5 レティシア=有栖川瑠璃
「……若い……これは、誰?…」
鏡に映っていたのは、真っ白な肌に深い青色の瞳をキラキラさせたかなりの美少女。陶器のようにスベスベな肌を見て、瑠璃は頬や腕に指を滑らせるのを止められなかった。
右側頭部に大きなガーゼが貼られてはいるが、目鼻立ちの整った育ちのよさそうな顔は、化粧なしでも艶と気品が感じられる。
豊かな胸に細い腰、長い手足はスラリと伸びてスタイルも抜群。胸は…申し分のない弾力と柔らかさだった。
「レティシア様ですよ」
手鏡を手渡してくれたカミラが、瑠璃…ではなく、レティシアの淡いベージュ色の長い髪を優しくブラシで整えながら、当たり前のように答える。
「…嘘、嘘よ…私じゃない…」
「いいえ、レティシア様ですわ」
「…そんな…」
黒髪に黒眼…平凡な顔立ちと身体つきの黄色人種、日本人“有栖川瑠璃”は一体どこへ行ってしまったのか?
或いは、バーナードが言うように…全ては転落事故による記憶障害が引き起こした幻想や妄想であり、そもそも“有栖川瑠璃”は存在していないのだろうか?
(……ハッ…!)
ほんの一瞬、墜落した時の画が頭の中に鮮明に浮かんだ。
何もかもがバラバラに壊れ散らばったそこには、身体の機能が停止して冷たくなって沈んでいく瑠璃の姿があった。
─ 私…死んだんだ ─
どうして、あの絶望的な状況から救出されたと思い込んだのか、今となっては理解に苦しむ。
眼の前を覆っていた濃い霧が、ほんの少し晴れた気がした。
♢
「…私が間違っていたのね…」
どんなに『レティシアではない』と訴えたところで、信じて貰えないのも肯ける。中身はともかく、見た目は完全にレティシアなのだから。
(じゃあ、さっき部屋にいたのは…この少女の家族?)
「ねぇ、カミラさん?」
「レティシア様…私は使用人です。どうぞ“カミラ”と」
ニッコリと微笑むカミラは、杏色の髪に焦茶色のクリっと大きな瞳が可愛らしい。
年齢は10代後半、人懐っこい笑顔が印象的な女性だった。
「あの…この家のことや、私自身について…いろいろ知りたいの」
「…レティシア様…やはり、ご記憶が?…私でお力になれるのなら、喜んでお手伝いいたします。大体、どの辺りから途切れていらっしゃるのか伺ってもよろしいですか?」
「…どの辺り?」
(…そう聞かれても…困ったわ、レティシアとしての記憶が全くないのに)
「えぇっと、カミラ…一通り全部教えてくれる?」
「畏まりました」
こうして『レティシア=瑠璃』は、カミラから情報を入手することに成功したのである。
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レティシア・トラス 17歳
ルブラン王国・第二王子フィリックスの婚約者
父親 クロード・トラス
母親 リディア・トラス
兄 ジュリオン・トラス
トラス侯爵家 商売・輸入業
魔法 あり
「今の私は…レティシア…17歳か」
分厚く白い紙に黒インクをポタポタと垂らしながら、レティシアは呟いた。
カミラから聞いた話を書き留めておこうと紙とペンを借りたところ、ゴワゴワの紙にペン先をインクに付けて書くという…扱い慣れない面倒なモノに悪戦苦闘。
「無理。書くのは諦めよう」
クシャクシャ…と、紙を丸めて机上にポイと投げ捨てる。
「さっき、手を握っていたのが兄。医師と一緒に部屋を出て行った男女が両親。…で、婚約者が…まさかの王子様…」
しばらく一人にして欲しいと頼んだレティシアは、ベッドの上に寝転がりながら頭の中を整理していく。
広い室内をぐるりと見渡せば、それだけでここが中世ヨーロッパ風の異国だと納得する。
アンティーク調の調度品や建具は、どれも細かな彫り装飾が見事。カーテンや寝具などの布製品には彩り豊かな刺繍が施されており、全ての品から高級感が漂う。
「トラス侯爵家は、地位が高くて裕福だとカミラが言っていたわね。使用人も大勢いるみたいだし」
侯爵邸で働く使用人たちは、髪色や瞳の色が皆バラバラで、中には青い髪の男性もいる。普通の外国でないことは一目瞭然だった。
そして、極めつけは“魔法”の存在。流石にファンタジー要素が過ぎる。
「魔法は、漫画やゲームの世界だけよ?現実にあるなんて…あぁ…でも、私の存在自体が魔法以上に一番あるわけがないか。
言葉が理解できるのだって不思議だし…これも何かの魔法?変に補正がかかっているとしか思えないわ…」
大きくため息をついて、両手で頭を抱える。
考えれば考える程…思考の沼から抜け出せない。サイズの合わないパズルのピースを、多少強引にでも嵌め込んでいかなければ終わらない気がした。
─ ここは、異世界? ─
「こういうのは…何だっけ…転生…?…輪廻転生した先がレティシア・トラスで、17年すんなりと生きてきたのに、バルコニーから落ちて…前世である私の記憶がいきなり現れた?…とか…?」
♢
“有栖川瑠璃”は、大学を出て人材派遣会社に就職。事務職に就いて6年目で退職し、語学留学をする寸前で飛行機事故に遭った。
人付き合いや恋愛もそれなり、一般的な常識を持った普通の大人。社会人としてある程度の経験を積み、次のステップへ踏み出したところで…死亡…という記憶がある。
(当時、28歳だったはず。…そこに、レティシアの17年を足したら…40……うん、考えるのはやめよう)
異世界間が全て同じ時間軸かは分からないが…おそらく“有栖川瑠璃”の死は17年以上前の話と見て間違いない。
父親が今どうしているのかを気にするには、時間が経ち過ぎていた。
♢
前世を覚えている、という話は時々耳にする。レティシアの場合、前世の記憶しかなく…現世の記憶が抜け落ちていた。
「きっかけは転落事故。…17歳がバルコニーから落ちる?」
自然と視線がバルコニーへ向く。どこかおかしい気がしてならない。
(事故の後、なぜ前世の私が目覚めたのか…理由を知りたい。先ずは、情報収集!)
レティシアはベッドから起き上がり、そっと歩いてみる。もう頭痛や吐き気はやって来なかった。
最初より動きやすく、心と身体が馴染んだように感じる。
窓際に置いてある大きめの机の引き出しを一段ずつ開けてみると、入っていたのは筆記用具や便箋ばかり。これといって目ぼしいものは見当たらず、レティシアは泥棒になった気分だけを味わう。
─ ガタッ! ─
「…ん?…ここ…開かない?」
上から三段目の、やや薄い引き出しが動かない。しかし、鍵穴はなく…レティシアは疑問に思って首を傾げた。
「あ!…何かが、中で引っかかってる?」
力任せにガタガタ揺らして無理矢理に引き出そうとするが、びくともしない。
(…っ…しぶとい、このっ…開けっ!!)