8 トラス侯爵家2
眠るレティシアを見ていると…生と死の境目を彷徨い、意識がなかった時のことを思い出してジュリオンは胸が苦しくなる。
今日、レティシアの部屋がもぬけの殻だったのを見た瞬間…心の中に不安と焦りがジワジワと滲み出し、いても立ってもいられなくなって必死に探し回った。
「…レティシア…愛しているよ…」
レティシアの頬…唇のすぐ横にそっと口付ける。
「兄としてではなく…男として…ね」
起こさないように柔らかな髪を撫で、レティシアの耳元で甘く囁く。
実の妹への“許されない愛”は、眠っている今しか伝えられない…伝わってはいけない想い。
♢
兄妹では、永遠に結ばれない。
トラス侯爵家の令嬢であるレティシアは12歳で王族の婚約者に決まり、一緒に過ごせる時間はそう長くはないと覚悟していた。
だからこそ、ジュリオンは“兄として溺愛している”と思われるギリギリのところで、精一杯愛情を注ぎ続けてきたのだ。
それなのに…レティシアは突然バルコニーから飛び降りてしまった。赤い血に塗れ庭で倒れていた光景は、今も鮮明に目に焼きついて離れない。
ようやく意識を取り戻し安堵したのも束の間、意味不明な話を口にして混乱した彼女が『レティシアじゃない!』と言い放った瞬間、ジュリオンには分かった。
─ 愛しい私の妹は“死んだ” ─
プツリと…繋がっていた糸が切れた気がした。
あの愚鈍な婚約者の側から救い出してさえいれば、こんな思いはせずに済んだのかもしれない。いくら後悔しても、喪った後では全て手遅れで…虚しさだけが残る。
レティシアと共に生きるために家も何もかもを捨てて逃げてしまおうと、そう考えたことがなかったわけではない。
しかし、結局は兄で居続けた。
「可愛いレティシア。もっと早く…君に“ジュリオン”と呼ばれたかったな…」
ジュリオンは、レティシアを諦める道しか選べない自分の運命を呪った。
──────────
─ レティシアが目覚めて10日 ─
「レティシア様、旦那様がお呼びです」
「…侯爵様が?」
カミラに案内され、トラス侯爵の執務室の扉を開けた瞬間、レティシアは侯爵一家からの視線を浴びる。
(…え…全員…?)
どっしりとした重厚感と艶のあるソファーに侯爵夫妻とジュリオンが座って、レティシアを待ち構えていた。
「お待たせいたしました…お呼びでしょうか?」
「レティシア、そこに座りなさい」
頷いたレティシアが侯爵夫人の横に黙って座ると、侯爵夫人は不安気な表情でレティシアの手をギュッと握る。
レティシアの転落事故以来、トラス侯爵家の家族のみで一所に集まったのは初めてだった。
♢
普通、家族は食事の席で顔を合わせるもの。しかし…レティシアは、ダイニングで一緒に時間を過ごしていない。
食事のマナー、服装や所作など、貴族の礼儀作法に関しては“現世のレティシア”との違いが特にハッキリと見えてしまう。
侯爵夫妻への配慮として、避けるべき場所は弁えているつもりだった。
いつもゆったりしたパジャマやワンピースを着ているレティシアの行動範囲は、邸内といえども限られている。
♢
「実は、国王陛下からのお呼び出しがあった。明日か…明後日には、私とレティシアは王宮へ行かなければならない」
「私もですか?!」
「そうだ」
「…きっと、フィリックス王子との婚約破棄のお話ですよね…」
このタイミングで呼ぶのなら、まず間違いはない。
魔法石に記録された“王子の婚約破棄発言”映像は、すでに家族間で共有済みだった。
「そう聞いている」
「あちらは…どう出てくるのでしょうか?」
現状、王子が“婚約破棄だ”と騒いだだけで…正式な書類や通達はないという。
この話がどちらへ転ぶのか?レティシアとしては非常に気になる。できることならば…いや、確実に破棄して貰いたい。
(あんなバカ王子との結婚なんてお断りよ。貴族とか…ヘンテコな社会に身を置きたくもないし…)
一方、トラス侯爵は予想していなかったレティシアからの問いかけに驚いて、少しの間考えていた。
「陛下は、我が侯爵家との繋がりが欲しいのだ。そう簡単に婚約破棄はしないだろうと…私は思うが」
「つまり、婚約を続けようとするってことですね?そもそも、政略結婚であると…」
レティシアは、眉根を寄せて上目遣いでトラス侯爵を見つめる。
トラス侯爵は咳払いをして、思わず俯く。
過去に貴族令嬢のお手本だと称賛を受けた娘から…初めて向けられる刺すような眼差しは、軽蔑を含んだものに感じられた。
「…うむ…陛下から強く望まれて結んだ婚約だ。とはいえ…今の我々の状況をまだ何もご存知ではない。今後については、判断がつかないところではあるな」
「そうですよね…それなら、先ずは起こった出来事を全て話してしまいましょう」
国王に直接会うとなれば、レティシアの今の姿はどうにも隠しようがない。
“一時的な記憶喪失”で切り抜けるのは、婚約破棄問題の解決を先延ばしにするだけで無意味。
「陛下にありのままを話すというのか?…しかし…それで、どのように収拾をつけるつもりでいるんだ?」
「大体の人間は、なぜそうなったのか…つまり、理由を知りたくなるものなんですよ…」
「…理由…」
身に覚えがあるトラス侯爵は、弾かれたようにレティシアを見た。
「…っ…まさか…」
「私は国王陛下のお人柄を存じておりませんし、フィリックス王子の言い分をどの程度お耳に入れていらっしゃるのかも分かりません。ですから、全てを覆すくらいの隠し玉を持って行くのは…悪くないですよね?」
(映像は“現世のレティシア”が自分と家族を守るために残した保険よ。有効に使わなければ…)
トラス侯爵家でどんな騒動が起きていようが、国王からの呼び出しには応じるのみ。
侯爵夫妻もジュリオンもそれが分かっていたために、邸内から一歩も出たことのないレティシアを心配していた。
ところが…この機会を逃さず、逆に利用して積極的に婚約破棄を狙おうとするレティシアに啞然とする。
“家族会議”は短時間で解散となった。
──────────
「侯爵様、少しよろしいですか?」
「…どうした…」
「部屋で…ご両親とジュリオン様に宛てた手紙を見つけました。本に挟んであったので気付くのが遅くなって…中は見れませんし、手紙をどうするかは侯爵様に託したいと思いまして。…どうぞ」
トラス侯爵の瞳が、わずかに潤んで揺れる。
「それから、本当に申し訳ないのですが…やはり、私は貴族としては生きていけません。侯爵様も、私をどう扱うべきか…きっとお困りですよね?」
貴族社会の中では、身分や格式、高貴さが重要視されている。
だから、それを欠いた今のレティシアを邸内から出せないのだ。囲われている自覚は十分にあった。
「婚約を白紙にできたら、この邸を出て行くことをお許しいただけませんか?」