7.不注意 裏
「なんだったんだあれは………」
黒い髪の、締めていたネクタイの色からおそらくは同級生であろう少女が走り去っていった校門の方を見ながら、土御門晴幸は思わずそう呟いた。しかし、たかがぶつかっただけの顔も知らない一般人を気にしていても仕方がないと直ぐに思い直すと、咄嗟に引き留めようとして伸ばした行き場のない手を下ろし、改めて学園の校舎を仰ぎ見る。
(他の町と比べて烏が多いと思っていたが……此処が烏が一番多いな。やはり件の烏天狗の眷属か?)
そしてぶつかられるまで目測で数えていた黒い影を改めて視界に捉え、屋上の縁や木の上などの高みから此方を見下ろし、まるで監視カメラのようにその瞳を学園の端から端へと向けるそれらの挙動を見て、ふん、と晴幸は鼻を鳴らす。
(成る程。そいつらを使って学園……いや、町中を監視している、という訳か)
烏達の行動の意図を読み取り、すっと目を眇める。
(他の祓い屋共が土御門家に泣き付いてくる訳だ。町にいる烏が祓い屋共を監視し、討伐を企てている様子があれば報告する。そして監視を続けて隙を見計らい、油断している所を叩く……大方そんな流れだろう)
そこまで考え、晴幸は踵を返し、校舎に背を向けて歩き出した。早足で坂を下る晴幸のその顔は、心底腹立たしそうに歪んでいた。
(クソ、何故俺が暮乃町の長達に手を出した馬鹿の尻拭いをしてやらないといけないんだ? 返り討ちにされても命がある分だけまだ慈悲を掛けられている事にどうして気付けないんだあの馬鹿共は。そんな馬鹿共の嘆願を聴く当主もだ。『今こそ奴等を討ち取り、名を上げる時だ』? 頭に蛆でも湧いてるのかあの老害は……)
心中で悪態を吐きながら、晴幸は山吹学園に来る事になる切欠となる出来事を思い出し、歩きながら小さく舌打ちをした。
一月程前、当主に呼ばれた晴幸は、座敷の上座から見下ろす当主に『山吹学園に潜入し、暮乃町の長達を滅せよ』という命を受けた。晴幸はそれを聞いた途端己の耳を疑い、そして当主の痴呆が進行したのかと思わず疑った。
(『暮乃町の長』の話は祓い屋なら誰だろうと知っている。暮乃町をテリトリーとする奴等に手出しさえしなければ追い出すような事はされない。それを知らない訳じゃないだろうが。そんな中立な立場の奴等を害したのはアイツ等だろうが。何でこの俺が態々そんな馬鹿共と同じ事をしなければならないんだ? 『箔が付く』なんて軽々しく言いやがって、目先の利益しか見えてないのか?)
考えれば考える程、苛立ちは増していく。晴幸は早々に坂を下ると、そのペースを崩さずに裏路地に入り込んで大通りから外れ、山吹学園から離れた。そして入り組んだ路地でふと立ち止まると、募った苛立ちを吐き出すように、長く息を吐き、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
(奴め、どうせ俺が奴等と相討ちにでもなればいいと考えてやがるんだろうな。次期当主の俺が死ねば、他に後継ぎは居ないから当然奴が当主の座に居座り続けることになる。そうして最後まで土御門家に寄生する算段なんだろう)
「クソッ」
脳裏ににやりと笑う当主の顔が浮かび、晴幸はつい衝動的にコンクリートの壁を叩いてしまった。硬いコンクリートの感触が叩き付けた拳から伝わってくる。
(………だが、そんな風に当主の座でふんぞり返っていられるのも今のうちだ)
数拍してから晴幸は拳を下ろし、きつく握り込んでいた手を開く。そして、顔を上げてまた路地を歩き出した。
(このまま奴が当主のままでいたら土御門家は必ず没落する。だが、そうなる前に奴を必ず当主の座から引き摺り下ろす。そして、この俺が当主になって土御門の栄光を取り戻す)
そう改めて意を決する晴幸の目は、強い意志が宿っていた。
「………そうじゃなきゃ、あの人に胸を張って会いにいけないしな」
ぼそりと小さく口にしたその言葉を切っ掛けに、昨夜の光景が鮮明に思い浮かんだ。
昨夜、町の地理把握を兼ねて調査を進めていた晴幸は、とある路地で微弱な妖気を感じ取り、それを辿っていった先で、悪霊に出会した。咄嗟に気付かれないように魔除けの護符を発動して塀の影に身を隠した晴幸は、ぼこぼこと伸び縮みを繰り返して再生したそれを観察し、顔を顰めた。嘗ては自分と同じ姿形をしていただろうそれは、何処かで何か別の霊と混ざったらしく、まるで狗のように四足歩行をし、咽を鳴らしていた。余りにも哀れなモノへと成り果てたそれを、せめて苦しませず一瞬で浄化してやろうと先制攻撃を仕掛けようと札を構えた、その時だった。
あの人が、現れたのは。
音一つ立てる事無く、そして悪霊に気付かれる事無く静かにコンクリートの上に降り立ったその姿を見て、晴幸は大きく目を見開き、息を飲んだ。まさか此処で、あの人と会えるとは思っていなかったから。
晴幸が呆けている間にも、黒のコートの裾を翻し、悪霊をあっという間に浄化してしまったあの人は、此方に一瞥くれる事無く去っていってしまった。衝動的にあの人がいた場所に駆け寄って、動き始めた頭がなぜ、どうして、と疑問で埋め尽くされて混乱した晴幸は、暫く誰も居ないその場で立ち尽くしていた。
(……どうして此処にいらっしゃるのですか、エバミ様………)
瞼の裏に黒コートの背中を思い浮かべながら、晴幸は暗い路地へと消えていく。
カァ、と、烏が何処かで鳴いた。