2 佐原
青色をベースに入道雲の白を貼り付けた空が、蒸し暑い空気を少しだけ爽やかにコーディネイトする。午後二時のJR佐原駅前の改札を抜けた玲奈とリコは、駅舎と駅前ロータリーの境界線に下げられたのれんをくぐって、佐原の地に降り立った。
ミンミンと蝉の声が聞こえる。足元のアスファルトから蜃気楼のように、もやが立つ。駅前に設置されたローターリーには、タクシーが一台だけ客待ちで停車している。
「タクシーいるね。乗る?」
「ん~ん。歩いて十分くらいだから、歩いていく」
玲奈の質問に地図アプリが開かれたスマートフォンの画面を凝視しながらリコが答える。
「わかった」
玲奈はリコの決断に同意して、駅前の景色に視線をはわせた。ロータリーの中央には銅像が一体建てられている。玲奈はショルダーバックからスマートフォンを取り出して、#佐原駅銅像で、検索した。検索結果には【伊能忠敬】と表示された。
「あれ、伊能忠敬なんだ」
伊能忠敬は日本地図を最初に作成した人と、いわれている。正確には途中で他界しているので後継者が完成させたのだが、五十歳で一念発起して測量を勉強したことなど、それまでの彼の功績が多くの人の心に残されて、日本地図といえば、伊能忠敬と表されるようになった。
「玲奈、この先を左に曲がって、しばらくしたらまた、左。そして右に曲がると川に架かる橋に出るわ。その近くなので、行きましょう」
リコはグーグルマップのナビ機能をオンにして、ロータリーを時計回りに歩き出した。
「はいはい、伊能先生にお供いたします」
玲奈はリコを伊能忠敬に例えて、後を追った。
グーグルマップのナビ機能に従って十分ほど歩くと、川幅五メートルほどの小さな河川が見えてきた。川岸には、右岸と左岸に車一台と歩行者が並列で歩けるほどの道が設えられている。
「へー、このへんって、小江戸って呼ばれているんだね」
スマートフォンの画面に映し出された佐原観光案内のページに書かれた見出しを玲奈が読み上げた。
「この川は、小野川って言って、柵の所々に七福神や観音菩薩像などを頭に載せた灯籠が設置されている。ジェラートや甘味処のお店も数多く軒を連ねている。だって。ジェラートおいしそうだよ」
玲奈がスマートフォンの画面をリコの顔に近づける。画面にはカップに入ったシャーベットが写し出されている。リコは玲奈のスマートフォンの画面へ一瞬視線を移したが、すぐに自分のスマートフォンの画面に視線を戻した。そして、足を止めた。
「この家よ」
リコのつま先が向く先には二階建ての一軒家が建っている。
「約束時間の五分前。ちょうどいい時間ね」
玲奈が左腕に巻かれた腕時計に視線を落とす。リコは小さくうなずくと、表札の下に取り付けられたインターフォンのボタンを押した。
数秒の沈黙ののちに「はい」と、女性の声がスピーカーから流れた。
「あの、本日お約束させていただいておりました。鈴木です。あの犬吠埼の件で」
『あー、はいはい。どうぞ、お入りください』
スピーカーから流れる女性の声の後に、鉄製の門からカチッと鍵が外される音が聞こえた。
「失礼します」
鉄製の扉を押して、リコが先に玄関へ向かう石畳を歩き始めた。玲奈は黙って後に続いた。
リコと玲奈は三十歳代中盤の女性に迎え入れられ、応接室へ通された。
「あの、これ、つまらないものですが」
リコが背負っていたリュックサックの中から菓子折りを取り出して、迎え入れてくれた女性へ差し出した。
「あら、お心遣い、ありがとうございます」
女性は口角をあげて菓子折りを受け取った。
「どうぞ、座って。冷たい、麦茶でいいかしら」
女性は玲奈とリコをリビングのソファーへ腰かけさせると、キッチンの冷蔵庫へ向かった。三つのグラスに氷を適当にちりばめて、冷蔵庫の扉裏に設置されたホールドからボトルを一つ取り出した。ボトルの中身は茶色い色をした麦茶だ。女性は三つのコップに麦茶を満たして、トレーへ乗せた。
「どうぞ、暑かったでしょう」
三つのコップはリビングのテーブルの上に置かれた。
「ありがとうございます。今日はお休みなんですか?」
「ええ、きょうは休みですね。外は、暑かったでしょう」
「ええ、それでも東京よりは少し涼しく感じます」
リコは当たりさわりのない会話で、お互いの温度差を確認した。
「あの、早速ですが、犬吠埼のがけの下で最初に父を発見してくださった方ですよね」
「正確にはうちの旦那が第一発見者で、わたしは第二発見者という位置かもしれませんね。でも、救急車を呼んだのはわたしです」
「旦那さんが、第一発見者だったのですか?」
「ええ、うちの者が海の方向で変な音がするというので、わたしも海の方を見たんです。すると岩の上に、いままではなかった人のような、人形のような形が見えたの。それで、子供を置いて、二人で確かめに行くと………人でしたね」
「すると、お二人でがけから落ちた後の父の姿を発見したということでしょうか?」
「そういうことになりますね」
「父は、即死ということだったのでしょうか?それとも、発見された時にはまだ、意識はあったのでしょうか?」
「発見した時には、意識はほぼなかったわね。わたしがかけつけたときには、短い言葉であうとか、あおとか、言葉が口からこぼれていたけれど、たぶん、無意識のうちに出てきた言葉か、肺から空気が漏れたときに出てきた言葉だと思うわ」
「あうとか、あおとかですか?」
「ええ、そんな風に聞こえたわ」
「父が落下した場所の近くや、がけの上に人影は見えませんでしたか?」
「人影は見えなかったわ。うちの旦那が、あそこから落ちたのか?と言って、がけの上を見上げたけれど、人の姿は見えなかったわ」
「風は?当日の風はどんな感じでしたか?」
ここまで二人の話を黙って聞いていた玲奈が口をはさんだ。
「風?あそこは、風はいつも強いわよ。あの日も、そうね、強かったわ」
「やっぱり」
玲奈はスマートフォンの画面をリコへ見せながら、つぶやいた。スマートフォンの画面には、リコの父親和明が落下した日の風力を時間ごとに計測した画面が表示されている。
「警察の捜査の結果は、どうだったの?」
第二発見者の女性が、眉を八の字に曲げながらリコへ訊ねた。
「自殺か、事故ということで、遺書がなかったし、靴も履いた状態で落下しているので、事故の線が濃厚だといわれています。というか、事故で処理されています」
「そう。柵を乗り越えて、あの場所へどうして向かったのか不思議なところね」
テーブルの上に置かれたグラスの中で氷がカランと、音を立てて体制を変えた。
「例えば、誰かに殴られて突き落とされたとしても、不思議じゃないですよね」
「そうね。先に殴られて、がけから落下しても、擦過傷や骨折、打撲から違いを導き出すことは、ちょっと難しいかもしれないわね。あっち、これは看護師としての見解なので、医師や警察は違う見解を示すかもしれないわね」
第二発見者の女性は看護師という職業からの意見を述べた。
「父のそばに、なにか気になるものは、落ちていませんでしたか?」
「特には、無かったわね。肩から下げたショルダーバックは、そのまま首に巻き付けられていたし、中に何が入っていたかは知らないけれど」
「あっ、中身は財布とスマートフォン、それから、パスモとハンカチ。くらいでした」
「ああ、そう」
「あの、救助はこちらのご家族で行っていただいたということだと思うのですが、他に野次馬的に集まってきた人っていましたか?」
「ええ、それはいましたよ。がけから人が落ちたとなれば、みんな騒ぎますから。でも、時間帯がちょうど夕方で、あの公園の売店が入った建物も閉館した後くらいだったので、そんなに多くの人がいたわけではないですけれどね」
「その中に不審な行動をとる人は見かけませんでしたか?」
「不審な行動ね………特には記憶はないわね」
「そうですか………」
話が途絶えた。沈黙が築十年、木造建築のリビングを静かに包み込む。
静寂を嫌った玲奈が、佐原の街の情報や家族のことなど、本題とはずれた話題で場を取りつくろう。そして、数分で再び、静寂が訪れた。
「他に訊きたいことはありますか?」
家主である第二発見者の女性が壁に掛けられた時計へ視線を移した。玲奈とリコはお互いの顔を見つめた。
「あっ、三十分というお約束でしたね。もう、特には」
リコが今回の訪問で割かれる時間が三十分が限界であると家主に再確認した。
「そう、そろそろ子どもが帰ってくる時間なので」
「はい。わたしも大丈夫です」
玲奈も同意する。
家主の女性はソファーから立ち上がった。玲奈とリコも必然的に立ち上がらねばならなかった。
「あっ、おじゃましました」
「いろいろ、父の件、ありがとうございました」
玲奈とリコは深くお辞儀をして、玄関の方向へ歩を進めた。
「ただいま~」
玄関のドアが開いて元気のいい男の子の声が聞こえた。頭には野球帽、肩からは虫かごがさげられている。小学校低学年とみられる。
「あら、お帰り」
「あれ、この人たちだれ?お客さん?」
男の子はこの家の子供だ。
「うん、そうよ。お客さんに、ご挨拶して」
「はい、こんにちは。さようなら」
男の子は母親の指示に従い、かぶっていた帽子を取って頭を下げる。玲奈とリコへ出会いの合図と別れの合図を同時に行った。
「はい、こんにちは。さようなら」
子供好きな玲奈が、男の子の真似をして、出会いと別れの挨拶を行った。男の子は玲奈の挨拶を気にすることなく二階へかけ上がっていった。
「それでは、失礼します」
リコは深く頭を下げて礼を言った。玲奈はリコの動きに合わせて頭を下げた。
八月下旬の午後四時三十分。
街並みはまだまだ明るい。街灯の力を借りなくとも行く先は明るく照らされている。
「知らない、年上の人と話すの疲れるね」
玲奈が大きく深呼吸しながら、小野川の欄干に腰を下ろした。
「うん、疲れたね。そこでソフトクリーム食べる?」
リコが川の向こう岸のジェラート屋を指さす。
「いいね~」
玲奈が舌なめずりをしながら答える。
「ここも、おごるよ」
リコの提案に玲奈は「ありがとーごぜーますだ」と江戸商人を真似たような口調で礼を言った。佐原の街は小江戸と呼ばれている。役者の卵である玲奈はロケーションに適したキャラクターへ一瞬だけ変貌した。
川向こうのジェラート屋前には、手書きの立て看板が立てられていた。【さわらは醤油の郷 しょうゆジェラート販売中】と、書かれている。
「しょうゆジェラート???これ、おもしろそう。わたしこれにする」
玲奈が看板を指さしながら注文を決めた。
「あっ、わたしもそれにする」
リコも同じものを注文することに決めた。一つ四百円なので二人分で八百円になる。窓口で注文すると待たされることなく、金銭と商品の取引は成立した。リコと玲奈は受け取ったしょうゆソフトクリームをひと舐めして、これまでの労をねぎらった。
「ねえ、玲奈、どう思う?」
「うん、そうね~醤油の味はほんのりする程度で、ソフトクリーム本来の乳製品としてのうまみをじゃましていない感じがおいしいと思う」
「いや、そうじゃなくて、お父さん、事故か、自殺、それとも誰かに突き落とされたか、どれだと思う?」
「あっ、そっち」
玲奈は一瞬空気を読むように、沈黙した。
「事故かな~」
玲奈は空気を読んで、当たり障りのない答えを選択した。
「そう」
「リコはどう思うの?」
「わたしは、誰かに突き落とされたか事件。自殺はないと思うの」
「うん、そうそう、自殺はないと思う」
玲奈はリコの自律神経を保つようにリコの考えに寄りそった。
「玲奈、明日の青森、新幹線で行こうと思うの、何時の電車に乗ったら一番早く青森につくか、調べてもらえない」
「えっ、乗換案内、まだ使えないの?」
「いや、そういうのは、玲奈の方が得意でしょ」
「はい、はい」
玲奈はソフトクリームの甘さをリコへの奉仕活動へあてることにした。
「青森は、青森市でいいの?」
「うん、青森市内」
玲奈は乗換案内のページから、リコの自宅最寄り駅の駒沢大学駅から青森駅までのルートを検索した。
「午前五時五十三分、駒沢大学駅発の電車に乗ると、午前十時四分、青森駅に到着。これが一番早いわ」
「りょうかい。それにする。東京駅始発だから、自由席でいいよね」
「いや、この電車全席指定のハヤブサだから、指定席を取らないと乗れないよ」
「えっ、そうなの?」
「うん」
「じゃ、帰りの佐原駅で買う」
「ありがとごぜーます」
玲奈は自分の役目を終えると、スマートフォンをテーブルの上に置いて、ソフトクリームへ舌先をはわせた。甘い味わいが信号化されて舌先から、脳内へ伝えられた。ソフトクリームの上を滑らかに移動した玲奈の舌先は、一度口腔内へ戻された。
「ねえ、リコ、青森はアテはあるの?」
「アテ?」
「そう、お父さんが青森のどこを訪れたとか、誰を訊ねたとか、そんな情報は持っているの?」
「うん、少しは」
「そう、ならいいけれど、急に明日青森って言いだすから、単なる思い付きかと思った」
「いや、大丈夫」
リコは自分のゆびさきを見つめた。そして、ぽつりとつぶやいた。
「青森、お母さんの出身地なんだ」
玲奈はリコの返事を聴きながら、第二発見者の女性の言葉を思い出していた。リコの父親が最後に発した言葉が“あう”か、“あお”かどちらかであったことを。そして、日本地図を最初に作成した伊能忠敬が住居を構えたこの佐原の地で得た情報から、旅が始まることも何かの縁かと考えた。いや、旅といっても明日の青森日帰りでいったんこの旅は終了するので、伊能忠敬の果てしない旅とは比べ物にならないと、考えを改めた。
若いころの考えは柔軟だ。
一度決めたことでも、軌道修正することは難しいことではない。フリクションのボールペンのようなもので、少しの熱い思いを加えれば前の考えを消して、新しい考えを書き込むことはできる。玲奈はスマートフォンのカレンダー機能に【青森】と書き込んだ。
つづく