142 父と子2
「父上、私のために貴重なお時間を割いていただきまして、心より感謝申し上げます」
「理解が早くて実に優秀な生徒だった。最初は、熟れたリンゴのように赤面していたから心配したぞ。誰にでも初めてはある。その時が来たら…焦らず、落ち着いてな」
「大丈夫です。どんなに拙い愛し方であっても、レティシアは私の愛情を優しく受け留めてくれる女性です。閨事が心配なわけではありません。知識を持たずに触れて、彼女を傷つけてしまうのが怖かったのです」
アシュリーはレティシアの首や胸につけた所有印を何となく思い浮かべて、自分の首筋へと手を伸ばした。
「恋仲になるまでの時間で、今の二人の関係をしっかりと築き上げて来たのだな。お互いを大切に思っているのがよく分かる」
「はい」
「レティシア嬢の身体が早く整うといいが…いかんいかん、私まで待ち遠しくなってしまったではないか!」
「大魔女殿の仰る通りであれば、そう時間は掛からないはずです」
「うむ、年寄りは大人しく吉報を待つとしよう。それにしても、よくここまで耐えて来れたものだ」
「感謝祭の夜に暴走して大失敗をしたので、もうミスはできません…絶対に。彼女に嫌われれば私は黒コゲです」
「…お前の恋は…命懸けだな…」
アヴェルは、若干憐れみを含んだ目でアシュリーを見る。
「番を見つけた者は幸運だと言われるが、獣人族からその大変さについて聞いたことはあるか?」
「…いえ…発情期が辛いとは聞きました…」
「愛に溢れた至福の時もあれば、言葉を交わしても抱き合っても満たされず焦燥感が高まる時もある。異種族や年齢差などで上手く相手と結ばれなかった番は、地獄の苦しみを味わうのみだそうだ。幸い、我々には互いの気魂を紋様で刻み込む刻印の力が備わっている。離れていても常に繋がっている感覚と言えば分かり易いか?精神面での安定は、経験者である私が保証しよう。レティシア嬢が番ならば、早めに刻印を与えたほうがいいだろう」
男性王族は伴侶への刻印を避けては通れない。アヴェルの話に頷きながら、アシュリーは視線を逸らしてしばし黙り込んだ。
「どうした、彼女を娶るという話ではないのか?」
「えぇ…勿論。ですが、私の番だと話すつもりはありません」
貴族籍を抜けてまでレティシアが望んだ平民生活。しかし、入国当初に思い描いていた青写真は最早跡形もなく消え去っている。
住まいは公爵邸、姉は聖女、義兄は神獣、恋人は小国を治める王族で…将来は大公妃になるかもしれない。運命の番という事実を差し引いても、すでに盛り沢山だった。
「まぁ、思うようにやってみるんだな」
「はい。レティシアは高い身分や貴族の優雅な暮らしには全く興味がなく、寧ろ煩わしいと侯爵家から飛び出して私と出会いました。刻印で結ばれたとしても、大公妃になるのは断られるかもしれません…」
「つまり、レイを一人の男として見て、魅力を感じて好きになったのか…ならば、望みはあると思うが」
「……っ!」
アシュリーの顔がパアッと晴れやかに変化するのを眺めつつ、アヴェルはヤレヤレと肩をすくめる。
「公認でも婚約でも、大公妃でも構わん…必ず二人で幸せになれ。ダグラスを手本として、見習うといい」
♢
アヴェルの実弟ダグラスは、妻クロエとの間に子供がいない。
ラスティア国の大公として後継者問題を抱えていたところ、アシュリーがダグラスから役目を引継ぐと決めた。
これを機に、愛情を注いで育てたラファエルを養子に迎え新しい家族となるため、ダグラスは王族の掟に従って王位継承権を放棄し離脱…自分たちの幸せを掴んだ。
他国の生まれで魔力を持たないクロエは、ダグラスの魔力を受け入れても維持することができず、魔力耐性がつかない体質。
長年騎士として剣気を放ってきたせいか、魔力を留めず放出してしまうものと考えられ、その状態ではダグラスの子を身籠ることはかなり難しかった。
妊娠したとしても魔力を保持できない子宮内では子が育たず、また、妊娠によってクロエの身体が弱るだろうとの最終的な判断を下される。
ダグラスはクロエの身体を第一に考え、寝室に避妊の魔法を施した。
貴族は、政略結婚が当たり前。愛のない夫婦や子供に恵まれない夫婦が愛人を囲うことは珍しくなく、周りの者たちは見て見ぬ振りをする。
ダグラスが他の女性にうつつを抜かすことはなく、公の場ではいつもクロエと仲睦まじい姿を見せていたが、社交の世界では陰口が絶えない。ダグラスは常にクロエの盾となり、時に剣となって守り抜いた。
『私と結婚していなければ、クロエは子を生み…母になれた。私は、そんなクロエの幸せを奪ったのです』
アシュリーがラスティア国の次期大公と決まった時…ダグラスは愛する妻を想い、アヴェルの前で初めて後悔の言葉を口にする。
親が勝手に決めた男の“後妻”となるはずだったクロエは、それが彼女の望む幸せであったかどうかは別として…子を成す可能性は確かにあった。
アヴェルは、一瞬返事に困る。
『私と結婚していなければ、ダグラスは父親になれたはず。私のせいで、彼は諦めるしかなかったのです』
数日前、クロエが似たようなことを言っていたからだ。
『クロエが幸せか不幸か、それはクロエにしか分からない。だが、この世で一番クロエを愛しているのがお前だと…私は知っている』
ただひたすらに一途な弟へ、兄が言える言葉はそれ以上何もなかった。
♢
番を伴侶に迎えた先輩としてのアドバイスを終えて、アヴェルは執事が淹れ直した温かい紅茶をゆっくりと口に含んで味わう。
「トラス侯爵家のレティシア嬢は、前世が異世界人という稀な星の下に生まれた…正に幻の存在。お前たちの結びつきには、宿命的なものを感じる」
「…宿命…」
「番に心惹かれて追い求めるのは本能。相手が見つからぬまま生涯を終える者も多くいる中で、私は非常に運がよかった。その私から見ても、この出会いは奇跡としか言いようがない。まるで、避けられない定めに導かれているみたいだ」
「…定め…」
アシュリーにとって憎むべき残酷な“呪い”は定められた歯車の一つであり、数々の苦難を乗り越えた先にしか救いの女神は降臨しなかったのかもしれない。
「不思議な巡り合わせだと感じてはいました。レティシアがこの世界で目覚めたのは、私のためではないかと思うくらいに…」
前世の記憶しかない元侯爵令嬢レティシアがアシュリーの前に現れたのは、現世のレティシアが魂を切り離し命を絶つという悲惨な運命を辿ったからだ。彼女は前世と現世で二度の“死”を余儀なくされ…そうでなければ、アシュリーと出会うことは叶わなかった。
レティシアも宿命を背負ってここまで歩んで来たのか、或いはアシュリーの定めに巻き込まれたのか、どちらにしても結果は変わりようがない。
アヴェルの『二人で幸せになれ』という言葉が、アシュリーの胸に響く。
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「ヴィヴィ、ただ今」
「あら、戻って来たのね。…レイ、したい話はちゃんとできて?」
アヴェルとアシュリーが、揃って応接室へと戻った。
アヴェルは、スカイラやサオリと一緒にソファーで寛ぐヴィヴィアンの隣にすかさず座ると、腰を引き寄せ額に優しく口付ける。
「皆様、中座をして大変申し訳ありませんでした。母上、父上と有意義な時間を過ごせました。ありがとうございます」
アシュリーは礼儀正しく一礼すると、部屋の隅で空いた皿をワゴンに積んでいたレティシアの側へ足早に向かう。
「殿下、お帰りなさ……いっ」
ガバッとレティシアを抱き締めたアシュリーは、柔らかな髪に頬擦りしながらホッと息を漏らす。
「で、で、で…殿下っ?!」
「レティシア、一人にしてすまなかった」
「…この親子は…人前で堂々と何してんだい…」
「…私もサハラに会いたいわ…」
スカイラはうんざりした声を出し、サオリは…面白くなさそうに呟いた。
いつも読んで頂きまして、誠にありがとうございます。
頑張って書いておりますが、暫く公開の間隔が空いてしまうかもしれません。大変申し訳ありません。
次話の投稿は8/19を予定しております。宜しくお願い致します。
─ miy ─