126 脱・期間限定2
「おや、大公?その顔…お前さん…さては、レティシアから甘い香りがするんだね?」
「甘い?…えっ?!ご両親と同じじゃない!」
ニヤニヤするスカイラと興奮気味のサオリ、二人の視線を浴びたアシュリーは何とも言えない表情をする。大きく変化を遂げた身体と次々現れる新情報に、まだ思考が追いついていない気がした。
「……最初に目覚めた時、今まで全く感じなかった香りに初めて気付いたので…」
「そうかい、それなら…刻印がきっかけになったんだろう」
「大魔女殿の仰る通りかもしれません。確か、香りを嗅いで頭の痛みが和らいだような…」
香りについては、夜中にレティシアを抱き締めて確認したばかり。あの甘い匂いを思い出すと胸が疼いた。
「大公にとってレティシアは癒しの塊なのね。やっぱり、運命の相手って存在するんだわ。私もサハラの香りには刺激を受けたもの…」
「聖女様も…?」
「えぇ。召喚されて花嫁確定だったけれど、ちゃんと恋はしていたのよ。サハラの香りは、爽やかな大公の魔力香とは別物のようね」
「ほぅ、爽やか…アヴェルの魔力香は大輪の花を集めたような『むせるくらいの濃い香り』で、それが胸を焦がす~とか言ってさ…ヴィヴィアンはよく惚気けていたよ」
「力強くて熱い男っていう…アヴェル前国王陛下の雰囲気にピッタリ。そう言われると、大公の香りはちょっと無害な印象かしら?」
「……無害?」
「草食…ううん、ロールキャベツ系よね」
「……キャベツ?」
自分が無害で草や野菜のようなイメージなのだと知って、アシュリーは愕然とする。
「いい意味よ。レティシアは、優しい大公と一緒にいると穏やかな気持ちになるから…さっきみたいにピッタリとくっついて離れないのではなくって?」
「そ…そうでしょうか」
毛布に包まって可愛く擦り寄るレティシアの姿が頭に思い浮かんで、アシュリーは赤面した。
「……純粋。…うちの猛獣とは違うわ…」
「サオリ、心の声が漏れちまってるよ」
♢
「遅くなってすみません、ただ今戻りました!」
明るい声と共に、大きなトレーを手にしたレティシアが治療室へと戻って来る。
「お話は…終わりましたか?」
ベッドを覗き込むレティシアが、リスやウサギがピョコリと巣穴から顔を出した時の様子に似ていて…スカイラとサオリはプッと吹き出す。
「もう済んだよ。…ぅん?いい匂いがするね」
「はい。お粥なら殿下が食べれるかもしれないと思って、特別にパン粥を作っていただきました。大魔女様とサオリさんには、焼き立ての菓子パンがありますよ!」
「あら、焼き立てなら今すぐいただかなきゃね」
「そう仰るだろうと思いました。エメリアさんが急いで紅茶を持って来てくださいます。どうぞ、ご休憩なさってください」
「ありがとう、レティシア」
サオリはレティシアに場所を譲るようにして室内のテーブル席へ移動すると、籠に入った温かいパンを機嫌よく取り分けながらスカイラを呼ぶ。
「おばあ様、一緒に食べましょう!」
「…甘い菓子パン…久しぶりだねぇ…」
──────────
「殿下、よろしければ…パン粥をいかがですか?」
「…せっかくだから、いただこうかな…」
「よかった!」
呪いが解けて女性への拒絶感がなくなったアシュリーは、身も心も自由になった。分厚いベールを脱ぎ去ったように本来の輝きを取り戻し、ベッドにいる状態でも美しい彼が煌びやかな衣装を身に纏ったらどうなるのかと、レティシアは勝手に妄想する。
この先、どんなに楽しい生活が待っているのか?期待に溢れ嬉々としたアシュリーの表情が見られると思って、レティシアはワクワクしながら治療室へ戻って来た。
(少し様子がおかしい?…さっきより元気がない?)
夜会で倒れた理由や、意識を失っている間に何が起きていたのか、アシュリーはスカイラとサオリから詳しい説明を受けたばかり。
過去の誘拐事件の話にも当然触れたはずで、呪いを受けながらも今日まで懸命に耐えてきた彼の心の奥深くには混濁した思いがある。解呪したからといって、その全てが一掃されるものではない。
(私だけが浮ついてしまったわ…短絡的で浅はかね)
「……殿下、ハチミツはお入れしますか?」
「いいや、なくていい」
「はい、………では…どうぞ…」
レティシアは器からパンを一切れスプーンで掬うと、フーッと息を吹き掛けて軽く冷まし、アシュリーの口元へ差し出す。
ミルクに浸ったパン、スプーンを持つレティシアの手、顔…順番に目線を移して、アシュリーは首を傾げた。
「……ん?」
「殿下、早くお口を開けてくださいませ?」
レティシアは真剣に食事介助をするつもりでスプーンを向けている。アシュリーは“アーン”と口を開くよう求められているのだと気付いた。
「…レ、レティシア…その、私は…ぅ…」
『自分で食べれる』と断るのはとても簡単なのに、小動物のように愛らしい彼女の円な瑠璃色の瞳に弱いアシュリーは、口をモゴモゴさせ言葉を濁す。『このまま食べさせて貰いたい』どこからか、そんな欲深い気持ちがジワジワと湧き上がって来てしまう。
「私、目覚めた殿下のお世話もちゃんといたします。…でも、ご無理は申しません。ご自分で召し上がりますか?それとも…」
アシュリーは目を瞑って迷わず口を開けた。
♢
「ご馳走さま」
「…ふふっ…」
「な、何だ?…何かおかしいか?」
(前に、お粥を放置して落ち込んで反省する可愛い殿下の姿を思い出しました…とは言えない)
「すいません。何でもないです」
「…気になるだろう?」
「殿下とは、お粥に絡んだ思い出があるので…つい」
「…むっ…アレか。頼む、忘れてくれ」
パン粥をペロリと平らげたアシュリーは、ちょっと嫌そうに顔の前で片手を振る。
「忘れませんよ。私は殿下のお側で、新しい記憶を日々心と身体に刻みながらこの世界に馴染んで行かなければならないんです。身体と一体化するにも大事なことでしょう?」
「…私の側で…」
レティシアが話している途中で、アシュリーは急に長い黒髪をガシガシ引っ掻いて頭を抱えた。
「殿下っ?!」
「……………くな」
「…え?」
「どこにも行くな」
威圧的に低く響いた声と鋭利な眼差しにゾクリとして、レティシアは一瞬身震いする。
「……っ……」
「思い出したんだ…私は、倒れてからレティシアがいなくなる夢ばかりを見ていた。どんなに追いかけても、捕まえても…君は消えてしまう」
「…そんな夢を…?」
「…あぁ…」
(だから、うなされて…うわ言で呼んでいたの?ずっと私を探して?)
呪いは、アシュリーにとって唯一の存在であるレティシアまで切り離そうとした。名を呼び続けていた声と姿を思い出し、彼を最後まで苦しめた呪いへの怒りが込み上げて来る。
「…私の身体は、呪いに喰われていたんだな…」
悔しそうに顔を歪めて毛布を強く握り締めるアシュリーの手を、レティシアはしっかりと両手で包み込んだ。
「消えたのは呪いのほうです。私は、どこにも行きません」