112 聖女宮2
ロザリーをユティス公爵家へ帰した後、レティシアのためにと用意されたサンドイッチを数切れ口に運び、乾いた喉を紅茶で潤した。
「殿下が…早くよくなりますように」
レティシアには、治療を受けたアシュリーの回復を願うことしかできない。ただ待つだけの状態が辛く、部屋のソファーに座って両手を組んで祈り続ける。
サオリの聖力があれば大丈夫だと分かっているのに、胸が騒いで仕方がない。一抹の不安が拭い切れないのは、アシュリーの姿を目にしていないからだと思った。
(…殿下に会いたくて、どうにかなりそう…)
─ コン コン ─
「はいっ…!」
控え目なノックの音は、エメリアに違いない。レティシアは弾かれたようにソファーから立ち上がる。
「レティシア」
「サオリさん!」
扉を開けたのはエメリアで、そこから顔を出したのはサオリだった。サオリは髪飾りや装飾品こそ外していたものの、まだ衣装は身に着けたまま。夜会を終えたその足で、急ぎやって来たのだと分かる。
駆け寄るレティシアを抱き留めたサオリは、魔法薬の効果が切れて短く戻った髪を撫でてホッと息を漏らした。
「…無事でよかった…心配したのよ…」
「心配掛けてごめんなさい、私はどこも…何ともありません。殿下を助けてくださって、本当に…本当にありがとうございました」
「大公が体調不良を起こすだなんて…レティシアも驚いたでしょう。できる限りの治療はしたけれど、しばらくは目を覚まさないと思うわ」
「はい…サオリさんがいて、ドレスの魔法があって…よかったです。エメリアさんや聖女宮の方たちには、お気遣いをいただきましてありがとうございます」
「…アリス様…とんでもございません、私共は聖女様のご指示に従ったまでですので」
「エメリア、あなたのお陰でとても助かったわ…ありがとう。今夜はもう下がって休みなさい。レティシアの側には私がついています」
「畏まりました、聖女様。では…失礼をいたします」
涙目になって頭を下げるレティシアに微笑みを返し、エメリアは静かに扉の向こう側へと消えて行く。
「さぁ…座って。少し話を聞かせてちょうだい」
──────────
サオリに改めて感謝の気持ちを伝えたレティシアは、アシュリーが意識を失うまでの状況を一通り説明した。治療を施すサオリに最も必要なのは情報だ。
「…レティシアは大公の魔力香が分かるから、最初に香りの変化に気付いたというわけね…」
「はい。殿下に直接触れた女性はいませんでしたが、周りを取り囲む令嬢たちの視線と会場の独特な雰囲気は感じていました。もっと…私がちゃんと気を配っていれば…」
「魔力は感情に左右される…香りだけで深刻な体調不良かどうかを判断するのは困難だわ。いつもの大公なら、自分の身体の異変に逸早く反応して騒ぎを未然に防いだはずよ。部屋に立てこもるだなんて…変ね」
(…一体、殿下に何が起こっていたの…?)
「…高熱に加えて、目が赤く変色していた…もしかすると…」
ブツブツと呟きながらサオリが思案する横で、レティシアも今一度状況を思い出して頭の中を整理し始める。
急激に上がった熱によって、自制心の強いアシュリーの理性が吹っ飛んでしまった。赤い瞳を爛々と光らせて性衝動に駆られた後、突然意識を失う異常事態。過去の体調不良と明らかに異なる行動は、レティシアと出会って触れ合う機会を得たことが影響しているのかもしれない。
(以前の殿下なら…女性とキスをするなんてあり得ない…私と関わりを持ったのが悪かったの…?)
悪夢を見なくなり体調が改善したと喜んでいた裏側で、アシュリーを蝕む新たな未知の脅威がジワジワ忍び寄る…そんな悪い想像しか思い浮かばず、両手で顔を覆った。
「…レティシア…」
「……はい…」
「その…エメリアからは、あなたがかなり乱れた様子だったと聞いているの…」
ドレスに施した聖魔法により、レティシアの危機を感じ取ったサオリがサハラに救出を頼んだところ、高熱に苦しむアシュリーが治療室へ運び込まれて来た。
レティシアについては『無事だ』という一言のみ。焦ったサオリは、会場にいたエメリアを急遽レティシアの下へ向かわせて保護したのだ。
「ご心配をお掛けして、申し訳ありません」
「キスをされて…それだけで、ドレスが壊れたの?」
「…いえ…ベッドに押し倒されてしまって…偶々…」
エメリアが言う“乱れた様子”とは、ドレスや髪を直して貰う前の姿。そうなった原因の大元は、正気を失ったアシュリーがレティシアを控室へ連れ込んで扉を魔法で施錠し、襲い掛かったせいで間違いはない。
しかし、実際は口付けが性急で情熱的過ぎただけで、アシュリーはドレスを引き千切って乱暴を働いたわけでも、留め金を故意に破壊したわけでもなかった。
(…高熱で、倒れてしまったものね…)
改めて考えてみると、ドレスを引っ掛けて破り、当惑して髪を掻き乱し、さらに指まで傷つけたのはレティシア自身の仕業…全ては、アシュリーが意識を失った後の出来事であったように思う。
“乱れた様子”には訂正すべき点がある。ただし、襲われてギリギリで助かったことは確かで、今さら何を言っても手遅れな気がした。
「誓って申し上げますが、殿下は私を傷付ける行為などなさいませんでした」
「…分かったわ。今は気が張っているでしょうけれど、後から怖くなったり気落ちする時もあると思うの。何かあれば必ず私に言ってね」
「ありがとうございます」
レイヴンの与えた加護や魔術の守りを持つレティシアの身体には、傷がなくて当然。凶暴化したアシュリーの一方的で強引な行為が口付けまでだったとレティシアが言うならば、サオリはそれを信じるしかない。
♢
「サオリさん、殿下はどのくらいで目を覚まされるでしょうか…?」
「身体へのダメージ次第かしら…治療をするまでに時間が掛かる程リスクは高くなるの。今回は素早く対応ができているし、一番効果のある祈りに聖力を注いでおいたわ。とにかく、先ずは熱を下げないと…」
「…そうですよね…」
「大変な状況の中で、レティシアはよく頑張ったわよ。私も精一杯の治療をする。後は、大公の回復力に期待しましょう」
サオリはレティシアの肩を抱いて、聖力の温もりで包み込む。感謝祭に二人の参加を求めたサオリも、心中穏やかではない。
「…殿下に会いたくて…堪りません…」
「……まぁ……」
不安と心配、緊張の感情を含んだレティシアの言葉の中にほんのり混ざる甘さを敏感に感じ取ったサオリは、一瞬返答に詰まる。本人に自覚がないだけで、アシュリーへの愛情は確実に育ち始めていた。
そもそも、襲われたレティシアが本気で抵抗をすれば容赦なく加護の雷撃が落ちる。彼女に受け入れる気持ちがなければ、アシュリーであってもただではすまない。
「大公の病状を確認した後にはなるけれど、この時間なら…うん…多分面会は可能よ」
「殿下に会えるんですかっ?!」
目を見開くレティシアの大きな声に、時計を眺めていたサオリが振り返って肯いた。
「ただ、国王陛下を待たせているから…その次ね」
「はい!…え?…国王陛下?…国王陛下が待ってる…?」
「いいのよ、家族が大事なのはお互い様。レティシアは私の大切な妹、側にいるのが当たり前でしょう?」
「…サオリさん…」
レティシアの顔がくしゃりと歪んだ。
(サオリさんは、いつも私の涙腺を緩ませる)