38 大公殿下3
レティシアは、優しく髪を撫でられる夢を見ていた。
「…ぅん…気持ちいぃ…」
「レティシア、起きた?」
(…え…?)
大きく見開いたレティシアの瞳には、ベッドに腰かけたアシュリーがすらりと長い指で髪を撫でる姿が映っている。
「…何度も声を掛けたが…」
「お…お…起きました!また寝てしまって、申し訳ありません」
レティシアが身体を起こすと、質のいい厚手の生地で仕立てられた上着が肩からスルリと滑り落ち…フワッとアシュリーの香りが舞う。
部屋に帰り着いてベッドに転がっていたレティシアは、上掛けを下に敷いた状態でいつの間にか寝ていたため、様子を見に来たアシュリーが自分の上着を掛けてくれていた。
「敬語に戻ってしまったか」
「…あなたは、大公殿下ですから…」
レティシアの髪と離れてしまった指先を、アシュリーは憂いを含んだ眼差しで眺めている。
(…綺麗過ぎて、心臓に悪いお顔だわ…)
超絶美形な大公のアシュリーを直視できないレティシアは、不自然に目を逸らし…そっぽを向いた姿勢になってしまう。
「レティシア?…この姿は嫌いか?…あぁ…伯爵のほうがいいのか…」
「…も…ちょっと、やめっ…近いです!」
アシュリーはレティシアの顔色を窺うように、背けた瞳を追っては覗き込んで来る。
これでは観念するしかない。
「た…大公殿下は、そのお姿が正真正銘…本物でしょうか?」
「…違う…」
「違うのっ?!」
「……って言ったら、どうする?」
「………ど…」
(…本物の姿ではないだなんて…私だってそうよね…)
「…どうもしないです…姿が違っても、中身は同じ大公殿下ですから。因みに、さっきは笑い声で気がつきました…それに…」
「…それに?」
「香りで分かる、かも?」
(…馬車では動揺して…というか、香りが充満していたから区別できなかったけれど…)
レティシアは肩に掛けられていたアシュリーの上着を胸に抱え、スウッと匂いを嗅ぐと…頷きながら穏やかに微笑む。
「うん、やっぱり…大公殿下からはこの香りがするんです。私、どんなお姿でも分かる自信がありますよ」
「…………」
アシュリーは、自分の上着に顔を埋めて幸せそうな笑顔を見せるレティシアから目を離せなくなり…黙り込んでしまった。
「どうされました?」
「………まいったな…」
甘い口付けの余韻がまだ残っているせいか、アシュリーはレティシアに触れたくて堪らない。しかし『適度な距離感』を求められているため、接触は控えるべきだと考えを改める。
相反する思いの板挟み状態に陥ったアシュリーは、肺の空気を全部押し出すかのように長いため息をついた。
「大公殿下、大丈夫ですか?」
「…大丈夫じゃない…君を抱き締めて、もう一度口付けたい…」
「………へ?」
(…今、何て?…聞き間違いかな…)
動きの止まったレティシアの頭の中に、アシュリーと何度もキスをする映像が…突如として浮かび上がる。
「…あ✩▲◎✦▽➹っ…」
(ま…待って?!私、何やってるのーー!!)
「私たちは、もう恋人同士の設定ではないんだろう…?」
「…っ…設定……あ、はい、そう…その通りです!」
「…残念だ…」
(馬車でのキスは、ノーカンでお願いします!!!!)
レティシアは、頭の中のキス映像を無理やり掻き消した。
──────────
「商店は今日で退職をしたから、私と新たに契約を交わすことにしよう。明日からすぐだけど…いい?」
「はい」
「いろいろ話したかったが、予定を変えて明日早朝にここを出る。君も、夜の内に荷物を準備しておいて欲しい。
諸々の手続きはゴードンに任せておいた。何かあれば、他の従者に手伝わせればいい。バタバタさせて…悪いな」
そう言って…部屋を出て行こうとするアシュリーの後ろを、レティシアが上着を持って追いかける。
「大公殿下、上着を」
「…ありがとう…」
お互いが立つと、大公の姿に戻ったアシュリーの背がかなり高く、ガッチリとした体格であることがよく分かる。
アシュリーはサッと上着を受け取ると、レティシアの寝乱れた髪を大きな手で器用に梳いて整えながら、掬って耳にかけた。
「…君を…早く連れて帰らないとな…」
アシュリーに耳を撫でられ、レティシアはゾクリとする。
視線を感じてふと見上げると、輝く金色の瞳は肉食獣のように冷ややかで…鋭い目つきに変わっていた。
クリっと丸く、淡い緑色の宝石みたいな瞳をした“シリウス伯爵”は、もうどこにもいない。
それでも、レティシアを包み込む落ち着いた香りは変わらず優しい。彼を恐ろしいとは思わなかった。
「はい。私も早くここを出て…新しい国へ行きたいです」
「任せておけ。…明日から…君は私の秘書官だよ」
アシュリーは上着を持って、部屋を出て行く。
♢
レティシアが荷物をまとめ終わったころ、ゴードンが笑顔でやって来た。
アシュリーは他国の要人として特別扱い。
レティシアにとっては最強の身元保証人であり、出入国の手続きは簡略化される。
魔法契約書を勧められるも断り…雇用書類を含め数枚にサインをして完了となった。
「あなたは、大公殿下の貴重な個人秘書官です。ラスティア国内では、殿下以外に頭を下げる必要はありません」
(…わぉ…)
『素敵な髪留めですね』というゴードンの言葉で、レティシアは金ピカな髪留めの存在を思い出す。
(どこかで見たような色合いだと思っていたら、髪留めか)
金色に赤の差し色、アシュリーの瞳と同じだった。