207 貴族社会2
「お嬢様、大公殿下がいらっしゃったようです」
「…っ?!」
ソファーに腰掛け、肌へ優しくはたかれるフェイスパウダーの花の香りにのんびりと鼻をひくつかせていたレティシアは、化粧筆の手を止めた侍女長アイリスの声でパッと目を見開く。
護衛が見張りに立つ背後の扉へ視線を向ければ、定番の白いロングコートの裾をフワリとなびかせたアシュリーが厚手の手袋を外しながらこちらへ歩いて来る姿が見えた。
引き締まった表情とガッシリした体躯は君主としての威厳に満ち溢れ、前髪を下ろしてハーフアップスタイルに整えられた長い黒髪からは艶やかな男の色気が漂う。レティシアの好みを外さない、美しく格好いい婚約者の登場に胸が高鳴る。大勢の令嬢たちに囲まれて珍しく談笑する彼を遠目で見ていたせいか、黄金色の熱い眼差しを独占している状況に妙な興奮を覚えた。
「アシュリー様、どうしてこちらへ…?」
「君が休憩中だと小公爵が教えてくれた。今夜は側を離れないと約束していただろう…すまない」
「…それは…」
最後の謝罪の言葉で、叱られた仔犬のように俯いて大きな身体を縮めるアシュリーにレティシアは一瞬戸惑う。
ラスティア国の大公、小国とはいえ国のトップが招かれていれば注目の的となるのは至極当然で、逆にそんな誓いをさせてしまって申し訳ないと謝るべきはレティシアのほうだと思っていたのに…誠実な彼の萎れる様子があまりにも可愛くてより一層愛しさが増す。
「…どうかお気になさらないで…あっ…」
立ち上がって一歩進んだ途端、丈の長いドレスに足を取られて目の前の逞しい胸へと倒れ込む。腰や背中を支えるアシュリーの腕の温もりと柔らかな魔力香に包まれると、そのまま身を任せてしまいたい衝動に駆られる。
咄嗟にレティシアを受け留めたアシュリーはというと、成人した淑女の証ともいえる胸元が大胆に開いたドレスの…少ない布地に押し込められた豊かな双丘の弾力に己の肉体が反応しそうになるのを何とか堪え、平常心を保つために天井を見上げて小さな梁の数を数えていた。
「………大丈夫か?」
「…はい…」
「酔いが回っているな…気分は?」
アシュリーは酔った恋人の介抱役を他の誰にも譲るつもりがない。顎を持ち上げてわずかに熱を帯びた滑らかな頬を親指の腹でそっと撫でれば、レティシアは首を左右へ揺すって恥ずかしそうに瑠璃色の瞳を潤ませる。
「…酔っていません…」
「女性が好む口当たりのいい酒は、後になって足にくることも多いと聞く」
「確かに…飲みやすいお酒ばかりでした…でも、合間に水も飲みましたので心配なさらないで。お化粧を直して少し休んでいただけですから」
「あぁ…うん、そうか」
こういった場でいう女性の化粧直しとはお花摘みのことだ。レティシアはアルコールの影響で赤く火照った頬が気になり、休むついでに化粧で隠して貰っていた。
「そういえば、まだ飲んでいない美味しそうなワインがあったわ…もう一杯くらいなら…」
「パーティーもそろそろ終盤となる。そのワインは部屋に運ばせるといい」
「お部屋に?」
「私と二人でゆっくり飲むのはどうだ?」
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レティシアが軽く入浴を済ませたころ、公爵家はようやく落ち着きを取り戻す。
バルコニーへ出て邸内の明かりが少しずつ消えていくのを見ていると、パーティー開催の事前準備から後片付けまで…知恵と労力と時間を捧げてくれたたくさんの人たちへ深い感謝の気持ちが込み上げて来る。
(私の誕生日も、貴族にとっては大事な社交の一つ)
どんなに地位が高くても、他の貴族との交流が皆無では政治情勢に疎くなり孤立してしまう。茶会やパーティーは華やかな時間を単に楽しむだけのものではない。紙面のみでは得られない貴重な情報交換の場であり、既存の地盤固めや新たな人脈作り、社会的地位を向上させるために必要不可欠だった。
社交界で影響力の強い家門が煌びやかで洗練されたパーティーを開くのは権力や財力を誇示するのに有効で、出会いを求めて参加する若い男女にチャンスを与えることも重要視されている。
勿論、大規模な祝事は義父母がレティシアの成人を心から祝いたいという気持ちの表れだ。あたたかな家族愛があったからこそ、今宵パーティーの主役として輝くことができた。公爵家のさらなる繁栄を願って、今後も可能な限り力を尽くしたいと思う。
(そして、大公妃に相応しい女性となれるように…周りの期待に応えられたらいいな)
♢
「「乾杯!!」」
ボトルで届いた白ワインは、甘みと酸味のバランスがよくフルーティーで飲みやすい。ワインに添えられた魚介のマリネや鶏肉のソテーなどの料理と相性が抜群で、デザートのフルーツタルトとも合う。
「出会ったころ、一緒にお酒を飲まないか?と…アシュリー様が私を誘ってくださいましたよね。本当にそんな日が来るだなんて…ふふっ」
「うん、覚えているよ」
長い年月、毎夜悩まされ続けていた悪夢を見なかった特別な夜を忘れるわけがない。あの日から今日まで、レティシアと共に過ごした様々な思い出の全てがアシュリーにとっては初めての経験ばかりだということを…彼女は正しく理解しているだろうか。
自由を享受する権利が希薄な王族は、想い人と結ばれる確率が非常に低い。ましてや、唯一無二である運命の番と巡り会うなど奇跡に近かった。レティシアを妃として迎え、一度は諦めていた自分の家族を持つ夢がもしも叶うとするならば、偉大な父アヴェルがそうであったように…全力で愛して守り抜く覚悟を持っている。
「令嬢たちとの交流は、随分と進んでいるようだな」
「ベラ嬢とサンドラ嬢が、ご友人方へ積極的にお声掛けくださるお陰ですわ。彼女たちは交友関係が重なっていますけれど、その分一人物に対する情報を多く得られるのが利点なのです。それが案外助けになっていたりするもので……ところで、アシュリー様は一体誰から私の私生活の報告を受けていらっしゃるの?」
今現在、公爵邸に住まうレティシアの側にはロザリーがいるもののルークは護衛に付いていない。以前のように兄妹が連携するのは難しいため、ふと疑問に感じた。
「ぅん?その問いに答えるならば…ゴードンだ」
「ゴードン?彼は従者たちのリーダーですよね?私ではなく、アシュリー様のお側にいるのだと思っておりました」
「ふむ…まぁ、そうなんだが…」
「どういうことでしょう?」
「……レティシアは、動物たちの中にも微々たる魔力を持つ特殊な生物が存在すると知っているか?」
「動物が?…いいえ」
「ゴードンは、魔力を通して動物と意識を共有する魔法を使う。小さな鼠、小鳥やカラス、猫など…街中や邸にいて当たり前の生物を使役したり、色々な情報を引き出すことが可能なんだ」
「…凄いわ…彼は動物使い?」
それは、元地下組織の人間だというゴードンの能力の一部だった。彼の過去には時折後ろ暗い部分が見え隠れする。
「全ての動物を扱えるわけではないし、物の捉え方が人とは違う分、実際に利用できる生物も限られる。本人は万能ではないと言うが…私は重宝しているよ」
「…つまり、動物たちが私を見ているのですね…」
どうやら、レティシアが誘拐されて以降…時々動物に見張りをさせるようになったらしい。最近はレティシアを覚えた賢いカラスが外出時に飛んでいると聞いて、明日からは空を眺めてみようと思った。
「動物との意思疎通は、珍しい魔法なのですか?」
「私は他に使い手を知らないが…ゴードンの母国では自然魔法と呼ばれていて、悪魔崇拝の残る土地によくある伝統的な古い呪文だという話だ」
「…古い呪文…」
「どうした?」
「…いえ…ちょっと…フロム嬢のことを…」
「兄上の宮殿で銀狼を助けた令嬢か?」
「はい。実は、以前フェイロン子爵家のお茶会へ参加した時に…私は偶然フロム嬢に会っていたようで…」
ラスティア国のフェイロン子爵家は、アルティア王国のエーベラー伯爵家の分家。フロムとサンドラは親戚関係にあり、伯爵家のフロムが本家の娘となる。
しかし、フロムは婚外子。母親の亡くなった後に引き取られはしたが本妻のいる伯爵家には居場所がなく、調合師となった彼女は家を出て一人で暮らし、薬草の栽培を手掛けるフェイロン子爵家へ出入りするようになった。
「あの狼の騒ぎの後、眼鏡を掛けていた令嬢がフロム嬢だったと気付いたのです」
「…なるほど…それで、今ではフロム嬢も友人だと…」
「えぇ、サンドラ嬢にお願いしましたの…よくご存知ですわね。では、アフィラム殿下がフロム嬢を気に掛けていることも?」
「………いや…それは初耳だが…」
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。本日の投稿が遅くなりまして、大変申し訳ありません。
また、206話の分割を一つにまとめさせて頂きました。宜しくお願い致します。
次話の投稿は、月末頃を予定しております。
─ miy ─




