見分けがつかないほどになった。体のどこかに入れられた"I was a plastic bottle"のマークを見つけるか、傷をつけて血が出るか確認することで、見分けることができる。
そしてそれを生み出した科学者のひとりが、今、僕の目の前でデータと睨めっこをしているK教授である。僕はK教授とY准教授の助手をしており、講義の準備、実験サポート、データ整理、雑務など、業務は多岐に及ぶ。僕らのチームは主に、リサイクル人間の感情について研究している。
どのようにして"恋愛感情"を芽生えさせるかが、現在の課題である。
突然の雨に降られた夕方。
静かな研究室で、資料をパラパラとめくりながらK教授が訊ねてきた。
「Tくんは、恋をしたことはあるかね」
僕は、キーボードの上を走っていた手を止めた。
「この研究に携わる人間として恥ずかしながら、正直よく分からなくて。以前は、本を読んで恋というものについて学ぼうとしたこともあったのですが」
「きっとこれから、色んな経験をするだろうね」
「はは、どうでしょう。恋の病にかかり、眠れない夜を過ごす日が来るのでしょうか」
昔、そのような意味の言葉を本で見つけたことがあったな。と、思い出した。
「リサイクル人間たちが恋をすると、どうなってしまうのでしょう。彼らも、その人のことで頭がいっぱいになったりするのでしょうか」
「それは、私にも分からない。まだ我々の実験が成功したことはないからね」
「そういえば最近、リサイクル人間の女性と出会ったんです。街中で遭遇したのは初めてで驚きましたが、すごく綺麗な人で、最初は全く気づきませんでした」
「ほう、さてはTくん、その女性に一目惚れをしたのかな」
「いっ、いえいえ。僕が彼女の落とし物を拾って、ただそれだけのことです。それに、もし僕が好きになったとしても、彼女に好きになってもらうのは難しいかと。まだ実例もありませんし」
「なければ作ればいいのだよ」
「なければ作ればいい」というのはK教授の口癖である。言葉にするのは簡単だ。
しかし教授は本当に作り上げてしまうのだから、こんなありきたりな言葉で表現するのが申し訳ないほど、"すごい"人である。
雨が上がり、紫色の空の下。
僕は河川敷にある、まだ少し湿った木のベンチに腰掛けた。そして、虫が溜まった今にも消えそうな街灯に照らされながら、彼女のことを考えていた。
それにしても、リサイクル人間とはいえ、きれいな人だった。
どこかでまた、偶然出会ったりするだろうか。こんなふうに期待をしていることが、自分でも不思議である。いやしかし、出会えたところで、何を話せばいいのか。教授は無責任に、「次会ったら色々質問してみなさい」なんて言っていたが、今まで勉強しかしてこなかった僕に、女性を楽しませるような会話ができるだろうか。リサイクル人間も嫌悪の感情を抱くことは、研究により分かっている。さすがにもっとスマートな男性に話しかけられたいと思うだろう。もちろん、行動しなければ何も変わらないということもよく理解している。
下を向きながら、頭の中で行ったり来たりしている時だった。
「あの」
汚れたスニーカーだけが見えていた僕の視界に、白いパンプスが現れた。顔を上げると目の前にいたのは紛れもなく、今、思い浮かべていた彼女だった。
「もしかして、以前落とし物を拾ってくださった方でしょうか」
僕は驚きのあまり、3秒ほど反応することができなかった。彼女のことを考えすぎるあまり、幻想が見えているのではないかと思った。
「あ、違いましたかね。大変失礼しました」
「あ、いえ!僕‥‥だと思います」
立ち去ろうとする彼女を引き止めると、「やっぱり」と柔らかく微笑んだ。
「あの‥‥おとなり、座ってもいいですか?」
「あ、どうぞ」
「このあいだは、ありがとうございました。私にとって、とても大切なものだったので、感謝の気持ちを伝えたいなと考えていたら、あなたに出会えました」
「そんな、わざわざ。この道はよく通られるのですか」
「はい。今の時期は桜がきれいでしょ。夜の桜って美しくもあり、儚い感じもして、好きなんです」
華奢な指で垂れてきた髪をそっと耳にかけた。
本当に血の通わないリサイクル人間なのかと目を疑うほどに美しかった。
僕は、少しでも彼女のことを知ることができればと、教授に言われた通りいくつかの質問をした。頷いたり、時々微笑んだりしながら変わらない温度で話してくれた。
彼女は、終始穏やかだった。
この異様なまでの穏やかさこそが、リサイクル人間の1番の特徴だった。彼らは本物の人間とは違い、強い感情を持たず、どのような状況でもひどく落ち着いていて冷静で、どこか無関心のようでもある。テンポよく頷いたり、優しく微笑んだりするのは、そのようにプログラミングされているからだということは、よく分かっていた。
しかしそうだとしても、今僕の心にあるのは、乾いた大地に水が染み込んで、芽がでたような小さな幸せだった。河川敷からの景色は、水がキラキラと光り、いつもと少しだけ違って見えた。
「今日は、声をかけてくれてありがとう。そろそろ帰りましょう」
そう言って立ち上がった瞬間、ベンチのささくれに人差し指を引っ掛けたような感じがして僕は指を見た。
「どうかされましたか」
「あ、いや、棘が刺さったような」
「それは大変。私、絆創膏持ってますよ」
そう言うと、彼女は小さいバックから巾着袋を取り出し、僕の薬指に絆創膏を巻いた。
「ありがとう」
「いえ、とんでもないです。こんなことを言うのは少し恥ずかしいのですが、私たち、また会えますかね。よろしければ、連絡先を教えていただけませんか」
「あ、ぜひとも。喜んで」
携帯を取り出そうとカバンの中を探したが、見当たらなかった。どうやら研究室に置いてきてしまったようだ。
「すみません、置いてきてしまったようです。あまり携帯を触らないもので。番号も覚えてなくて。よければ、明日の同じ時間に、ここで会いませんか」
「はい。楽しみにしています。それでは、また明日」
「はい。また」
彼女の背中が小さくなっていく。
振り返った彼女に僕は手を振り、その姿が見えなくなるまで、ずっと見つめていた。
こんな幸せな気持ちに包まれる夜は、生まれて初めてかもしれない。この感情は、何という名前なのだろう。昔読んだ本にあった言葉、"可惜夜"とは、このような夜のことだろうか。
もう少しここに、この気持ちのままでいたい。
僕は、絆創膏の巻かれた指を眺めながら、そのままベンチに横になった。満開の桜が雪のように舞う、美しい夜だった。
「K教授、No.191がベンチで眠ったように横たわっているのを発見しました。彼の波動は昨日の夕方から夜にかけて、上がったり下がったりを繰り返していたようです。データからは、彼ら特有の穏やかさが失われているように感じます。これは、もしかして」
「あぁ、ついに実験成功だよ。しかし、バッテリーが切れてしまうとは、恋というのは恐ろしいね。どんなに冷静な人間も、この様に変えてしまうのだから。次の学会で発表しよう」
「血のついていない絆創膏は、データとして保管しておきますか」
「そうしてくれ」