二番目の浄瑠璃作家
※作中の「正本」とは、現代の「脚本」のことです。
江戸時代、享保初(1716)年の大坂。
浄瑠璃作家の紀海音は、自宅で下男の定吉からの報告を聞いていた。
「ご苦労だったな、定吉。『八百屋お七恋緋桜』の世間での評判はどうだ?」
「へぇ。それはもう、大喝采でさぁ。大坂中の皆が豊竹座に押しかけて、若太夫様の語りと、巧みな人形芝居に涙しております。これも勿論、海音の旦那の素晴らしい正本があってこそ、ですがね」
「うむ、そうか。いや、豊竹座の賑わいぶりからして、分かっていたことではあるがな」
海音は満足そうに頷いた。
「豊竹座から出てきた客たちは、誰も彼もが『さすがは、紀海音。これほど悲しく、心を打つ、素晴らしき八百屋お七の物語は観たことが無い』と旦那のことを褒めておりましたよ」
「よしよし。それで、定吉。その帰り道の客に尋ねてみたか?」
「……ええ、まぁ」
「どうした? 今回も、おぬしに申し付けておいただろう。芝居の客へ『上方における浄瑠璃作家の一番目は誰か?』と問うてみよ――と」
海音が語気を強めると、定吉は窺うような表情をしながら、しぶしぶ返事をした。
「客たちは答えてくれましたよ。『上方の浄瑠璃作家の一番目は、近松門左衛門』……だそうです」
「すると、わしは?」
「旦那は、近松様の次で……『紀海音は、二番目の浄瑠璃作家』だそうです」
「くそ! 今度もか!」
「なにせ今、竹本座では近松様がつくった『国性爺合戦』が大成功を収めておりますから」
「『国性爺合戦』の初演は去年……その派手さを意識して、あえて『八百屋お七』は破滅する女の悲劇を強調してみたのだが」
海音は歯がみする。
『八百屋お七恋緋桜』は、我ながら会心の出来だった。自分の最高傑作だとさえ考えていた。『国性爺合戦』の興奮に観客が飽きてくるであろう時期を狙って、情緒を前面に押し出した作劇もしてみた。
そこまでしても、海音は近松に届かない。
世評では常に『浄瑠璃作家の一番目は、近松門左衛門。二番目は、紀海音』なのである。
悔しがる海音に、定吉が慰めの言葉を口にする。
「けれど、旦那。皆々は『浄瑠璃の作者では、近松門左衛門と紀海音が飛び抜けている。この二人に少しでも及びそうな三番目は、どこにも存在しない』って、言ってますよ。それに旦那は、近松様よりも十歳も年下じゃないですか」
「だが、わしが『二番目』と呼ばれていることに変わりはない。わしは、一番目になりたいのだ。浄瑠璃の書き手として、わしにはそれだけの才能があるはずだ」
紀海音は、禁裏の御用もつとめる裕福な菓子商人の息子として生まれた。父は俳人であるとともに、多くの文化人たちへ金銭面での支援も行っており、海音は幼い頃から自然と学問や文芸に慣れ親しんできた。
優れた師にも恵まれ、海音は和学・漢学・俳諧・狂歌・仏典などに通ずる一流の教養人となる。
そんな海音が浄瑠璃の作者となり、初めて正本を書いたのは宝永四(1707)年。
俳諧によって芝居関係者と知り合い、その縁から海音は浄瑠璃に興味を持った。そして、人形浄瑠璃の世界に深入りしていく。
己の文学的才能に満々たる自信を持つ海音は、すぐにでも自分は一番目の浄瑠璃作家になれると思っていた。
当時、既に浄瑠璃では近松門左衛門が一番目の作者であると認められ、確固たる地位を築いていることは知っていた。
近松が『曾根崎心中』という大当たりな作品を世に出したのは、元禄十六(1703)年である。
『曾根崎心中』の「この世の名残り、夜も名残り、死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ」で始まる道行文は、その詞章の美しさから、儒学者の荻生徂徠も絶賛したと言われる。
頭がコチコチに固い儒学者を唸らせるほど、近松の作家としての力量は卓越している。
が、海音は近松の芝居を観て、その出来映えに感嘆しつつも、それを超える浄瑠璃をつくってみせると意気込んだ。
近松門左衛門は、竹本座の座付作者。
紀海音は、豊竹座の座付作者。
二人は毎年のように、浄瑠璃の傑作を書き上げていった。
その結果、芝居の観客を人形浄瑠璃に漏れなく取られ、歌舞伎の勢いが沈滞してしまうほど、上方での浄瑠璃人気は圧倒的なものとなる。
大坂の地で、道頓堀の西にある竹本座と東にある豊竹座は激しく競い合った。
元禄・宝永・正徳・享保と1700年代から1720年代にかけて、上方の人形浄瑠璃は空前の繁栄時代を迎えていく。
そして。
近松と海音――その最大の貢献者たる浄瑠璃作者二人へ、世間はいつも『一番目は近松門左衛門、二番目は紀海音』という評価をくだした。
海音には、それが無念でたまらない。
定吉と海音の会話が続く。
「まぁまぁ、旦那。世の人々は言ってますよ。『西の近松、東の海音。まさに近松は当世の柿本人麿で、海音は当世の山部赤人なり』ってね」
「人麿と赤人……万葉集か。山部赤人は偉大な歌人ではあっても、柿本人麿の上には居らぬ。つまり、やっぱりわしは二番目ではないか」
「で、ですが『近松は諸葛孔明で、海音は司馬仲達』とも言われているんですよ」
「仲達も、しょせん孔明には及ばぬ」
海音が吐き捨てるように述べると、定吉はしょぼくれた。
「すみません、旦那」
「おぬしが謝ることはない。要は、わしが近松の正本を超える浄瑠璃をつくれば良いだけだ」
「旦那になら、出来ますよ!」
「ああ。無論だ」
それからも紀海音は、近松を上まわることを懸命に目指した。寝る間も惜しみ、一番目になるべく、浄瑠璃の傑作を発表しつづけた。
しかし近松も『心中天網島』や『女殺油地獄』などの名作を世に送り出し、海音は、あと一歩のところで届かない。
享保九(1724)年の冬。
そろそろ、師走を迎えようとする頃。
「近松も歳は七十を過ぎているであろうに、盛んなものよ」
そう呟く海音も、今年で六十二歳だ。
だが、近松には負けられない。更なる浄瑠璃作品、それも名作を書き上げねばならない。
わしは、必ず近松を超えてみせる――海音は改めて、心に誓う。
その数日後。
定吉が、海音の家へ駆け込んできた。
「旦那、旦那! 大変ですぜ!」
「どうした? 定吉。騒々しい」
「近松様が……近松門左衛門様が病にかかり、亡くなられたそうです」
「な、なんだと!」
海音は驚き、呆然とした。確かに、近松は七十二歳……そうなっても、おかしくはない年齢である。けれど海音は不思議と、近松はずっとこのままであると考えていた。あの男は、このまま永遠に止むことなく、倦むことなく、浄瑠璃の名作を生み出していくに違いない――そう思っていた。
それなのに――
座り込み、無言になってしまった海音へ、定吉がおそるおそる声を掛ける。
「近松様は残念でしたが……でも、これで旦那は正真正銘、浄瑠璃作家の一番目ということになりますね」
「なに? どうしてだ?」
「だって、そうでしょう? 近松様が亡くなられて、もう海音の旦那の上をいく浄瑠璃の書き手は一人も居やしません。それどころか、この上方で、旦那と並ぶ、いや、足もとに達するほどの作家も見当たりませんや。近松様と旦那の二人こそが、浄瑠璃を栄えさせてきた名作者なんですから。そのことは、芝居を愛する者なら誰でも知っています」
「うむ……」
「皆、申しておりましたよ。『近松が世を去り、これから浄瑠璃は紀海音一人の時代になるだろう。海音の独擅場になるだろう』って」
「……そうか」
定吉が立ち去り。
海音はしばらく、ぼんやりとしながら日々を過ごした。
浄瑠璃の新作を書かねばと思うが、どうしても筆を手にする気になれない。
正本の筋を、何も考えつかない。文字を書くのも、億劫だ。
近松門左衛門と競っていたときには、いくらでも芝居の案が頭の中に湧き出てきたのに。
詞章も浮かんできたのに。
何百何千の文字を書いても、少しも疲れを覚えなかったのに。
今は……。
近松は、もう居ない。
自分は、一番目の浄瑠璃作家となった。二番目では無くなった。
しかし、それに何の意味があるのだろう?
自分が近松に打ち勝って一番目になる日は、もう決して訪れることはないのだ。
♢
紀海音が死去したのは、寛保二(1742)年である。
海音は、近松が世を去ってから二十年ちかく生きたことになる。けれど、近松没後、海音はただの一作も浄瑠璃作品を書かなかった。その間、いくつもの俳諧や狂歌を発表しているため、文芸への関心が失せたわけでは無かったようである。だが彼は何故か、意図して浄瑠璃の世界より遠ざかってしまった。
もしも紀海音が、近松が他界して以降の年月においても、浄瑠璃の作者でありつづけたとしたら、彼は近松に匹敵する大作家として、演劇史・文学史に必ず名前を載せられる栄光の人物になったに違いない。
今、紀海音は近松門左衛門の競争相手、しかしついに及ばなかった者――二番目の浄瑠璃作家としてのみ、その名を残している。
了
※紀海音作の『八百屋お七』が豊竹座で初演された年については、1715~1717年など、いろいろな説があります。また当時の浄瑠璃は時代物と世話物が抱き合わせで上演されたりしたため、客が単独作品のみを観覧するケースはあまりありませんでした。
なので近松の『国性爺合戦』に海音が『八百屋お七』で対抗したというのは、本作独自の設定になります。
♢
本作は「2番目(二番目)」というお題を頂いて、執筆しました。
紀海音(1663~1742)は実在の人物で、近松門左衛門(1653~1724)と競っていた彼の心境を、作者なりに想像してみました。
ご覧くださり、ありがとうございます。