172 古傷3
「殿下、お待ちしておりました」
「ゴードン、ルークが倒れたらしいな。代わりにレティシアの護衛についてくれて助かった。ルークは大事ないか?レイヴン殿も気にされていた」
「はい、医務室で横になっていれば回復するはずです」
「そうか…ならいい、二人共ご苦労だった」
「カインと私は、殿下のご意向に沿ったまでです。レティシアが途中退席をするようなら、その際にはルークの件も合わせて速やかにお伝えしようかと…申し訳ございません」
「ゴードンに任せたのは私だ、気にすることはない。こちらも、帝国より届いた書類を確認する作業に時間を取られて、報告会前は思いの外慌ただしくしていたからな」
「大変でいらっしゃいましたね」
見張り役のカインを従えて入室して来たアシュリーは、入口で待ち構えていたゴードンと当たり障りのない会話を交わす。
(…今の殿下は、すごく複雑な心境よね…)
忌わしい呪いは解呪できていても、過去の誘拐事件により心に負った傷と蟠りは依然として残っている。
キュルスに関する報告内容には、アシュリーにとって最も触れて欲しくない部分が含まれていた。欠けた記憶が彼の苦痛の塊であるとするならば、寧ろ思い出せなくてよかったと思いたい。
「…レティシア…」
「殿下、お疲れ様でございました」
珍しく下ろしたままの長い前髪の隙間から、煌めく黄金の瞳がこちらを見つめている。
レティシアは努めて平静に、普段通りの笑顔を向けた。
今日、身に着けている薄ピンク色の上品なワンピースは、足元が隠れる長めの丈にしてあり、王宮の出入りにも差し支えのないデザイン。睡眠不足なレティシアの顔映りがよくなるよう、ロザリーや侍女たちが気遣って選んでくれたものだ。
アシュリーは眩しそうに数回瞬きをして、ゆっくりとレティシアに近付く。
「うん…君も疲れただろう」
「…いえ、私より殿下のほうが…私のせいで、ほとんど眠れていませんでしょう?」
「私ならば平気だ。長年悪夢を見続けていた男だぞ?一晩寝れずとも、どうってことはない」
「…殿下…」
そっと肩を撫でられて顔を上げたレティシアは、得意気な表情で片側の口角を上げるアシュリーの口元へ指先を伸ばした。
「そんな風に仰らないでください」
「………すまない…」
甘えた声で謝りながら大きな身体を屈め、自らレティシアの掌に口付けて頬を擦り寄せたアシュリーは、心地よさそうに目を閉じる。
「すっかり飼い慣らされてんじゃん…何この二人ぃ…っ!」
「黙れ」
面白がって茶化そうとするカインの足を思い切り踏みつけたゴードンだったが、辺りに漂う甘美な空気には、カインと同様に居心地の悪さを感じている。
「おまっ、ちょっと…なぁ…レティシアちゃんって、レイの前であんなに淑やかだった?急に大人の女感が増してない?」
「………知らん…」
人前では折り目正しく敬語を使い、美しい立ち姿と凛とした雰囲気がレティシアの持ち味だ。しかし、今は…単に寝不足なだけとは思えない物憂さと、そこはかとない色気が溢れ出ていた。
「すぐに邸で休ませてやりたいが、陛下とレイヴン殿が応接室で待っておられる。少しだけ時間を貰っても構わないか?」
「少しだなんて…大丈夫です、殿下。私は、明日から仕事に復帰する身なのですよ?」
「尚さら、今日は無理をさせたくない」
「えぇ…?」
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ザックが亡くなったと知った後、ひどく取り乱したレティシアが眠りについたのは、外が明るくなり始めてからだった。
青白い肌と赤味のない頬、泣き腫らした目、不規則な呼吸音に…アシュリーは胸が締めつけられる。
広いベッドの上で可哀想なくらい小さく丸まったレティシアを、ただ温めているだけの自分が無力に思えて仕方がない。
荒れた感情を上手く整えられずにいたのは、同化したばかりなせいもある。加えて、一度命を失くした者にしか分かり得ない、死に対する恐ろしく暗い…口惜しくて恨みがましい闇濁とした悲観的な思いが深く根付いていることも否めなかった。
どれ程重苦しく沈痛な心情に染まろうと、それに打ち勝って、レティシアはこの世界で生きて行かなければならない。そう理解していても、朧気になった前世の記憶の中で失われない唯一鮮明なものが“死”なのかと…アシュリーはため息をつく。
「…君は息絶える苦しみを未だ覚えているんだな…怖かっただろう…私のように忘れてしまっていれば…」
閉ざされた記憶が悍ましいものであっても、隠されれば知りたい、失えば取り戻したいと思うのが人の性だ。
アシュリー自身、記憶への拘りを完全に消すことは難しい。レティシアを見て、辛い出来事の忘却を望むのは矛盾している。そもそも、現世での記憶が欠落した状態だというのに…。
「…レティシア…これからは、新しく楽しい記憶をたくさん紡いで行こう。願わくば、私と一緒に…」
モソモソと腕の中で身動ぐ柔らかな身体を抱き締めて、ミルクティー色の髪に優しく口付けた。
♢
「…でんが…おばようございまず…ズビッ…」
目覚めたレティシアは、うつ伏せで寝ていたせいか顔が少々浮腫み、目はほとんど開かず、ガサガサと掠れた低い鼻声で話して…鼻をすすり上げる。
「…これは…すぐに魔法を…」
「ずびばぜん」
「…………」
「あれ、笑っだ…?」
「…い、いや…」
「…見えでないど思っで…」
「…っ…本当に違うぞ?!勘違いしないでくれ!」
アシュリーが焦れば焦る程…逆効果。
レティシアの顔と瞼が腫れて悲惨な見た目となっているのに、それすらも『可愛い』と思う自分は流石に不謹慎ではなかろうかと、グッと息を詰まらせたのが悪かったらしい。
握った両拳を振り下ろし、アシュリーの身体のあちこちをポカポカとリズミカルに叩いて怒り出すレティシアがあまりにも愛らしく…ただ、声を殺して悶絶し続けた。
そうこうしている内に、レイヴンの魔術の効果か?鼻詰まりや顔の浮腫みが治まり始める。大きく腫れて回復の遅かった瞼には、アシュリーが魔法をかけておく。
「昨夜は、ご迷惑をおかけしてすいません。殿下のお陰で、随分と気持ちが落ち着きました。私…ザックさんが大切にしていた造園のお仕事やお弟子さんたちのために、今からでも何かできることがないか考えてみたいと思います」
「私も手伝おう、必要な時は何なりと声を掛けてくれ。…それで、報告を聞きに行く気持ちに変わりはないか?」
「はい…王宮へ行くつもりです」
「では、しっかりと食事をしなければな。さぁ、早く食べないと冷めてしまうぞ」
「いただきます」
レティシアは、朝食の席では昨夜の翳りを見せないよう心掛けた。
静かに見守っているロザリーと不安気な表情の侍女たちが、レティシアの座る背後の壁際にズラリと立ち並んでいる光景がアシュリーの印象に残る。
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「この度の事件では、そなたに辛い思いをさせて申し訳なかった」
「国王陛下のお心遣いに、感謝申し上げます。
事件後は、聖女様と大公殿下のお世話になりまして…今日まで、心穏やかに過ごさせていただいております」
アシュリーとレティシアが応接室へ足を踏み入れると、立ち上がった国王クライスは挨拶もそこそこに謝罪の言葉を述べた。その表情からは、疲労の色が窺える。
(ゴードンさんの言う通り、今回の事件は王国にとって相当な痛手だったんだわ)
グラハムとキュルスの二人は、犯した罪の数があまりにも多く極刑は免れない。
グラハムは王国内で重大な責務を担っていたため、後任への引き継ぎを終えるまでは牢獄で生かされる。キュルスは頭の中が空っぽになるまで、魔塔の地下牢で罪を吐き出し尽くさなければならないだろう。
「レティシア」
クライスと同じく立ち上がり、銀髪と紫色のローブを揺らして真っ直ぐレティシアの側へ歩み寄って来たのはレイヴン。
彼は、今この場にいる誰よりも肌艶がよく血色もいい。
「レイヴン様、事件の時は気を失ってしまって大変申し訳ありません。助けていただいて、それから…キュルスを捕まえてくださいまして、本当にありがとうございました」
「自分の加護を与えた者を助けるのも、違法魔術師を囚えるのも私の役目…当然のことをしたまでだが…」
そう言いながら、儀式のようにレティシアの頬に冷えた指先をそっと当てて小さく頷くと、耳元で囁いた。
「…大公殿下は違う。愛する人を救うため、いつ壊れるとも知れない指輪だけを頼りに、危険を承知で結界の中へ飛び込んだ」
「…っ…」
口調はいつも通りだというのに、まろやかで温かみのある声を響かせるレイヴンに驚きを隠せず、レティシアは思わず身体を震わせた。後からジワジワと、言葉の意味が脳に染みてくる。
何となく見つめ合っていると、レティシアの真後ろに立つアシュリーが気を揉む様子にレイヴンが気付き、意味深に微笑んだ。
「レティシア、完全に同化したようだな。おめでとう」
「…あ、ありがとうございます…レイヴン様…」
いつもお読み下さいまして、誠にありがとうございます。
次話の投稿は4/26~30頃を予定しております。宜しくお願いいたします。
─ miy ─