85 兄妹の苦悩
「邸内で身体を動かすのは悪い話ではない。だから、武術教室に行かせてはやりたいんだが、とりあえず感謝祭を終えてから仕切り直す。…ルークは、どう思う?」
アシュリーからの唐突な相談に、ルークは『どうでしょうか』と…やや言葉を濁す。
「武術の種類にもよりますね。護身術か…他なら、乗馬とかは?」
魔法の国で魔法が使えないレティシアは、加護や魔術、聖力によって守られ、基本ルークという護衛がつく。
そんな中で、レティシアがどこを目指して強くなりたいのかルークには分からなかったが、座り仕事の秘書官が身体を動かしたくなる気持ちならば理解はできる。
「乗馬か」
「…馬車に乗らなくなりますかね…」
「あり得るな」
アシュリーとルークは、単騎で駆けるレティシアの勇ましい後ろ姿を同時に想像した。
「乗馬は…やめておこう。多分、剣術を学びたいんだと思う。前世でも何かやっていたようだから」
「殿下がお認めになるのであれば、異存はありません。邸内ですから、護衛はロザリーでも問題ないかと」
「ロザリーの負担にならなければ、それでもいい」
「はい」
「レティシアは邸での生活に慣れて来たな」
「はい。相変わらず目立ってはいますが…」
「…やはり、目立つのか…」
♢
レティシアと一緒に食堂へ行って朝食を食べた日のことを、ルークはずっと忘れないだろう。
ロザリーたち侍女は朝が忙しい。
そのため、朝食にはルーク、夕食にはロザリーが同行しようと、兄妹の間で決まっていた。
レティシアが期待に胸を膨らませて食堂内に入った瞬間、どこからともなく『えっ』『わっ』と声が聞こえ、ザワッと揺れた空気があっという間に広い食堂全体に広がる。
真っ赤な髪をして大柄なルークは、そもそも目立つタイプ。“狂犬”と呼ばれているだけあって、周りから強い視線を浴びることには慣れていた。
そのルークですら、あまりの注目度にギョッとする。
ふわふわと柔らかで淡い髪色に白い肌、鮮やかな瑠璃色の瞳を持つ美しいレティシアは一際目を引く存在。
上品な華やかさのあるレティシアと、野性味溢れるルークは好対照のカップル。この時は、一筋の光が射しているかのように目立っていた。
これには鈍感なレティシアも流石に気付いて、ルークの背中側にサッと移動して隠れる。食堂の片隅でレティシアを庇いながら食べる朝食は、何の味もしなかった。
今では食堂で働く“お局様”といわれる高齢の給仕係と仲良くなって、いろんなサービスを受けているのだから逞しい。
レティシア本人は貴族ではないと言うが、その外見と異世界人などの条件を含めた場合、平民として庶民の中にはすんなり溶け込めないのだとルークは痛感した。
武術教室へ行けば、また一騒動あるだろう。そう思うとあまりお勧めはできない。
♢
「レティシアには、誰か一人専任の指導者をつけたほうがいいのかもしれないな」
ルークの話を聞いたアシュリーは、練武場ではなく、公爵邸本館の一階にある鍛錬室で個別指導を受けさせようと考え始める。
「そういえば、ラファエルは養子に迎え入れた後…本館へ移り住むんだったか?」
「はい」
レティシアの指導者として、ラファエルに白羽の矢が立った。
「…ですが、成人までの一年間は後継者教育で忙しいのでは…?」
「だから、武術教室へも通わなくなるはずだ」
「そうでしたね」
「ラファエルはきっと毎日鍛錬を怠らない。レティシアのために、少しくらい時間を割いてくれると思うが」
「ラファエルなら、殿下の頼みを断らないでしょう」
──────────
──────────
毎夜訪れるアシュリーが帰った後、ロザリーはレティシアの寝支度を済ませ、兄であるルークの部屋へ行くのが日課。
レティシアの一日の様子をアシュリーに報告するために、兄妹は情報のやり取りをしなくてはならない。
この日、ロザリーはいつもより随分と早くルークの部屋へやって来る。
「昨日話した庭師のザックさんと、今日も会ったわ」
ひったくり事件があったために他の予定を切り上げ、少し早く公爵邸へ戻ったレティシアとロザリーは、夕食までの時間を持て余し、庭園を見ながら過ごした。
そこで知り合った庭師のザックと、今日は食堂で偶々一緒になったのだという。
「ザックさんは、元々偉ぶってないし気さくなお方だけど…レティシア様はすぐに仲良くなってしまわれたわ」
ザックは何人かの弟子を持つ初老の男性。聖女宮の薔薇園を手がけたことで有名な、一流の庭師だ。
どうやら、レティシアとは薔薇園の話で盛り上がったらしい。
「ねぇ、お兄ちゃん!今日、大公殿下がレティシア様のお部屋にお泊りされるって!!」
一通りルークに報告を済ませたロザリーは、明るく弾んだ声で話し出す。
「…何でそんなにうれしそうなんだ?」
「だって、この前はお二人の邪魔をしちゃったから」
アシュリーとレティシアの抱き合い事件?は、ロザリーの大失敗として現在不動の一位である。
「あれは、誤解だったんだろう?」
「お兄ちゃん!男女関係が進展するきっかけは、どこに転がっているか分からないのよ?!」
「期待を壊すようで悪いが、殿下が今夜お泊りになるのは、明日の朝食をレティシアと一緒に食べるためだ」
「えっ、そうなの?…朝食?…やだっ!どうしよう!!」
周りの大人の侍女たちとよく話すせいで少々耳年増になりつつある妹に、ルークは現実を突きつけた。
クリッと大きな目を見開いたロザリーは、今夜こそはと…いい雰囲気になるキャンドルをいくつも置いてきてしまったと言う。
「あれ…私、また失敗しちゃったの…?」