60 大公とレティシア
聖女宮から部屋へ戻ると、アシュリーは出迎えた従者たちを集めて話し合いを始めた。
一人になったレティシアは、サオリから届いた『手紙』を読む。
♢
レティシアがアシュリーの髪に触れた後、彼が悪夢を見ずに快適な朝を迎えたという…明るい知らせだった。
“ナデナデ”がどう作用したのか?レティシアに難しいことは分からない。ただ、これは好機。たとえ期間限定であっても、悪夢を消し去る術が見つかってとてもうれしい。
アシュリーがレティシアに癒しを求めるのは、救われたいと渇望する本能的な欲求だろうと記されていた。
(昨夜の殿下は、心から癒しを望んでいたのね)
神聖なる石の指輪によってレティシアの癒しパワーは底上げされたため、毎日アシュリーの髪に触れれば確実にいい効果を与えられる。そこで登場したのが、主人の一日の疲れを翌日に持ち越さないよう癒す役目を担う“添い寝係”。
(夜な夜な…殿下の寝室を私が公式に訪れるってこと?)
添い寝という文言に少々抵抗を感じなくもないが、レティシアはアシュリーを救えるのなら当然行動すべきだと思っている。
実際に触れ合う二人で一度よく話し合うようにと、サオリからのアドバイスで手紙は締め括られていた。
♢
「…レティシア…レティシア、大丈夫か?」
「あっ…殿下、申し訳ありません…ちょっと考え事を…」
「今日は疲れただろう」
「…身体より、精神と頭が疲れました…」
苦笑するレティシアにつられて『私もだ』と、アシュリーが笑った。
──────────
「少し夜風に当たりに行こう」
「いいですね」
月光と魔法の灯りでぼんやりと照らされた夜の庭へ二人揃って足を踏み出す。昼間とはまた一味違い、何とも神秘的な雰囲気。
歩幅の大きなアシュリーの後についてゆっくりと歩きながら、レティシアはクオンが飛び出して来たのはどの辺りだっただろうか?とキョロキョロ見回す。
「もう、真っ暗」
「…危ないから、手を…」
アシュリーは、レティシアを休憩所へとエスコートする。
足元が暗いとはいえ、ちょっとした段差にまで気を配ってくれるアシュリーが紳士過ぎて、凡人のレティシアはソワソワして落ち着かない。
並んでベンチに座ると、アシュリーがサッと上着を脱いでレティシアの肩に掛けた。
一瞬で全身が爽やかな香りに包まれる。レティシアは上着を引き寄せると、静かに香りを吸い込んだ。
「上着がなくて、殿下はお寒くありませんか?」
「私は“魔法使い”だよ」
「もしかして、今あったかくなる魔法を使ってます?」
「…あったかくなる魔法??…」
どうやら、アシュリーは保護魔法で十分らしい。
「私のいた世界では、寒いのを我慢して女性に上着を貸すのが…ちょっぴり格好よく見えたりするんですけれど」
「それがいい男なのか?…間抜けな気がするが」
「完璧で隙のない男性は近寄り難いものですよ。少し抜けたところがあると、女性は母性本能をくすぐられると言いますから…でも…」
「…ぅん?」
「殿下が寒さを堪えているお姿は想像がつきませんね。殿下は、今のまま…完璧でいいと思います」
「完璧か…王宮では無論そうあるべきだ。ここは気を抜いていい場所ではない」
肩をすくめたアシュリーが、レティシアの隣で何とも言えない表情をしていた。
♢
アシュリーは『王宮では警戒心が強くなる』。
口煩い貴族たちがいるせいだろうと、チャールズの言葉を聞き流していたレティシアだったが、サオリから話を聞いた後では見方を変えざるを得ない。
“気を抜けない”のは、誘拐事件があったからだ。
事件の始まりとなったこの王宮は、アシュリーの様々な思いが深く刻み込まれた場所になる。
(殿下は、常に気を張っているんだわ。髪に触れて癒す以外にも、私に何かできればいいのに)
♢
「秘書官とは、殿下のお側にいるお仕事ですよね?」
「あぁ、私の側に配置するつもりでいる。何か希望でもあるのか?」
「希望という程ではありませんが…殿下が困ったり、大変だと感じた…些細な出来事で構いませんので、時々私に話して聞かせてくださるとうれしいです」
「私の愚痴を聞く相手になると?」
「駄目でしょうか?」
「…駄目ではないが…」
休憩所の天井に反射した魔法の白い灯りが、アシュリーの顔色を窺うように正面から覗き込むレティシアを柔らかに照らす。
ルブラン王国の社交界で、容姿端麗、気品ある侯爵令嬢として目立つ存在だったレティシアは、豪華なドレスや宝石で飾り立てていない姿も可憐で十分魅力的だ。
透き通った白い肌に、夜の闇にも月の光にも負けない高貴な青色の瞳が浮き立って…今夜は一段と妖しく輝いている。
あまりの美しさに魅入られたアシュリーは、身体がジワジワと熱を上げるのと同時に、己の官能が疼き出す感覚にゾクリと震えた。
「…あれ…」
「…あっ!」
濃くなったアシュリーの魔力香に、レティシアが即座に反応する。
慌てたアシュリーは、強い香りを吸い込んで一瞬ふらついたレティシアをベンチから落ちないよう片手で支え、感情の昂りを抑え込む。
これが馬車の中であったなら、レティシアは間違いなく意識を失っていたに違いない。
「大丈夫か?魔力香の話は聞いていたのに、すまない」
「……はい。私は、殿下のお側にお仕えするのですから…この香りに早く慣れないといけませんね…」
レティシアは淫らな感情が特に強い魔力香になるとは知らないらしく、子犬のように擦り寄ってクンクンと香りを嗅ぐものだから…アシュリーは大いに困った。
「…そうか、なるほど…慣らせばいいのか…」