天草四郎の乱
そうして俺、徳川忠長が九州探題に赴任してから10年の歳月がたった。
俺は薩摩での豊臣残党の動きや、明石ジュストの動きからキリスト教徒の動きを警戒することにした。そしてキリスト教徒の多くは天草や島原の領主、寺沢や松倉たちの圧政の逃れる救いとして宗教を求めていることを理解した。
天草に豊臣秀頼の隠し子、秀綱が潜伏している可能性が高い事を掴んだ俺はまず兄上や土井利勝殿と相談し、寺沢から天草領を俺の支配する熊本領に移し替えた。寺沢はひどく文句を言っていたが、家格を上げ、見かけ上の石高の高直しを唐津の本領の方で認めたことで黙らせた。元々天草に限らず寺沢は酷い圧政を行っていたため、それで黙らなければ改易、切腹も、と脅したのだ。
俺は天草領を手に入れるとすぐに柳生十兵衛に調査させ、松平忠輝殿に領を旅していただき、領民の意見を聞いた。
その結果、キリスト教に対しての敬意はあるが、そちらに傾倒している原因はやはり無理な石高の設定にも起因する圧政に対する不満であった。そこでまず税負担を軽減するために天草の表高を4万石から2万石に半減させた。これで農作物や労働を過重に収奪されることはなくなり、領民たちは俺に協力的になった。
次に俺が領民たちと相談したのはキリスト教の棄教であった。しかし本来の意味での棄教は彼らにとって難しいのは理解していたので、
「バテレンの司祭は聖母マリアを大日如来や観音のようなものとして説明していたではないか。また神仏の真の名前は明かしてはならぬ、という教義を持つ宗派もある。そこでだ。諸君は『キリスト教』ではなく、『摩利観音』を崇拝する仏教、『摩利派』を信仰してはいかがだろうか?」
と提案した。内実はデウスを信仰するが、逆に信仰故にデウスやマリアの名前を口にしてはならない、それは秘儀である。という宗派だ。
バテレンの司祭と言うことが違うではないか、と抗議するものもあったが、俺は豊国大明神様に見せていただいた映像から逆に、キリスト教の信仰もそれぞれであり、日本に来た司祭はその一派に過ぎない。であるから世界には様々な流儀で信仰している人がいるので日本に来たバテレンの言う通り、ではなく各々がデウスに対する信仰を作ればよいのだ、と説いた。
領民たちは議論を尽くした結果、『摩利派』を受け入れてくれることになり、十字架の代わりに島津家の家紋である丸十字を掲げた聖堂に摩利観音像を掲げた『寺』を作った。(島津には当然土下座して許可をとった)丸十字も由緒正しい十字架の一種なのである。そこは『九州男児たるもの、島津様の勇猛にあやかりたくて』と説明させた。
残るは絵踏みの問題であったが、そこはイスラーム(別の宗教だが)の偶像崇拝禁止の概念を説いて聞かせ、『絵の中には魂はない。例え絵を踏んでも天の御子は許してくださる。』と納得していただいた。
こうして数年をかけて天草のキリスト教徒の皆様は、看板を『摩利派』に付け替えた。それから俺は摩利派の皆様に、摩利派を信教の自由を認めるとともに、本来は世界の平和を願う教義であるので、過激な考えをするものには与しない、ということを浸透させた。
それによって豊臣秀綱から天草四郎に改名し、天草を策動地として蠢こうとしていた一派は住人からの援助が受けられなくなった。彼らの『神の国を築くためには今の支配を打倒し、そのためには殉教もいとわない。』という主張が、『忠長様は上手く折り合いつけてくれてお祈りできるようにしてくれたし暮らしぶりもずっとまともになった。なんで逆らう必要があろうか。』とむしろ追い出されたのである。
天草に居場所がなくなった天草四郎や明石ジュストは海峡を渡って島原領に逃げ込んだ。俺としてはまず天草を平穏とすることが主眼であったから相変わらず松倉が圧政を続けている島原についてはそのあと取り掛かるつもりであった。
こうして熊本や天草を平穏にしてどうにか目処が立ってきたある日、熊本城に客人が来た。名乗らないが高貴な人物と目されるという。
俺はその人物を出迎えることにした。もちろん脇には十兵衛や荒木など腕っこきの護衛を付けてだ。広間に現れたその人物は…どうみてもまた烏丸少将であった。
「少将、またあなたか。」
「忠長殿、呆れた顔をするとは何事。私は烏丸少将ではありませぬ。我が名は烏丸元帥。」
…ついに元帥まで来たのか、烏丸殿。
「忠長卿の肥後統治、まことに見事でおじゃる。住民の思いを奪うのではなく、形を変えることで守り、そのため幕府に対する叛意を失わしめた。麿は天草を密かに見て回ったのだが、誰も忠長殿に弓をひこうとするものはいないでおじゃる。」
「元帥殿、お褒めに預かりこの忠長光栄です。しかして今回のご用件は?」
「貴殿が追っていた天草四郎や明石ジュスト、島原で内乱を起こそうとしております。」
「なんと。」
「あちらの住人を巻き込み、大規模な一揆を起こす算段でしたが…話を聞いた島原の住人は乗らず、逆に逃散して肥後に逃げ込んできたとか。」
「確かに島原の人々を保護しておりますが…」
「とはいえ元の領主の有馬家の浪人などが天草四郎に乗せられ、ついに島原城を襲撃しました。」
「なんと。」
「しかしその数は2千にも足りず、明石の一隊は超常の力を用いたようですが、それでも島原城は落ちず、有馬の廃城、原城に立て籠もりましたぞ!」
そして俺は急いで江戸の兄、将軍家光に使いを立て、その許可を得て九州の諸将を招集して原城の天草四郎を攻めた。
超常の力を操る天草一派に我が軍勢は苦労したが…そこを助けてくれたのはなんと烏丸元帥であった。そして猛将、水野勝成殿の到着をもって原城は落城し、一月もかからずに「天草四郎の乱」は集結した。天草四郎は討ち取られ、明石父子は行方が知れなかった。
焼け落ちた原城の本丸で俺は烏丸元帥と語り合った。
「まさかあなたが助けてくれるとは…」
「麿が貴殿の前に立ちふさがったのはひとえに貴殿を鍛え上げるがため。」
「確かにいつの間にやら本来ならば死んでいる時期はとっくに過ぎておりました。そして将軍の位に拘泥せず、この九州に居所を得ました。」
「よきかなよきかな。豊国大明神様もよろこんでおられよう。」
「まさか。」
「そのまさかじゃよ。麿のところに豊国大明神様が夢枕に立っての、頼んできたのでおじゃる。しかしその御蔭で麿も楽しめた。元帥にもなったしな。」
「お互い豊国大明神様には感謝せねばなりませんね。」
と言って二人でカラカラと笑った。
俺は幕閣の了承を取ると、一応『怨霊鎮護』の名目で原城の跡に壮麗な豊国大明神の社殿を建てた。そして十兵衛や皆をそこに引き連れて参拝したのであった。
(第一部完)
忠長卿の物語、ここで一旦一段落とさせていただきます。とにかくエンディングは烏丸元帥との共闘にしたかったのです。