最終章 葬送曲
手記はここで終わっていた。ここには日付ごとに毎日、何をして、何を思ったか細かく、克明に記されていた。私は呆然とした。噂では少し聞いていた。でもこんなに酷い毎日を過ごしながら、よくここまで記録していたものだ。あの夜一緒に飲んだときは、こんなことはおくびにも出されていなかった。たまに歯切れの悪い感じで、まあ嫌なことも多いけどさっ、と言うだけであったため想像もしていなかった。10月19日以降は、何か書いてはあるがかなり煩雑な文字で正直私では到底読むことはできなかった。だがそれは、この手記を書いた先輩本人にも読めないのではなかろうか。
この手記を奥さんからお預かりしたのは、去年の12月のことだった。それまでの間、正直先輩とは何年もお会いしていなかった。それは私自身もかなり、体調をここ数年崩していたからである。また先輩からも特に連絡もなかった。だが、去年の夏一度だけ先輩と飲みに行ったことがあった。その記憶が新しいが故に、突然の訃報を聞かされて、本当に目の前が真っ暗になった。あれほど快活で、陽気な、頭の良い先輩が、仕事に悩むなど到底想像がつかなかった。実際には家族のこと、家の事情とかも絡んでいるのかもしれないが、直結する最大の要因は、どうも職場でのことだったようだ。本来社内でも多くの方がこの訃報を直接耳にすることはないはずなのだが、私はたまたまそれを知り得る部署にいた。警察がやって来て上司が対応をしていた。別室に籠り、結構な時間調書をとるのに付き合わされていた。私は先輩とは課を違えながらも、この時間はまるで横に座っていた先輩の亡骸を見ているような気分であった。後から聞いた話では、ビルからの飛び降り、救急搬送中に亡くなった、遺書は特段見つからなかった、ということであった。現役の人間が亡くなったのだから本来は社内で大きくアナウンスするところであるが、自死ということを鑑みて、この件については控えることとなり、先輩の所属課の管理職からも、課内には単に亡くなったことだけを知らせるに留めた。
その後、先輩と同期の別の先輩から連絡をいただき、こじんまりとした葬儀が28日に行われるということを聞かされた。ちょうど有給も余っていたので、私は仕事納めの日ではあったが、前日までに急ぎの書類を片付けて、この日は朝から参列した。亡くなってから6日も経って葬儀というのは、どうもこの年末に焼き場の予約がなかなかとれないためのズレということを、誰ともなく聞かされた。平日朝ということもあり、職場の人間はほとんどいなかった。私と同じように、休みをとって参列する、かつて先輩と仕事をしていた懐かしい顔がいくつかあった。
「久しぶりだね、元気?」
「まあ、なんとか。」
「お顔は見た?全然傷とかなくて、すごく綺麗な顔だったよ。」
そう言い終えると、さっきまで笑顔で私に話しかけていた女性は、急に泣き咽んでしまった。目の前で泣かれると、不思議とこちらは落ち着くものである。まだお顔は拝見していないので見てきますね、と声をかけて棺のほうへと、私は向かった。覗き込むと、屋上から転落というから正直もっと顔が判らないような状態なのかと思ったが、確かに傷など見当たらない、とても綺麗な死に顔であった。何かそれは、私にとっても唯一の救いであった。葬儀を終えて帰る直前に、喪主であった先輩の奥さんから声をかけられた。
「お久しぶりね。すっかり雰囲気が変わっていたから、すぐにはわからなかったわ。」
もう泣けるだけ泣いたから今日は涙も出ないの、などとおっしゃったが、それでも大分目が腫れていらした。
「あのね、実は渡したいというか預かってほしいものがあるの。今いい?」
そう言って渡されたのは、1冊のノートであった。水に浸かったりぞんざいに扱われた形跡のある、随分と奇妙に膨れ上がったノートであった。
「ほら、あの人珍しくあなたには随分と気を許してたじゃない?本当不思議よね。だから、是非これを読んでみてほしいの。懐かしいよね、あの頃うちによく遊びに来てくれてたでしょう?娘たちもすっかり大人になっちゃったしね。まだあの子たち小学生だったのにね。」
まだ元気だったあの頃の先輩のことを思い出されているせいか、とても朗らかな穏やかな表情だった。
「返してくれるのはいつでもいいから、お線香あげに来るついでに持ってきてくれれば。一応形見みたいなものだから、さすがにあげるわけにいかないけど。本当にいつでもいいから。うち場所覚えてるでしょ?」
ええ、と頷き私はこのノートを、手記を預かり、一礼してその場をあとにした。
家でこれを読み始め、涙が止まらなくなった。そして判読不能の文字や、稲妻のような、試し書きのようなページが最後続く中、途中のページに不思議と小綺麗なレシートらしきものが、セロハンテープでとめてあった。何か裏には、見覚えのある整った先輩の字で、こう書かれていた。
『今日は本当に楽しかったよ。また飲もうぜ羽賀くん!』
レシートの日付は去年の8月24日、私が休職中の先輩に連絡して、最後にお会いした日のものだった。このときは上機嫌で、噂に聞いていた状態が嘘のような飲みっぷりだった。私が払いますよ、と言うのを制して、先輩らしく振る舞わせてくれよ、と言っておごってもらった夜であった。今私は、先輩の好きだった曲、輝ける菱形の錯視を聞きながら、夜空を見上げていた。先輩の豪快な笑い声がこだまする。返却の際に奥さんの許可も頂いて、この手記を形としてどこかに残そう。そう決意した。