131 変化2
「…っ…!」
アシュリーの言葉に反応して、全身の血液が一瞬で沸騰したかのように熱くなった。さらにその熱が顔へと集まって来て頭がクラクラする。
恥ずかしくて堪らなくなったレティシアは、隠れる場所などない馬車内の座席の隅で背もたれにしがみつく。
「レティシア、そんな格好で座っていては危ない」
(お願い!ほんの少しだけ私を放っておいて!)
舗装された道なのか、馬車の揺れは静かだった。
それでも、レティシアが吹っ飛んだ姿を見た経験のあるアシュリーは素早く側までやって来て隣へ座ったかと思うと、背中を向けて小さく丸まったレティシアをフワリと後ろから包み込む。
「…あっ…」
「こっちへおいで」
アシュリーは背もたれにすがるレティシアの手を愛おしそうに撫で解し、優しく自分の身体へ引き寄せる。軽く触れられただけなのに、甘い痺れがゾワリと這い上がって来る感覚に肌が粟立った。
「…これは…君の心臓がドキドキしているのか?」
「…う…」
鋭い指摘に、言わないで欲しかったと…レティシアは両目を固く閉じて眉間にしわを寄せた渋い顔をする。後ろから覗き込んでクスリと笑ったアシュリーは、レティシアのつむじに軽く唇で触れ、髪に擦り寄ってスンと鼻を鳴らす。
背中からジワジワと温もりが染み始め、爽やかな香りはレティシアの身体を溶かして徐々にぬるま湯へと落とし込む。煩く騒ぐ鼓動すら心地よく感じた。こうなっては、もう彼から離れることはできない。
「こっちを向いて…手を出して」
言われるがままに差し出した手を取って自分の左胸へ触れさせるアシュリーを、レティシアが見上げる。
「…どうだ?レティシアよりすごいだろう…」
ドッドッドッ!と、心臓が濁流の如く激しく波打っている。黄金色の瞳を少し潤ませ、焦りを堪えて頬を赤らめる切なそうな表情は官能的で美しく、狩猟本能を必死で抑える獰猛な若い獣のようだった。
(…私だけに見せる顔…)
明るい金の瞳の奥で、赤い光が燃えている。危うい猛りを押し隠そうとする姿から目が離せなくなって見つめ続けていると、アシュリーは頑丈な両腕でレティシアを囲い込んだ。
「…レティシア…教えて欲しい。君の胸の高鳴りは…私と同じものなのか?」
息苦しい二人きりの空間をさらに狭くされたところで、ゆっくりと短く区切って吐息混じりに囁くアシュリーの問い掛けが耳朶に触れる。
閑かな声音なのに、否定を許さない不思議な響きに思えて…レティシアは誘われるように小さく肯いた。
♢
吸い込まれそうな程に深く青いレティシアの瞳にはいつもと違う熱っぽさがあり、その中心に自分の姿が映っているのを見つけたアシュリーは悦びでゾクゾクと血が騒ぐ。
感情が昂って濃い魔力香が一気に溢れ出るのと、わずかにレティシアが首を動かしたのは…ほぼ同時。
「…んっ…」
魔力の急激な変化に気付いて、しまった!と思った時にはもう遅い。小さく呻いて倒れ込んで来る柔らかな身体を、アシュリーは胸に受け止める。
「あぁ…クソッ!…レティシア…大丈夫か?!」
「……はい……」
魔力酔いで胸板へ頬擦りをするレティシアの恍惚とした表情と跳ね上がる興奮に感情の乱れを整えられず、アシュリーは喉から懇願するような声を絞り出した。
「…頼む…煽らないでくれ…」
──────────
「…あれ…」
顔の表面に風を感じたレティシアが目を覚ます。
「気付いたか?…寒いなら窓を閉めよう」
「…殿下…」
アシュリーに抱えられたレティシアの身体は、白いコートに包まれている。記憶はしっかりしているが身動きできない状態で、頭上から甘い眼差しを注がれていた。
「…ごめんなさい…もう大丈夫です…」
「謝るのは私の方だ、すまない……っと…ん?」
グルグルと巻いた大きなコートをどこから解けばいいのか、アシュリーが巻終わりを探してレティシアを膝の上で転がす。
「…んんっ…あっ…ちょっ…」
「えっ?…あぁ…どこだ?…これか」
「殿下、早くしてくださいよ!」
「…アハハッ…悪い…」
あんなに緊張していたのが嘘のように、自然と笑みが溢れる。アシュリーの笑い声を聞いたのは久し振りだった。
乾いた身体が潤いを取り戻すように魔力香をたっぷりと与えられた今のレティシアは、深い安らぎを感じている。会えないと夜も眠れないくらいに、身も心もアシュリーが不足していた。
(…私…殿下を強く求めていたんだ…)
「私が触れても怖くないみたいでよかった、安心したよ」
「殿下が怖い?なぜでしょう…そんなことは一度もありませんが」
「…なっ…一度も?…だが…」
「あったとしたら、殿下はお陀仏確定ですよね」
「…オダブツ…?」
「それに、最近は触れ合っておりません」
「だから、それは……え?触れてよかったのか?」
「あれ?私へのお触りは自由だったのでは?」
「ぅん?」
「夜はお見えになる必要がなくなりましたし、殿下は大変お忙しくされていましたから…機会はなかったと思いますが」
「…レティシア…違うんだ…私は…」
アシュリーは恋愛未経験者パトリックのアドバイス通り、全てを正直にレティシアへ話すことにする。丁寧に、言葉を選びながら語る彼の顔は時折苦しそうに歪んだ。
刻印の能力が備わったアシュリーは、触れ合いによってレティシアを傷つけることを極端に恐れていた。夜会の日に襲ってしまったという事実と罪悪感が、重い足枷になっている。
(…このままではいけない…)
胸の内を明かしてくれたアシュリーに、あの夜何があったのか…こちらも包み隠さず話すべきだとレティシアは思った。
♢
「私が悪かったんです。殿下がこんなに悩まれていただなんて知らなくて、本当に申し訳ありません」
「…私は、ドレスを壊す手荒な行為をしたものだとばかり…よかった…いや、レティシアは私を助けようとして怪我をした…全くよくない」
話を聞き終えたアシュリーは大きく息を吐き出し、窓枠に手を掛けて力が抜けた身体を支える。
「殿下、私のことを大切に想ってくださって…ありがとうございます」
「うん、大切で…君に嫌われたくなくて、私は無害で野菜のような男にならなければと必死なんだ」
「……野菜?」
「あぁ…キャベツが、私のイメージらしい」
「キャベツ?…え…悪い占い師に引っかかりましたか?」
(一体、どんな男を目指しているのよ?)
「殿下は誠実で情に厚く、穏やかでお優しい。ありのままで素晴らしくご立派なお方なのです。そんな怪し気な言葉の呪縛に囚われてはなりません!」
「わ…分かった。ありがとう…もう忘れる」
「そうしてください。もし、殿下が“キャベツ男”になると仰るのなら…私がこの恋心を忘れます」
「…絶対に嫌だ…」
アシュリーは、ようやく自分へと傾き始めたレティシアの気持ちをキャベツのせいで失うわけにはいかなかった。
この日からしばらく、キャベツを食べなかったと後で知ったレティシアは、彼は呪いにかかりやすい男ではないかと心配になる。
──────────
「今日は治療に行かれたのですね。少しペースが早くありませんか?魔力の源の捻れは少しずつ解いていくほうがいいです。無理は禁物ですよ」
「そうだな、聖女様が構わないと仰ってくださるからつい…ふむ…レティシアを手に入れたから、今後は無理しないと約束しよう」
素直にそう返事をすると、アシュリーはレティシアを抱き寄せて柔らかな髪と頬にチュッと口付けた。
「あっ…手に入れただなんて、先のことはこれからゆっくり…お願いします…」
「分かっているよ。口付けは許してくれる?」
「…だって、もう何度も…」
「今のとは違う恋人の口付けだよ?それから、二人きりの時は気楽に話して欲しい。君は…時々、カインやルークとのほうが親しそうに見える」
「へ?」
腕の中に大人しく収まり、男心や嫉妬心に疎く警戒心ゼロの間抜けな顔で振り向くレティシアを見て、アシュリーは自分だけがこの距離を許されたいと強く願う。
「…レティシア…好きだよ…」
ポロリと三度目の告白をしてしまうアシュリーの恋愛スイッチがどこにあるのか、レティシアには分からない。