69 馬車にて
─ ガタゴト ガタゴト ─
アシュリーと、その隣にレティシアが座った馬車は、ラスティア国前君主“ダグラス・コーエン・ユティス公爵”の邸へと向かっていた。
形式上必要な挨拶をするために会いに行くのだとばかり思っていたレティシアは、その邸が『これから生活する家』だとアシュリーから知らされた時、大して揺れてもいない馬車の座席から転がり落ちそうになる。
「ダグラス…コーエン・ユ…ユ…えっ、公爵様?私、そんな偉い方のお邸に住むんですか?!」
「ユティス公爵閣下、今日からお世話になる邸の主人の名だ…覚えて。レティシアは、本当に貴族が嫌いなんだな…フフッ…」
レティシアの腰に手を添えて支えていたアシュリーは、一瞬でサーッと顔色を青くしたレティシアの怯えた様子を鼻で笑うが、単純に好き嫌いという感情で青ざめているわけではない。
この先、レティシアの行動一つひとつが雇用主であるアシュリーの評判に響くだろう。だから、宮殿では精一杯仕事に励むつもりでいる。反面、オフタイムは多少のんびりしたいと思っていた。
(なのに…貴族の最上位である公爵家で暮らせというの?)
貴族生活に馴染めないからと、侯爵家を出て平民となった礼儀知らずのレティシアを、さらに格上の公爵家へ送り込む意味が分からない。何かやらかした後では手遅れとなる。
「…ちょっ、笑いごとじゃありません!殿下」
「私の叔父…父上の弟となるお方だ、心配ない。会えば分かる」
「心配ないと言われましても、私に全く自信がないのです」
「ルークが叔父上にレティシアの話をしたところ、叔母上…公爵夫人が是非君を邸に住まわせたいと、あちらから申し出て来られた。だから…よっぽど大丈夫だ」
「楽観的過ぎやしませんか?!」
(ルーーーク…っ!…一体どんな話をしたのよ?!)
やっぱり呪いの人形にルークの名前を書いてやろうかと、レティシアは恨めしげな顔をしながら少し涙目になる。
「殿下、確か…生活環境云々は私の希望がどうとかって話でしたよね?!…使用人の宿舎、できれば一人部屋でお願いしますっ!」
「宿舎?何を言っている。聖女様の妹君を預かるんだ、そんなところに住まわせるはずがないだろう?」
「…妹…はっ、えぇっ?!」
アシュリーは、動揺して口をパクパクとしているレティシアの腰から手を離すと…少し意地の悪い顔を向けた。
「実は、陛下よりレティシアを異世界人として丁重に扱おうかと…直接、そういったお言葉をいただいていたんだ。聖女様も同じお考えだったようだから、先を越されてしまった形になったけれどね」
「国王陛下が?私はお会いしていないのにどうして…いえ、サオリさんのお話も最初はお断りしたんですけれど…最終的には利点があるからと、何かこう…」
(貴族が面倒で…つい。でも、バチが当たった?公爵閣下のお邸に住む羽目になるだなんて…)
「ふぅん、そう。パーティーも…最初は断ったのかな?」
「…パー……っ!!」
咄嗟に顔を背けたレティシアの頬に、アシュリーの冷たい視線が鋭く突き刺さる。
(そうだった、パーティーの話を伝え忘れていたわ!もしかして、殿下の機嫌が悪そうに思えたのは…)
「私は怒っているんだが、レティシアは気付いていた?」
「…はい…誠に…申し訳ありません。一ヶ月後の感謝祭に参加する旨を…殿下にお伝えしていなくて」
「違うよ、レティシア」
アシュリーが大きくため息をついて、プイッとそっぽを向く。
「…私に、何の相談もなく決めたことを怒っている。一ヶ月先のパーティーなら、その場で即答しなくても、一旦持ち帰って考える…それでよかったはずだ。異世界人としての公表は、他にも手立てはあった」
「…殿下の仰る通りです…」
「まぁ…聖女様から、強引に誘ったその経緯については聞いている。強い後ろ盾を持てば、厄介な貴族たちを牽制できるからな」
「…はい…」
「聖女様はドレス制作に浮かれていた。パーティーの話さえ聞いていれば、私だって…レティシアに新しいドレスを贈ったものを…」
アシュリーは、レティシアにドレスをプレゼントできない事実にも不満を漏らす。
この世界の主従関係においては、従者のドレスを主人が準備するという決まりでもあるのだろうか?
とはいえ、制服作りへ結構な熱の入れようだったアシュリーの姿を今しがた衣装部で見たばかり。とてもじゃないが…たとえそれが雇用主の義務だとしても、これ以上手を煩わせるわけにはいかない。
シュンとしたレティシアを見て、アシュリーは何も言わずに柔らかな髪を撫でる。
「…………」
「…あの…殿下、この度は本当に…」
「次、同じような話があったら…気をつけて欲しい」
謝罪しようとしたレティシアの言葉を遮って、アシュリーは優しい声色で…念押しするように言った。
「今後は、殿下のご希望にきちんと添った行動を心掛けてまいります。申し訳ありませんでした。本来、私は進んでパーティーに参加したい人間ではないので、今回が最初で最後になると思います」
「そうか。本音を言うと、パーティーに行かせたくない。君に関しては、自分でも驚くほど度量が狭くてね…だから、私も一緒に参加をしよう。先程、聖女様にも許可を得た」
「えっ?!…殿下、ご無理をなさらないでください」
(嘘でしょう!!)
アシュリーをパーティーの人混みの中に放り込むなどあり得ない。レティシアの全身の血が激しく脈打ち始める。
口煩い古狸の集りと、お誘い令嬢たちがダブルで殺到する恐ろしい光景が目に浮かんだ瞬間、頭の中に悪い妄想ばかりが湧き上がった。
若き君主である大公アシュリーが進んでパーティーに出ることはなく、代理を立てるのが常だとサオリから聞いていたため、感謝祭には不参加だとレティシアは思い込んでいたのだ。
王族の方々への挨拶と、異世界人であると公表する目的さえ果たせば、早々にラスティア国へ引き上げていいとの話に乗った自分が浅慮だったと悔やむ。
「それならば、私はパーティーへの参加をお断りし…」
「レティシア」
「…はい、殿下」
「王族である私が参加する意向を示し、それを相手が受けたのなら…覆すことは互いに恥となる。君が行かない場合、私は一人になってしまうな?」
「…あ…」
つまり、アシュリーのパーティー参加はすでに決定事項だということ。
今になってレティシアが騒ぎ立てれば、アシュリーにもサオリにも迷惑がかかる。
(…これは、もう駄目…詰んだ…)
「成人前は王国の催事に参加していた。私はパーティーへ行かないだけであって、行けないわけではない。前にも話した通り、王国内では魔法が使えるし手袋もある。女性が近付いたからといって逃げ出したりしない、私なら大丈夫だ。それに、レティシアが側にいてくれるのだろう?」
「…お側におります…」
そう口にするのが、厚かましいとさえ思えた。
自分の失態があまりにも重過ぎて、気遣ってくれるアシュリーの言葉をすんなり受け入れられない。
─ チュッ ─
「…え…っ…」
頰に素早く押し付けられたアシュリーの唇の感触に気付いた時には、馬車内いっぱいに爽やかな香りが広がっていた。
そのままふんわりと抱き込まれたレティシアは、抗う間もなく温かい胸の中で深く香りを吸い込んだ。
(…んっ…強い香り…)
一度閉じた瞼を開くだけなのに、ひどく億劫に感じる。
現実に戻るのを拒むかのように目を閉じていると、馬車の音や揺れも気にならなくなった。
沈んだ気持ちがどんどん和らいでいくのと並行して、レティシアの意識は霞み出す。アシュリーがどこかに口付け、髪を撫でている感覚はうっすらと残っていた。それが心地よく、より一層離れたくない気持ちにさせる。
トクントクンと…アシュリーの規則正しい心音が、大きく近く響いて聞こえた。