180 古傷4
「…叔父上、別荘の件ですが…」
「一週間以内に、完璧に整えてみせよう」
「ありがとうございます。私は勿論、何かあればカリムとチャールズも使ってください」
「なぁに…元は私が言い出した話だ、任せておけ」
アシュリーとレティシアは、ユティス公爵の所有する別荘を借りて刻印の儀を執り行う。
ユティス公爵は頼られるとうれしいタイプ、叔父心が疼くらしい。アシュリーの肩をポンポンと叩く笑顔は輝いていた。
「別荘付近の安全については、魔法結界に加えて魔導具も設置しようと思っている。移動は簡易的な魔法陣を使って大公邸と繋ぐか…いや、景色を楽しみながら馬車で走るのも捨て難いな。天気がよければ、ボート遊びや魚釣りなんかも楽しめるぞ。まぁ、二日間ならば寝室を出ることはそうないのかもしれん…」
「叔父上、細かいお話は……一旦座りませんか?」
「…おっと…」
ユティス公爵は大袈裟に口元を手で覆う仕草をして、レティシアとラファエルをチラリと見る。
(…ん?私たち…お邪魔なのかも…)
「ラファエル様、よろしかったら隣の部屋で私とお茶でも?」
「お邪魔でなければ、是非」
「どうぞ、こちらですわ」
ラファエルもレティシアと同じ見解であったらしく、迷わず助け舟に乗った。
──────────
「以前、大公殿下の休憩室だった場所が…すごい本の数だ」
「えぇ、今では本棚に囲まれた私の秘書官室です。来客の予定はありませんし、私たちだけですから気楽になさって。すぐにお茶をご用意いたします、座ってお待ちください」
「ありがとう」
レティシアが部屋の奥にある扉の向こう側へ入って行くのを見届けたラファエルは、室内を見回した後、大きなデスクの前に置かれた椅子へと腰掛ける。
公爵邸で出会って数ヶ月、剣術の稽古で親しくなったレティシアの秘書官姿を見るのは今日が初めてだった。
しばらくして、ティーセットと四角い缶をトレーに載せて戻って来たレティシアは、徐ろに缶の蓋を開けて中身を披露する。
「ラファエル様は、普段どんな紅茶を?」
「私は……その前に、これは…茶葉?」
「はい、カップ一杯分の茶葉を小さな袋に入れたティーバッグです。お湯を注ぐだけで、一人でも手軽にお茶が楽しめますよ」
「ティーバッグ?…初めて見たな…」
「公爵邸では多くの種類の茶葉が管理されていて、飲みたい時はメイドさんが丁寧に淹れてくれますよね。その手間を省いたのがティーバッグです。いろんな味のものを少しずつ密封して保管しておけば、いつでもサッと取り出して自分の好きな紅茶を味わえます。まだ試作品ですけれど、味見してみませんか?」
普通、秘書官は文官を従えているため、自ら紅茶を淹れたりしない。レティシアには文官が付いていないか、或いは不要だと本人が断った…おそらく、後者であるとラファエルは考えた。
個人秘書官室の本棚には、貿易の関連図書がずらりと並び、資料もぎっしり詰まっている。古い書類は年代別、新しい文書は国毎にカラフルな仕切りで分類、ひと目見て分かるように整理整頓されていた。文官も顔負け…何でも自分でやってしまうレティシアは、紅茶すら淹れるだけに留まらない。
「…レティシアが考えて、商品化まで…?」
「これは異世界の知恵と申しましょうか…単に私が紅茶好きというのが正解かもしれませんわ。作ってくれたのはご両親が商店を営む友人ですから、庶民向けではありますが味は保証します。私のお勧めは甘い香りのフレーバーティーで、こちらのブレンドティーは殿下が飲みやすくて美味しいと仰っていました」
「…………」
「ラファエル様?」
(もしかして、紅茶は好きじゃないの?)
レティシアは急に不安になった。
よく考えれば、ラファエルは執務室を出る口実としてお茶へ誘われただけ。ほんの少し付き合う程度だと思っていたところ、怪しげなティーバッグの登場に引いてしまった可能性がある。
「…では、そのブレンドティーをいただこう…」
♢
「本当に…簡単だな。カップと湯があれば済む」
「香りもいいですよね」
ラファエルは、冴えた色合いの湯に浸ったティーバッグがカップから取り出される様子をまじまじと眺め、淹れ立ての紅茶をスプーンでクルリと混ぜた。
銀製のスプーンは毒見代わり。料理や飲み物に混入される無味無臭の毒に銀が反応するという。
「大公邸に立ち寄って来られたそうですが、ロザリーにはお会いになりまして?」
「あぁ…顔は見れた」
事件の後、ロザリーはルークと共に一度ユティス公爵家へ戻っている。公爵夫妻やラファエル、同僚の使用人たちには大変心配を掛けてしまったと話していた。
レティシアとロザリーが攫われ、庭師のザックが容疑者となった公爵家は一時騒然。
ユティス公爵は保身に走ることなく事件解決を何よりも優先し、妹を誘拐されたルークを気遣い、クロエ夫人とラファエルに後を託してアシュリーのいる王宮へ急いだ。
ザックの遺体発見に加え、弟子が全員行方不明との報告を受けた瞬間…室内の空気は凍りつく。最悪の光景が脳裏に浮かび、家族と死に別れた過去の記憶と喪失感が蘇ったラファエルは、胸がざわつくのを抑えられずに動揺する。
それでも自分が任された役目にかろうじて集中し続けられたのは、困難な状況にあっても最善を尽くす…冷静かつ迅速に行動する義父母の圧倒的な力強さに引っ張られたお陰だった。
二人が無事に保護されたと聞いた時には、身体中の力が抜けてしばらく床へへたり込んだ。
「私が公爵家の後継者になって、ロザリーは大公家の侍女となったせいか、今日は少し余所余所しさを感じた」
「常に礼儀正しく、身分と立場を弁えた振る舞いをしなければいけないと…ロザリーは一生懸命なのです。でも、そこがとっても可愛いと思いませんか?」
パアッと表情が綻ぶレティシアの姿を見ていると、あたたかい感情が伝わって来る。こちらまで目尻が下がったように思えて、ラファエルは目元をそっと擦り、まろやかな風味の紅茶をゴクリと飲み込む。
「ロザリーが公爵家を出てしまって、ラファエル様は寂しい思いをされていたんですね」
「彼女が義母上の下へ預けられて三年、顔を合わせない日はなかった。まぁ…当の本人は元気いっぱいに働いていたが…」
「確か、以前ロザリーはラファエル様と一緒に公爵夫人から剣術を学んでいたとか。二人はそこで仲良く?」
「最初は別々に指導を受けていた。ただ、ロザリーはがむしゃらに頑張り過ぎていて、足並みを揃える相手が必要だと…私とペアでの訓練に変わったんだ」
「…当時、まだ12歳くらいでしょうに…」
「一刻も早く力を身につけたいと焦る気持ちはよく分かる。人狼の血を継ぐロザリーには、それだけ切迫した思いがあったのだろう。私たちはお互い家族を失くしていて境遇が似ていたし、彼女は…亡くなった私の妹と年が近かった。
公爵家へ預けられたのは私が先だったこともあって、義母上は私を目標にするようロザリーに言って聞かせた。だから、いい手本にならなければと精進してきたつもりだ」
(…ラファエル様にも、ロザリーが必要だったんだわ…)
「レティシアは、私の身の上を大公殿下から聞いているか?」
「いいえ。サオリさん…聖女様が、ラファエル様の怪我の治療をされたと仰っていました」
「私の家族は、身内の騙し討ちに遭って全員殺された。私も死んだものとして処理が終わっている。大公殿下と聖女様は命の恩人だ。縁もゆかりもない私を死の淵から救い出し…新たな名と、平穏な暮らしを与えてくださった」
理不尽に家族を殺害されたラファエルの怒りや無念の思いは…前世で母親を喪い、命を落とす経験をしたレティシアにさえ計り知れない。掛ける言葉が見つからなかった。
ラファエルとして生きる新しい人生の中で、多くの幸せに出会って欲しいと心から願う。
「私の世界で“ラファエル”というのは、天使の名前なんですよ」
「…天使…」
「はい、ピッタリだと思います」
♢
『私の可愛い天使』と、いつも髪を撫でて微笑み掛けてくれたのは美しい母だった。
家族の笑顔が醜く歪んで潰れ…血に染まる。そんな恐ろしい夢を何度も見ては、現実に絶望し慟哭した。憎しみの感情に蝕まれて清さを失った心が、どす黒く淀んだ沼へドロドロと溶け落ちる。傷の痛みよりも耐え難い苦痛に、もう生きてはいられないと思った。
─ 君は天使みたいだね ─
優しく響く心地よい声、フワリと頭に触れる指先、金色に光る宝玉の眼差し。
母とは何もかもが違うのに、どうしようもなく思い出されて涙が溢れ出る。救われたい…助けて…無意識に縋りついた。
♢
「私には、大公殿下のほうが天使に思える」
「ふふふ…随分と大きな天使様ですね。…私は、殿下が王子様に見えます」
「…………」
「あ、分かります分かります。殿下はそもそも王子様でいらっしゃいますものね。私の言う王子様とは、絵本やお伽話に登場する実在しないくらいに素敵な人のことです」
「さっきも思ったが、レティシアと話していると退屈しない」
「…褒め言葉ですか?」
怪訝な面持ちとは正反対に、曇りのない澄み切った紺碧の空を思わせる青い瞳が煌めく。ラファエルは否応なしに肯いた。
小さな身体に不思議な能力と魅力を秘めるレティシアは、アシュリーが人知れず抱え込んでいた呪いを解放へ導き、冥闇を拭い去った唯一人の尊い存在。
「大公殿下は…あなたを愛さずにはいられないだろうな」
ラファエルは、救いを求めて彷徨う先を照らす光明の眩耀と、渇きを満たされる喜悦を知っている。
180話目、少々文字数が多くなってしまいました。
毎話悩みながらもここまで書き続けられましたのは、読んで下さる皆様のお陰でしかありません。心より御礼申し上げます。ありがとうございます。
次話の投稿は7/20~25頃を予定しております。よろしくお願い致します。
─ miy ─