35 デート2
─ ガタンッ! ─
馬車が大きく揺れた瞬間、レティシアはアシュリーの胸の中にいた。
淡緑色の丸い瞳と間近でバッチリ目が合って、様々な記憶と情報がレティシアの頭の中をグルグル回り始める。
(…私、寝てた…?!)
揺れの衝撃は感じたが、アシュリーがレティシアの腰をしっかりと支えていてくれたお陰で、座席からずり落ちずに済んでいた。
「揺れたな…驚いただろう」
「え、えぇ…危うく転げ落ちるところだったわ、ありがとう。もう大丈夫よ」
「…あぁ…」
アシュリーはピッタリと密着している腰から手を離して、気不味そうに小さく咳払いをする。
レティシアは“デート体験中”に、彼を放置して爆睡してしまったらしい。
慣れない馬車の揺れは眠気を誘うものではなく、特別疲れていたわけでもなかった。不思議に思いつつ、緊張感のない自分が少々情けなくなる。
「私、寝ていたみたい…ごめんなさい」
「なぜ謝るんだ?」
「だって…独りぼっちにさせたでしょう?」
「そんなことはない」
アシュリーは、馬車に乗って早々に眠ってしまったレティシアをずっと胸に抱いていた。会話をしなくても、寝顔を眺めながら温もりを感じるだけで胸が熱くなる。
謝罪など必要ないのに、しゅんとする姿が可愛くて…旋毛にそっと口付けを落とす。
「…あっ…ちょっと…」
「恋人同士は、皆こうして触れ合っていた」
「…伯爵様がお手本とする貴族カップルは…かなりラブラブなのね…」
レティシアが思うに…この世界の若者たちは、ジュリオン基準で愛情表現が豊かに違いない。それを日常的に見ていたのならば、アシュリーが羨ましいと感じるのも当然。
「レティシアは、時々私の知らない異世界の言葉を口に出す。意味は何となく伝わって来るから面白いな」
「こんなに砕けた口調で調子に乗るのは、今日だけよ」
「…私は別に構わないが?」
「ご冗談を。年下でも、身分が上の人に対しては敬語を使うわ。この見た目もあるし、その辺りはちゃんとするつもりでいるの」
「28歳だから、だろう?」
「…私の台詞を取らないで…」
「イタッ!」
得意気な顔をするアシュリーの頬を、レティシアは指先で軽く抓ってやった。頬を手で押さえて大袈裟に痛い素振りをする彼の様子が可笑しくて笑っていると、不敵な笑みを浮かべたアシュリーにいきなり抱え上げられる。
「…キャッ…!!」
驚いて身を縮こまらせたレティシアを軽々と膝の上に乗せ、今度はアシュリーが笑う。
「ハハッ…また馬車が揺れるといけない、ここで大人しくしてて」
「えっ…膝…まさか、このまま帰るの?!」
「その通りだ」
「嘘でしょ…あっ!」
アシュリーは再びレティシアの旋毛に口付けて、包み込むように優しく抱き締めた。
──────────
「今日は楽しかった。…ありがとう」
「私も…でも、お礼を言われるなんて何だか変ね。私は、感謝される立場じゃないのに」
「どうして?」
「…それは…伯爵様に触れてはいけなかったからよ。申し訳なくて、あれからずっと後悔しているの…」
(…過去に戻れるなら、絶対に彼の手袋を外したりしない…)
「待ち望んでいた唯一の女性に出会えたはずが、私のせいでぬか喜びに終わって…伯爵様をとても傷つけたわ。本当にごめんなさい」
『運命の人に巡り合えた』と、アシュリーが心情を吐露していたあの日を思い出す度、ひどく辛く苦しい気持ちになる。
険悪な出会いから始まり、真実を明かした今まで…アシュリーは責める言葉を何一つ言わない。それどころか、能力に見合う新しい仕事まで与えてくれた。
ルークの言う通り、思いやりがあって義理堅く男らしい、従者を大切にする人物なのだと分かる。
「…これからは、仕事で伯爵様のお役に立てるよう…」
「レティシア、泣いているのか?」
「…あ…」
青い瞳が潤み始めていることに気付いて、アシュリーが眉尻を下げた。その表情に、レティシアは唇を引き結んで涙を堪えて俯く。
「泣くな…君は悪くないし、私は傷ついていない」
「…どうして、そんなに優しいの…」
「私はレティシアが触れてくれてよかったと思っている。だから、後悔する必要はない」
「…伯爵様…」
気遣いがうれしくて益々涙が止まらない。
アシュリーを見上げたレティシアは、滲んだ視界の先で淡い緑色の大きな瞳がゆっくりと金色に変化していくのを目にする。同時に、爽やかで少し甘い濃厚な香りがブワッと広がった。
(…金色?と…赤…あれ、どこかで見た…?)
馬車内に充満した強い香りに浸って、レティシアの凝り固まった心と身体が解れる。妖しく光るアシュリーの瞳に魅入っている内に、意識がぼんやりと薄まっていった。
♢
アシュリーは、謝りながら涙するレティシアを宥める。『泣くな』という言葉とは裏腹に、濡れた紺碧の瞳の煌めく様が美しくて…しばし見惚れていた。
ポロリと零れ落ちる大粒の涙を指で拭ったアシュリーは、不意に小さくて愛らしい唇へと吸い寄せられる。
─ チュッ ─
軽く触れた唇は柔らかくて、手や髪へ口付けるのとは全く異なる感触…正に、恋人だけが許された行為だった。
力の抜け切った身体を反射的に震わせるレティシアを抱きすくめ、もう一度確かめるようにそっと唇を押しつける。
「…ん…」
うっすらと目を開いて夢心地で素直に受け入れる姿が欲望を煽り、レティシアの唇にもっと触れたくなってやめられない。恋人たちが頻繁に口付けを交わす理由が、理解できた気がした。
アシュリーが我を忘れ、恍惚として唇を重ね合わせていると…突如、身体全体が白くチカチカと点滅し出す。
「……っ……」