排泄欲と睡眠欲
ごうごうといびきをかいていた男はふと目を覚ました。うっすらと目を開けると窓からの明かりはなく、外はまだ暗かった。
男は服を着たまま、靴を履いたまま、玄関先の廊下で明かりもつけず寝ていたのだった。男は天井を見ながら呟いた。
「ちょっと、飲みすぎたな・・。」
と、同時に強烈な尿意があることに気がついた。うっ、男は眉間に皺を寄せのけぞったが、尿意に負けないくらい強い眠気も襲ってきた。
トイレに行きたい・・、でも眠すぎる、できたらこのまま寝ておきたい。
男の意識は徐々にまどろみ始めた。
と、その時男の心の中で一つの欲が叫んだ。
『ちょっとちょっと、起きてくださいよ。早くトイレに行きましょうよ。』
叫んだのは尿意である排泄欲であった。
『このままだと膀胱がパンパンになって破裂してしまいますよ。』
するともう一つの欲が大声を出した。
『なーに、言ってんだ。風船じゃあるまいし、膀胱が破裂するわけないだろ。それよりこのまま寝かせてやれよ。』
睡眠欲だった。
排泄欲は返した。
『お言葉ですが、おしっこを我慢しすぎると血圧が上がったり、膀胱炎になったりするんですよ。体によくありません。』
それを聞いた睡眠欲はフフンと鼻で笑った。
『体に良くないだって?睡眠不足こそ、不健康じゃないか。お前も同じ心の中にいるからわかっていると思うけど、このところずーっと仕事で毎晩終電帰りだったんだぞ。今夜は久しぶりに早く終わったからストレス解消にパーッと遅くまで飲んじゃったけど、明日も普段通り仕事があるんだぜ。だったら一秒でも長く寝て体を休めないといけないじゃないか。』
『はぁー。あのですね、オシッコを我慢しながら寝ようとしてもパンパンになっている膀胱が気になって、ちゃんと寝られないじゃないですか。質の悪い睡眠をとっても体は休まりません。さっさとオシッコを出してすっきりしてから寝た方が効率が良いのです。』
排泄欲は呆れたようにため息をついて言った。
『睡眠の質が落ちる?今はまだ夜だぜ。今からトレイに行くなら、こうこうと灯をつけなきゃいけない。その灯を見てみろよ、一気に目が覚めて寝られなくなるぞ。睡眠サイクルが狂うんだ。そんな状態で仕事に行ったらどうなるか、そりゃミスの連発で悲惨なことになるぜ。体に悪いだけってものじゃない。排泄欲が邪魔して睡眠の質が悪くなるってなら、それを感じないくらい強烈な睡魔に襲わせてやるから俺に任せろよ。』
『何か私が悪者のような言い方ですね。不愉快です。あなたと私を比べるなら明らかに私の方を優先して行動するべきです。それが人間、いえ、生き物の本能なのです。』
『かっー、分からずやだねぇ、お前は。三大欲求って知ってるか。食欲、睡眠欲、性欲だ。俺様の方が偉いんだ。黙って俺様の言うことを聞いておけよ。』
『あなたの方こそ分からずやですね。ほら、見てごらんなさい、苦しそうに悶えていますよ。』
男は強い尿意に悶絶を始めた。
『ちっ、排泄欲の野郎・・、そうだ、性欲、性欲のやついるか、今からエッチなことを考えさせろ。そうしたらしばらく尿意も抑えられる。』
『なんてことをさせようとするんですか。本当に最低な欲ですね。ほら、起きてください!』
二つの欲が大げんかしている最中、男の尿意は限界がきていた。よろよろと起き上がり、おぼつかない足どりで真っ暗闇の廊下を歩き始めた。すると廊下の真ん中に落ちていた鞄に足元を取られ、前のめりに男は倒れた。手で受け身を取れず激しく頭と打った。ゴン・・鈍い音がした。
「痛っ。」
男は倒れたまま、打撲した頭を押さえた。と同時に力が抜け、膀胱に限界まで溜まっていた尿が勢いよく排出された。
あぁ・・。溜まっていたストレスが解放され、男は恍惚の笑みを浮かべた。
『ほら、ご覧なさい。これで体は大丈夫です。安泰です。』
排泄欲は得意げにはしゃいだ。その隣で睡眠欲は苦い顔をして排泄欲を睨んだ。
排出された尿はうつ伏せに倒れている男と廊下の床の間をつたって、服に浸透し、体全体を濡らした。体に触れてくる尿は温かく、男はそのまま気持ちよく眠りに入った。
睡眠欲は排泄欲に負けたことは悔しかったが、最終的に男が寝たのでこれでよしとした。
次の日の朝、男は昨夜と同じ状態で廊下に倒れたままだった。冬の廊下は冷たく、尿も冷たかった。そして男の体も同じくらい冷たかった。
排泄欲や睡眠欲、その他の欲も消えて無くなっていた。