144 罪
「…ジュリオン、執務室かと思ったら…書斎にいたのね」
ルブラン王国のトラス侯爵家は、婚約者ブリジットとの結婚が決まった次期侯爵ジュリオンのために新しく執務室を設けた。内扉一枚で書斎と繋がる便利な造りの執務室は、邸の中心から少々外れた場所にある。
「ブリジットか…どうした、何か用事でも?」
ジュリオンは昔からこの古びた書斎が大層気に入っていたため、わざわざ隣へ執務室を作ったと言っても過言ではない。窓際には年季の入った大きな机が置かれ、休憩時に使う小ぶりな応接セットは、ソファーの傷んだ背もたれや座面の布地を最近張り替えたばかりだった。
オフホワイトの壁紙を覆うように置かれた背の高い本棚や書棚が室内を狭く感じさせる。昼間だというのに分厚いカーテンは半分が閉まったままで、光の届かない室内の奥が薄暗い。机に座れば自然と目に入る美しい庭園も、どうやらジュリオンの気を引くことはできないらしい。
棚から本を取り出す動きをわずかに止めたものの振り向く素振りのないジュリオンの背中へ、ブリジットがさらに声を掛けた。
「用事って…もうお昼よ?食事の時間を忘れてない?」
「昼?…あぁ…すまないが、少し調べ物をしたいんだ。私の昼食はここへ運ばせてくれないか。君は母上とゆっくり食べておいで」
「そんなことを言って、昨夜も結局夕食にはほとんど手をつけていなかったと聞いたわ。お酒だけ召し上がったの?」
「だから、今朝は皆と一緒に食べたじゃないか」
「えぇ。…ジュリオン、それが普通なのよ」
「手厳しいな」
「…私は…あなたの身体を心配して…」
「分かっている、いつもありがとう」
ブリジットは友人として接してきた時間のほうが長く、妹のレティシアを除けば…ジュリオンが最も話しやすい幼馴染み。いい意味で気を遣わずに会話できる相手、なるべくしてなった婚約者だ。
感情を表に出さないことは貴族の基本。教養がある者は本心を話術で上手く隠し、波風を立てず社交の場では皆と和やかに過ごす。多くの貴族が取引先でもあるトラス侯爵家の名を背負うジュリオンは、当たり前のようにそれが身についている。
常日頃から節度のある行いをしていれば、状況に応じて用いる飾り立てた言葉にも反感を抱かれず揶揄されることもない。周りから見たジュリオンの人物像はすでに出来上がっており、概ね平和だった。ただ、邸内でそこまでの懸命な振る舞いが必要かと問われれば否と答えるだろう。
「…食事を運ばせるわ…ちゃんと食べてね…」
ニコリともしないジュリオンを説得するのを諦め、ブリジットは部屋を出て行く。
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「用事がないと…私はあなたに会いに行けないのね…ジュリオン」
閉めた扉を背にしたブリジットの口からは、心の呟きが漏れ出る。将来、義理の母となるトラス侯爵夫人リディアを待たせているダイニングルームへ…重い足取りで向かった。
♢
ジュリオン・トラスは、トラス侯爵家の権力を受け継ぐ嫡男。少し癖っ毛の栗色の髪と翡翠色の瞳をした美しい容姿と親しみやすい人柄で好感度が非常に高く、この王国の若い独身貴族の中で最も人気がある。
ブリジットという婚約者がいる今でも、一時の恋人や愛人になりたいとジュリオンへ熱い視線を注ぐ下位貴族の令嬢は後を絶たない。
トラス侯爵とコールマン伯爵は親友と呼べる間柄。親同士の付き合いがあって、子供たちは幼いころより互いの邸を行き来しては交流を深めていた。
ブリジットの初恋相手は、一歳年上のジュリオン。茶色の髪に灰色の瞳をしたブリジットは、別段悪い見た目ではないが、パッとしない顔立ちだと己の外見を正しく認識している。いや、自分は極々一般的であって…ジュリオンやレティシアのように光輝を放つ存在こそ稀なのだと思う。
年頃になると、気品ある美貌の侯爵令嬢に成長したレティシアを常に目で追うジュリオンの姿に気付く。ブリジットも同じように好きな人を見ていたから、すぐに分かった。
ブリジットが18歳の時、トラス侯爵家から婚約者にならないか?との打診を受ける。
伯爵令嬢という身分に問題はないものの、ブリジットは社交界で注目度の高いジュリオンの隣に並ぶ自信がない。その一方で、どんなに素敵な女性でもレティシアを押し退けてその座を奪う存在には絶対になれないと確信していた。
『トラス侯爵家が望んでいるのは、着飾って表に立つ妻より堅実な妻…しっかりと夫を支える力を持つ妻だ。侯爵家ともなれば、それは誰にでもできることではないんだよ。おそらく、クロードは多くの家門から娘を後継者の婚約者にとせっつかれているんだろう。だが、我が愛娘を選んで一番に声をかけてくれた。後は、お前の気持ちで決めるといい…ブリジット』
娘の淡い恋心を知る優しい父の言葉に後押しされ、ブリジットはジュリオンと婚約をする。
♢
「あの子ったら…お昼を抜くつもりね」
テーブルに並べられた料理を悲しげに眺めたリディアは、徐々に痩せていくジュリオンの痛ましい姿を思い浮かべて眉をひそめた。
「私の力不足で、申し訳ありません」
「何を言うの、ブリジット…いつも気遣ってくれて感謝しているわ。レティシアがいなくなってから邸が寂しくて、ジュリオンもあの様子でしょう…私が、あなたに縋ってしまったの。ごめんなさい」
「私はジュリオンの妻になるのです、どうか頼ってください」
結婚が決まった婚約者を早めに邸へ迎え入れることは高位貴族では珍しくない。侯爵邸で同居中のブリジットは、結婚式と新生活の準備をしつつリディアから侯爵家の心得と管理業務の指導を受ける。
「そう言ってくれて、とてもうれしいわ…あの子をお願いね」
レティシアが他国へ渡ると決まった日、それを知ったジュリオンの怒りに満ちた形相は、リディアが一瞬ゾッとする程に恐ろしいものだった。
レティシアと会えないまま離れたあの日から、明るかったジュリオンは口数が減り、家族団欒の時間となる食事の席は雰囲気が一変する。時が解決してくれるのを待つしかないとそっとしておいたところ…次第に食事に手をつけなくなった息子を心配して悩んだ末、リディアはブリジットを邸へ呼んだ。
「…では、私たちだけで食事をいただきましょうか…」
「はい」
ブリジットがテーブルにあるベルを鳴らすと、やって来たのはメイドのカミラ。以前、レティシア付きのメイドであったカミラを含めた数名は、未来の“若奥様”ブリジット専属へと配置換えされていた。
「少し冷めてしまってシェフには申し訳ないけれど、二人で食事を始めるわ…飲み物をお願いね。それから、ジュリオンの書斎へ昼食を届けて貰える?食べやすい軽食でも構わないから」
「畏まりました」
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「父上、お呼びでしょうか?…今夜はお戻りが随分と遅かったようですね」
「あぁ…ジュリオン、そこに座れ。お前…また痩せたか?夕食の席に来なかったと聞いたが?」
「昼食を食べ過ぎたもので」
「…………」
執務机の前に置かれた椅子に腰掛けたジュリオンの…その青白い顔を見たクロード・トラスは、唇を引き結んだ。
感情の抜け落ちた表情と、儀礼的な物言い。細身な身体に適度についていた筋肉が栄養不足で落ち…今のジュリオンはかなり不健康に感じられる。
対外的には変化を見せないジュリオンだが、邸内でこうして顔を合わせると何を考えているのかが分からない。虚無の世界に入り込み、狂い始めているのではないか…近ごろクロードは漠然とした不安を抱く。
レティシアの除籍に異議あり!と、声を荒げてこの執務室へ駆け込んで来た果敢な姿を思い出し、つい目を背けた。レティシアを手放したこと、貴族らしく生きろとジュリオンを諭したこと、全てが間違っていたように思えて…罪の意識に苛まれる。
「国王陛下に、アルティア王国でレティシアと会えるようお取り計らいいただけないかと…ご相談をした」
「…………」
「いくつか条件はあるが、願いを聞き入れてくださった」
「…ほっ…本当ですか?!」
「あぁ、陛下の名で使いを出すと仰っていた。返答については……過度に期待するなとのことだ」
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次話の投稿は9/2を予定しております。
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