206 貴族社会
「公女様…如何なさいましたか?」
「ご気分が優れないようであれば、急ぎ馬車をお止めいたします」
「…え?」
反射的に顔を上げたレティシアは、聖女宮を離れた後…自分がずっと無言のまま俯いていたことに気付く。
(…いけない…ぼんやりし過ぎたわ…)
留まっていた時間が動き出したかの如く、外から伝わる車輪の音と不規則な揺れが全身へ響き始めた。
強張った表情で向かいの席に座っているのは、義母クロエによる厳しい訓練を受けた護衛の女性二人。任務中は緊急時に備えレティシアと適度な距離を保ち、必要最低限の会話しか許されていない。
「いいえ、大丈夫よ」
「「…………」」
「お義父様やお義母様には…何も言わないでね」
少々掠れた声を隠すように人差し指を唇の先へ当てて静かに微笑むと、戸惑った彼女たちは顔を寄せ合う。
公爵家に仕える私兵が、当主より課せられた報告の義務を怠るとは考え難い。こうなっては仕方がないと諦め、レティシアは再び黙り込んだ。
(話を聞くと決めたのは、私)
二度三度と頭の中で繰り返される、サハラの語ったレイヴンの昔話。こうしてジワジワと記憶に刻まれて行く感覚は今までも経験済みだというのに、寂寞の思いが不意に訪れては胸を締め付ける。
♢
17歳で魂の永眠を望んだレティシア・トラスは、10歳のころ『魔力を失ってよかった』とレイヴンに告げていた。
ルブラン王国の王家の血筋にもかつては魔法使いが存在していたが、何時とはなしに誕生が途絶えて久しい。もしレティシアに魔力があれば、能力値や年齢差など関係なく即王太子の婚約者に据えられ、ゆくゆくは魔力持ちの世継ぎを生む使命を背負う運命が待っていただろう。
仮にそうであった場合、たとえ魂が消滅し記憶を失い中身が別人に成り代わる想定外の事態が起きたとしても、価値あるレティシアの身体を簡単に諦めはしなかったはずだ。
(…魔力がないお陰で、助かっていたなんて…)
国や家の社会的利益と繁栄のための政略結婚は、貴族の責務とされている。平民が羨む裕福で優雅な暮らしをしながら親の敷いたレール上を歩く貴族の娘に本当の自由はなく、トラス家の立場や功績を知る聡い侯爵令嬢は王命が出れば受ける他ないと十分理解していたに違いない。それでも、婚約相手が第二王子フィリックスに決定した時、12歳の純真無垢な少女はどんな思いを抱いたのか。
(実の兄への愛を自覚して、苦悩と葛藤の末に清い身のままこの世を去ろうと決意したのかもしれない)
一方、閉鎖的なエルフ村に50年閉じ込められ、過酷な日々を耐え抜いたレイヴンは“未知の生物”と出会う。初めて家族以外の優しさに触れた彼は、儚く脆い少女を興味深く見守ると同時に、壊滅させた村の生存者として新たな生き方を一から学ばなければならなかった。
同族の長たちが宿す神力を遥かに凌駕する魔力を得て、無事再会を果たした弟と共に名を上げ、10年足らずで稀代の大魔術師と崇められたレイヴンが…自死を選んだ少女を守り切れず『心を支えてやれなかった』と悔み呻吟した姿を、レティシアは今でも鮮明に覚えている。
(…まさか、レイヴン様との出会いを聞く日が来るとは…)
大事な話を喋ってしまって問題ないのかとサハラに問えば、彼曰く『秘密にして欲しい話をお喋りな獣に教えたりはしない』と。つまり、真実を知っても構わないという意味だ。異世界人のレティシアが新たな世界で確固たる居場所と幸せを手に入れた今、区切りを付けるにはいい頃合いだとサハラは呟いた。
(レイヴン様は、もう私とは会わないつもりね)
レイヴンとレティシア・トラスの思い出は、きっとここで終わりを迎える。二度と忘れないよう、記憶の奥深くへしっかり刻み込んでおかなければならない。
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「「「おめでとうございます!」」」
これまで滅多にパーティーへ参加しなかった大公アシュリーが間違いなく登場する“レティシアの誕生日”とあって、招待した貴族はもれなく全員出席。最早、私的な祝事とは思えない程の規模になっていた。
君主と公爵家、両方に直接挨拶が出来る絶好の機会を逃すまいと意気込む男女の熱気は今が最高潮だ。
今夜はアシュリーも招待客の一人。
妖精のようなレティシアが大階段から軽やかな足取りで会場へ舞い降りてきた時には、あまりの目映さに周りの者たちと同じく感嘆の声を漏らす。
婚約者同士、二人で仲睦まじく寄り添っていられたのは最初だけ。徐々に集まって来た貴族から各々話し掛けられ始め、気付けば離れ離れになっていた。わらわらと群がる大勢の客を適当にあしらう行為は、パーティー主催者である公爵家の名誉を傷つける。よって、アシュリーは丁寧且つ迅速に笑顔でひたすら挨拶を続けた。
今宵、未成年ながらユティス家次期当主として正式に紹介されたラファエルは、義父母の擁護を受けて上手く立ち回っている。当分の間は好奇の目に晒され何かしらの洗礼を受けるだろうが、元より貴族の生まれ…揺るがない覚悟と決意を持ち、社交界を生き抜くに違いない。
「ぅん…レティシア?」
会場内にいたレティシアの気配を感じなくなって、アシュリーは思わず紋様のある左胸に手を当てて呟く。素早く辺りを見渡せば、丁度飲み物を手にして中央付近で休んでいるラファエルが視界に入った。
「…ブホッ!」
後頭部に鋭い眼光を向けられたラファエルは強い魔力にビクリと身体を痙攣させ、口に入れたばかりの果実水を吹き零しそうになる。振り返った先にいたアシュリーの顔には『レティシアを探せ』と書いてあった。
♢
ユティス公爵家主催のパーティーが大層賑わう中、会場を抜け出して鮮やかに彩られた庭園に続く廊下を反対方向へと進んだラファエルは、目立たないバルコニーの端で欄干にもたれ月を見上げる義姉の後姿を目にして足を止めた。
「……義姉上?」
薄暗闇の壁際に息を殺して立ち、バツが悪そうな困り顔で頭を下げる数名の護衛へ哀れみの目を向けつつ…小さくため息をついてから声を掛ける。
「こちらにおられたのですね」
「あら、ラファエル…もしかして、ロザリーに聞いて来たの?」
「えぇ、お姿が見えなかったものでどうされたのかと」
「お化粧直しのついでに、少し休憩を取らせて貰おうと思って。あなたも今夜はお披露目があって大変だったわよね、私と一緒に息抜きをするのはどう?」
「私は公爵家を継ぐ身ですから、この程度でへこたれていては話になりませんが…?」
「ふふっ…そうね。私もお義父様とお義母様の娘として恥ずかしくないようにやり遂げたつもりよ」
「はい、大変ご立派でした。パーティーの主役は義姉上ですので、お疲れなのは当然です。一息つきたいお気持ちもよく分かります…ですが…」
「なぁに?」
いつもより柔らかく…妖艶に微笑んで小首を傾げるレティシアが、月明かりに照らされて神々しい輝きを放つ。
容貌の造形的な美しさ、淡く光る白い肌、大人びたデザインの青いドレスを難なく着こなす抜群のスタイル、隙のない容姿は完璧と言っていい。本当に美しい女性だと…ラファエルはほんの一瞬だけ見惚れてしまった。
「いえ…側仕えの者に行き先を伝え、護衛を伴ったまではよいのです。ただ、休むにしても寄り道をせず真っ直ぐ部屋へ向かってください。ここは思いの外冷えます。義姉上がお風邪を召されれば、ロザリーや護衛の者たちが責任を感じるでしょう。それに…今は邸内に多くの男性客が出入りしています。おかしな考えを持つ輩がウロついていたらどうするおつもりですか?無論警備は万全です。何があってもお守りいたしますが、そもそも事が起こってはならないのです。義姉上ご自身にも、もう少し警戒心をお持ちいただきたい」
「…ご、ごめんなさい…外の空気を吸おうと…つい」
こんなにも早口で喋る義弟は初めて見る。しかし、話の内容の八割がダメ出しという残念さに…不出来な義姉はしょぼくれた。
「……さては、酔っておられますね?」
「え?いいえ…だって、祝杯のお酒と…いち、にぃ…四杯?」
ぼんやりとした口調で飲んだグラスの数を指折り数え始める姿を訝しげな表情で眺めていたラファエルは、徐ろに上着を脱いでほろ酔い気分のレティシアを手早く包んで抱え上げる。
「キャッ!ちょっと、ラファエル!!」
「このまま、失礼いたします」
ラファエルは、護衛を従えて奥の部屋へ速やかに直行した。
分割していた2話を一つにまとめさせて頂きました。宜しくお願い致します。
─ miy ─




