117 呪いと刻印
「さてと、お嬢さん…名は“レティシア”だね」
意識のないアシュリーが、ずっと呼び続けていた名前。
女性を避けて生きるしかなかった彼が、初めて恋慕の情を向けた相手であるのだろうと…スカイラはさり気なくレティシアの様子を見る。
「…はい、大魔女様…」
呼びかけに振り向いたレティシアは、クリッと大きな瑠璃色の瞳に艷やかなバラ色の頬、柔らかで明るい髪色をした少女。17という年齢の割には、大人びた美しい顔立ちが目を引く。
アシュリーの手をひしと胸に抱く姿は、大好きなドングリの実を抱え込み奪われまいとする小さなリスのようで、スカイラの口元が緩む。
「話は聞こえていたかい?」
「申し訳ありません…しっかりとは聞けておりませんが、殿下が呪いを受けたというお話は理解いたしました」
「十分だよ」
「前に、大公を誘拐した女の呪いだって…レティシアとそんな話をしていたわよね。まさか…」
「…私も、心的外傷によるものだとばかり…」
「誘拐犯の女は、悪魔へ魂を売ってしまったのさ。王宮から王子を攫うなんて無謀で愚かな企みをした挙句、死を覚悟してご丁寧に呪いまで仕込んでおいたんだろう。己の身が滅んでも尚、アヴェルの血を色濃く受け継ぐ王子を他の女には渡さない、今度こそは…ってね。アヴェルはヴィヴィアンのものだが、王子は…大公は、呪いがある限り永遠に誰とも番えない」
『まぁ、そんなところじゃないか』と、スカイラは少し遠い目をする。
「身勝手で恐ろしい執着心だわ。やはり狂っていたのね。でも、王族である大公の真名が容易く使われるわけはないのよ。真名がなくても作用する呪いだなんて」
「元は、今じゃ廃れた古の弱い呪詛…忌詞による黒い呪いというやつだよ。私の記憶の奥底にあるくらい古いものだ。魔法を使って夢にねじ込み、女性は悍ましいという観念を大公に浸潤させた。そこから生まれる闇黒の感情を餌に増幅し、苛烈な反応を起こした可能性は否めないね。殺めるつもりがなかったとはいえ、誘拐犯の頭は完全にイカれてる。だけど、魔法を使う協力者がいたはずだ」
「協力者?」
「失敗すれば、自身に全て降りかかってくるのが呪いさ。実際、失敗のほうが多いと聞く。呪術師か…相当馬鹿な人間以外、普通手は出さないよ。呪術を知る魔法使いを側に置き、念入りに用意していたのか…まぁ、あの爆発的な魔力暴走を起こした場にいたとするなら、誘拐犯共々消滅したはずだがね」
前国王アヴェルと懇意の間柄であるにも拘らず…淡々と王子誘拐事件を語るスカイラは、波立つ心を一切見せない。感情に揺さぶられることなく、物事の本質をしっかりと冷静に見極めていく。
(…大魔女様は、殿下を助ける力を持っているお方…)
スカイラは、治療室で眠るアシュリーを見ただけで、少ない情報とわずかに見えた糸口を掴み取りあっという間に真相を手繰り寄せた。
幅広い知識と豊富な経験、鋭い洞察力から導き出された答えは、おそらく正解に近いものだ。ならば、後はスカイラを信じて呪縛からの解放を待つのみ。
「…やっと…殿下が救われるのね…よかった…」
安堵の言葉が自然と漏れ出て、同時に強張っていた身体の力が抜ける。それでも、アシュリーの手を握ったまま離さないレティシアの様子を興味深げに見ていたスカイラが、ニヤッと笑った。
「…おやおや…ふぅん…パトリックより、大公補佐官に向いているんじゃないのかねぇ?」
「レティシアは大公の秘書官なの、似たようなものよ」
「それはいい…大公を助けられるのなら、全面的に協力する立場にあるってことだろう?」
「はい、勿論です。何なりとお申しつけください!」
使命感に燃えて、真っ直ぐにスカイラを見つめるレティシアの青い瞳が煌めく。
「ふふん…いい目をして、素直な子だ。サオリが可愛がるのも肯ける」
「おばあ様、レティシアはカワイイ17歳だけれど、中身は28歳の立派な大人の女性なの」
「…本当かい?変わった魂だとは思ったが…」
「はい。現世の記憶はございませんが…前世と合わせますと、実は45歳なのです」
「あれまぁ!」
♢
「あっ…そうだわ、補佐官のいない内に話しておきたいことがあったのよ」
「何でしょう?」
小さく声を上げたサオリが、レティシアの隣へ椅子を持って来て座る。
「大公が突然レティシアを襲ったのには、呪いの暴走とはまた別に理由があるの。目を赤くしていたのは、王族特有の“刻印”という能力に関係しているわ」
「刻印が?」
「……あら?…刻印を知っているの…?!」
驚きが少ないレティシアの反応に、サオリは拍子抜けしたような表情をして戸惑う。
「ひょんなことから…大体は知っておりまして」
(どこぞのエロ神が考えたものですよね?)
「まぁ!それなら話が早いわ…刻印は成人して機が熟すると男性王族に備わるものだけれど、大公は今夜が丁度そうだったの」
「あ、成人してからなん……えっ?今夜?!」
「びっくりよね、王族にとってはお目出度い話よ。神から子孫繁栄の力…強い精力を授かって、大公は一人前の男だと認められた。国王陛下の話によると、女性に対して積極的になったり性欲が強くなるらしいわ」
「…積極的に…?」
サオリが握り拳を作った片腕をグッと持ち上げてアピールする姿を横目に、レティシアはいつもとは違ったアシュリーの今日の言動を思い返す。
二度目の告白や気絶する程の甘い囁きは、アシュリーの頭のネジが緩んでいたわけではなく、すでに“刻印”の影響が出始めていたためだと考えた。
「刻印とは、突発的に女性を襲う危険な力ですか?」
「襲われて怖い思いをしたレティシアがそう言うのは仕方がないわ。でも、大公は危険人物じゃない。今回は、呪いが暴れ出したせいで抑えが効かずに我を失ってしまったけれど、本来なら魔力量の多い王族は制御ができるし、寧ろ制御できる身体になったからこそ得られる能力なのよ」
目が赤くなるのは攻撃的になることを意味し、性的興奮もその一つに含まれる。制御できていれば、瞳の中心の赤い部分がやや大きくなる程度の変化に留まる。
(そもそも、制御しなきゃいけない程の猛烈な性欲って何?エロ神よ…そんな力を与えてどうする?)
「大公は、魔力暴走によって源に捻れがあるから、成長に関してはずっと懸念され続けていたわ。成人して半年もの時間が経って、伴侶を迎える条件が漸く揃った。私は…レティシアと触れたり、この一ヶ月呪いを受けていなかったことが功を奏したんだと思う。それ以外の理由は考えられないもの」
正妃となる女性と縁を固く結ぶのが“刻印”で、この王国では男性王族が成人すると授かる当たり前の能力だった。しかし、実はアシュリーには備わっておらず、女性に触れない彼は成人後も『神の定めた条件』を満たせていなかったと思われる。
ところが、レティシアの登場によって変化をした。
「悪夢が呪いだった…呪いが途切れて、殿下は女性に対する嫌悪感が一時的に薄まっていたのでしょうか?」
「えぇ…それが、感謝祭でレティシア以外の女性と接して感じた違和感の正体に違いないわ。普段、女性を近寄らせない大公なら気付かずに過ごしていたとしても納得よ。尤も、異変を察知できたとして、状況が好転する兆しだとは受け取らなかったでしょうし、結果的に呪いに阻まれた可能性は高いわね」
「そうですね…殿下は女性が嫌だと思い込んでしまっている私では、上手く判断ができなかったと思います」
思えば、初めてアシュリーに触れた時…レティシアが“女装男子”だと勘違いされたのも、思い込みから起きたすれ違いだった。
当時は憤慨していた自分が、今ではすっかりアシュリー側の人間に染まり切っている。レティシアは、時の流れを実感せずにはいられなかった。