プロローグ
2022年12月に書き上げて、2024年2月に加筆修正した作品です。
真新しい桐箱の中から発せられる臭いに父はいない。
小さな霧箱の中に押し込められた、身長百七十三センチの父の体。
年齢を重ねた男性特有の臭いが父の特徴だった。動物的な臭いで、多くの人が不快に感じる臭いだった。
リコは幼いころに、その臭いを不快と感じたことはなかった。
気温と湿度が上昇した夏の暑い日、大きく広い背中に顔をうずめて、汗と獣臭が調合されたような臭いを鼻腔に感じながら、家路につくことがリコにとって安らぎの時間だった。
安らぎの時間だった父親の臭いをリコが不快と感じるようになったのは、中学生のころからだった。思春期を迎えたリコの心と体が父親の体臭を拒絶するようになった。
拒絶した時期はリコが初潮を迎えたころだ。生命とは実に神秘的に合理的に遺伝子を守るための策を講じているものだ。
鼻腔の奥深くに刻まれた臭いの配列がどのようなものであったか、もう一度父親の背中から確かめることはできない。
しかし、父親がなぜ、小さな桐箱に入ってしまったのか確かめることはできる。
リコの父親【鈴木和明】は、一人旅で訪れた千葉県銚子市の犬吠埼で死体となって発見された。犬吠埼は、元旦に初日の出を拝むスポットとして人気の場所だ。太平洋を航行する船舶へ陸の位置を知らせるため、岬の突端には灯台が背伸びをするように建っている。灯台の役割は、夜間に視界を失った船が陸に近づきすぎて座礁しないためと、日本の経済水域を告知するためのものだ。
けして観光客誘致のために建てられたものではない。
灯台の海側には遊歩道が弧を描くように設けられている。遊歩道の道幅は二メートル程度で、外回りで歩いてきた人と内回りで歩いてきた人が、余裕ですれ違える広さがある。そして、灯台側にも海側にも胸の高さほどの柵が設えられている。柵の先には数メートルの平地の岩盤が広がっている。平地の岩盤の先はがけだ。柵を乗り越えて、数メートル移動して縁まで来なければ、がけ下へ落ちることはない。
柵を乗り越えてがけっぷちに身を乗り出して、何かをつかもうとして、又はなにかを採取しようとして、体のバランスを崩して三十メートル下の海岸へ落下したというのであれば、納得できるが、リコの父親和明が落下した瞬間を見た者はいなかった。
がけ地はつねに強い潮風にさらされ、土壌が少なく表面が乾きやすいため、植物の生育には適さない。そんな環境でも、岩の隙間にしがみついて花を咲かせる植物を目にすることはできる。
リコの父親和明は、特に植物に興味を持っていたわけではない。がけに生えた植物を手にしようとして転落したとは考えにくい。
落下した父親を発見したのは、砂浜でバーベキューをしていた家族連れだった。帰り支度をしていると灯台下の海岸付近からバキッ、ドサッという、大きな音が聞こえたので振り返ると岩場の波打ち際に男性が倒れていた。
倒れている男性に家族連れの中から三十歳代の女性が駆けより、脈を取った。女性は看護師だったのだ。
和明はすぐに救急車で病院に運ばれたが、処置の甲斐なく息を引き取った。死因は頭蓋骨陥没からくる脳挫傷と、くも膜下出血。全身打撲からくる手足の骨折や、あばら骨の骨折も見受けられたが、直接の死因ではなかった。
防犯カメラには和明が転落した位置は記録されておらず、灯台のたもとから柵を超えたがけには争った形跡もないことから、和明が死亡した原因はがけから転落した事故ということで、警察は捜査の幕を引いた。
死亡した原因はがけからの転落ということで間違いはないだろうが、がけから転落した原因が何であるのかは結論付けられなかった。和明がいつも持ち歩いていたショルダーバックは、チャックの口は絞められた状態で和明の肩にかけられたままで見つかっている。がけや海面からは和明の持ち物は他には発見されていなかった。
和明が胸の高さほどの柵を乗り越えて、足場の不安定ながけへ歩を進めた理由がわからなかった。
「で、警察はなんて言っているの?」
代官山の山手通り沿いのオープンカフェで紙製のストローへ口を近づけながら、玲奈がいつもよりも大きめの声でリコに訊ねる。
「警察は事故と自殺の両面で捜査したけれど、遺書が見つからなかったから、事故だろうって」
リコは金属製のテーブルに肘をつきながら、不満そうに答える。
「だったら、事故でしょ」
玲奈の声はあきれた声だ。それもそのはず。
「ねえ、リコ、お父さんが亡くなって、もう二か月だよ。四十九日も済んでるんだから、お父さんの霊魂も、もう、この世をさまよってはいないよ。もう少し、元気出して、行こうよ!」
「うん………」
「そもそも、なぜ、お父さんは犬吠埼なんかに行ったんだっけ?」
玲奈はストローの先端から唇を離してから訊ねた。
「定年退職をして時間ができたから、今までに訪れたことのない都道府県を廻ってみたいって。それで、千葉県の銚子市犬吠埼へ行ったんじゃないか?って、お父さんの友達が言っていた」
リコは力のない声で答えた。山手通りを走る車の音が大きくて、リコの話の半分ほどしか玲奈の耳には届かなかったが、高校生から七年の付き合いである玲奈はリコが何を話したか過去の経験値と調合して理解した。
「リコがお父さんに最後に会ったのは、いつだっけ?」
「二年くらい前、お父さんの還暦でお祝いのお酒を渡したとき」
「その贈呈式に要した時間は?」
「五分くらい」
「五分?まえにその話をしたときは、渡してすぐだから一分くらいって言ってたと思いましたが」
玲奈はあきれた顔で腕組みをして、椅子の背もたれに体重を掛けた。
「はい、玲奈が正解。一分くらい」
あごを上に向けた玲奈と対照的に、あごを引いたリコ。見下す視線の玲奈と顔色をうかがう視線のリコ。
リコは高校を卒業するとすぐに上京した。もっともリコの出身地は埼玉県のさいたま市だから、上京する必要もなかったのだが、早く父親の元を離れたかったので、上京という選択をした。
父親の和明は反対したが、振り切った。
母親の典子は、反対も賛成もしなかった。その理由は、典子はリコが物心ついたころには消息不明となっていたからだ。もちろん、捜索願は出していたが、年間に十万人弱の行方不明者がでるこの国では、反響は皆無だった。
兄弟もいない。
父親和明には兄弟はいたが、リコが物心ついた時にはその存在は抹殺されていた。
「リコ、判るよ。二十二歳にして天涯孤独になって、寂しい気持ちは。でも、彼氏がいるじゃない。わたしがいるじゃない。ね、元気出そう!」
玲奈の両手が頬杖をついていたリコの両手へ伸びる。玲奈の手のひらからリコの手の甲へ三十六・三度の体温が伝わった。
「うん、ありがとう。わたしには玲奈がいるね」
「そう、彼氏の壮太もいるじゃない」
「壮太は、もう、別れた」
「えっ、えっ、いつ、なんで、聴いてないよ」
「昨日。お父さんの遺産のことで、しつこいから。玲奈には最速でいま、言った。他には誰にも言ってない。週刊誌やユーチューバーには絶対に話さないように!」
「わ、判った。壮太がいなくても、私がいるし、高校時代からの友達の七海もつぐみもリコの見方だから、元気を出して」
少し動揺しながら、玲奈が答える。
「玲奈、ありがとう」
リコが口角をあげながら視線をまっすぐに玲奈へ向ける。リコがこの表情をするときはなにか、よくない願い事をする時だ。
「ちょっと、リコ待って」「玲奈、明日、空いてる?」
リコは玲奈の話を最後まで聞かずに、明日の予定を訊ねた。
「明日って、」「大丈夫だよね、事務所には確認済だから」
「えっ、事務所に確認したの?」「うん、マネージャーさんに二時間前に」
「二時間前って、待ち合わせの時間の一時間前?」「そう」
リコも玲奈も事務所こそ違うが、駆け出しの役者で、タレントだ。
「ああ、そう、空いてるといえば、空いてるけれど、それが、なにか?」
「明日、付き合ってほしいの。千葉の犬吠埼まで。お父さんがどんな場所で亡くなったか、この目で見てみたいの」
「そ、それくらいなら、いいよ」
玲奈は少しだけホッとした。リコのお願いはもう少し突拍子もないことが多いのだが、父親が命を落とした場所を見てみたいということは、どんな人の心にも湧き上がることなので、玲奈にとって同調できる許容範囲だ。
「ありがとう」
リコは玲奈の両手を握って礼を伝えた。
明日、半日を使うことで、リコがその後を元気に過ごしてくれれば、消費する時間に対する価値は高いものになる。玲奈は明日の千葉県銚子市犬吠埼へ向かうリコへ付き添うことを了承した。
しかし、この半日が一日に、この一日が一週間に、一週間が、一か月に。そして最終的に四ヶ月の旅になることは、リコも玲奈も知るよしはなかった。
つづく