1.山吹学園
長かった入学式を終え、教室へと戻ってきた菫は自分の席に着く。どちらかと言えば廊下側にある席の後ろの方にあるその席に座り、ぐっと背伸びをする。
(どの学校もやっぱり入学式は長いもんだな………背中いったいわー)
学園長先生の話がそこまで長くなかったのだけが救いだな、と思いながら、ずっと座っていた所為で固まってしまった背中を伸ばし、力を抜いて体を椅子に預け、ふっと息を吐いた。
(それにしても運が良かった。一年に居る攻略対象とクラスが被らずに済んだ)
ぐるりとクラスを見渡し、自分が一方的に知っている顔が居ないことを再確認してそんな事を考える。昇降口に貼り出されていたクラス表を上から順に下まで見て内心安心したのはきっと自分だけだろうという自身が菫にはある。
(ただ、明美ちゃんと同じだったのは予想外だな)
ちらり、と前の方の席に座っている明美の背を見て、そんな事を考える。クラス表に明美の名前があるのを見た時は少し驚いたが、その後菫の名前があることを見つけた明美が『同じクラスだね!』と言って嬉しそうな笑顔を浮かべたのを見て、同じクラスで良かったと素直に菫は思った。
(それに、『クラスにいる仲のいい友達』ポジションなら、遠目ではあるけど違和感なく彼らも見れるしね)
そんな風に考えていると、がらがらという音を立てて教室のドアが開いて、担任が入ってきた。背凭れに背中を預けて少しだらけていた姿勢を正し、菫も他の生徒と同じく担任の方を向き、話に集中した。
――――――――――――――――――――――
「あー、漸く終わった………」
自己紹介やらガイダンスやら何やら今日の日程を全て終え、最後に礼をすると、途端に教室が騒がしくなった。
「これからよろしくねー、清沢さん」
「うん、よろしくー」
声をかけてくれた隣のクラスメイトに当たり障りのない挨拶を返し、配られたプリント類が全部あることを確認してリュックサックにしまいこんだ菫の視界に、明美が此方にやってくるのが見えた。
「明美ちゃん、お疲れー」
「菫ちゃんもお疲れ様。ね、良かったら途中まで一緒に帰らない?」
「いいよー」
明美の有難い申し出に特に何も考えず頷き、リュックを背負って立ち上がった所で、菫ははっとする。そういえば入学式後の下校中に確か彼らとの遭遇イベントがなかったか、と。
(やっべ、うっかりしてた……明美ちゃんからの誘いだったから特に何にも考えずに頷いちゃったよ……ワンチャン推しに会えるけど心の準備ができてない………どうしよ………)
「………? どうしたの?」
「あ、いや、何でもない。帰ろっか」
何も考えずに頷いてしまったことを少し後悔しつつ、突然固まった菫を見て首を傾げた明美に笑顔を返し、席から離れて二人で教室から出る。
「部活勧誘冊子の内容読んだ? めっちゃたくさん部活動あって吃驚したんだけど」
「読んだ読んだ。流石マンモス校だよね。部活の規模も全然違うね」
「ねー」
二人で適当に談笑しながら昇降口に続く廊下を歩き、下駄箱でローファーに履き替えて昇降口を出る。校舎から出てくる新入生を待ち構えていた部活動勧誘にやってきた先輩達が桜の木の下で各々勧誘しているのを見た二人は、折角だからとちょこちょこ寄って説明を聞いたりしながら、校門に続く桜並木の道を少し進んだ所で、道の先が随分と賑わっているのに菫は明美より先に気付いた。
(お、来たな)
「何だか賑やかだね、あっち」
「あー………そうだね。何だろ」
向こう側にいるのが何の集団なのか察した菫に続いて道の先が騒がしいのに気付いた明美は、そちらを見て不思議そうにする。それを見て、先程まで明美に対してテニス部の勧誘をしていた先輩が口を開いた。
「あー、そっか。まだ新入生は知らないか。あいつらのこと」
「あいつら……?」
(あ、解説イベントだ。この人が説明してくれるんだ)
不思議そうに先輩に聞き返す明美に対して、先輩は親切にも二人に彼等について教えてくれた。
ちなみにこの光景はゲームでもある。校舎から出ると、先程の菫達のように部活勧誘を覗いていくシーンになるのだが、出てきた選択肢で何処を見るか選んだり出来る。四つ目に選んだ部活の勧誘の後、向こう側にいる彼等―――ゲームとして言うならば、攻略対象と呼ぶべき彼等についての解説イベントがある。
「あっちの方に校内でも有名な奴らがいてね、部活でも屈指の強さを誇ってて、しかもイケメン揃いなんだよ。あいつらのファンクラブもあるよ。あの様子だとまーた宣伝に使われてるっぽいねー。見事に女子が釣られてるし」
「へぇ。ファンクラブまであるんですか……もしかして、先輩も入ってらっしゃったり?」
「いや? 部活が楽しいし忙しいからそんなに興味はないし」
「うわ即答。結構ばっさりいきますね」
ゲーム通りの説明と忠告をしてくれた先輩に対して興味本意で彼等に憧れていたりするのか聞いてみると、本当に何とも思っていないのだろう、照れなどの感情が見受けられない真顔で即答された。ゲームなどでよくあるような生徒全員の憧れの的というわけでもないらしい、と菫は彼等に対する認識を少し改めた。
「顔は正直に言えば劣るけど良い奴がたくさんいるし、もしよければぜひテニス部に見学に来てくれると嬉しいな!」
「おっとー、然り気無い宣伝が。先輩売り込み上手ですねー」
「はは、ありがとー」
会話の最後にしれっと部活勧誘を混ぜてきた先輩に笑い返し、菫は隣にいた明美を見る。彼等に道を譲って割れていく人の波の先にいるその集団の方を明美は目を大きく見開いてじっと見ていた。いや、明美の心情を表すなら、『魅入っていた』というのが正しいのだろう。
(確か、『ここからじゃ顔もよく見えないのに、何だか目を離せない……』だっけ。現実的に考えれば、この時から無意識にこの子は彼等に喚ばれてたのかもなぁ)
自分がプレイヤーとして明美の心情を読めた時に出たフレーズを思い出し、菫はそんな事を考えた。そうして、明美の肩を軽く叩く。
「おーい、明美ちゃん! もしもーし?」
「あ、ごめん。なに?」
菫の呼び掛けにはっとして目を瞬いた明美は、漸く菫の方を見た。
「なに?じゃないよ。じーっとあっち見てたけど、そんなに気になるの?」
「えっ、そんなに見てた!? いや、そういうわけじゃないんだけど……」
菫の言葉に、明美はぎょっと目を見開いてそう言った。食い入るように見つめていたのに自覚が無かったらしい、と菫は察し、やはり喚ばれているのだろうと考える。
「……気になるなら行く? この後見たい部活もないし、別に行ってもいいんだけど」
「いや、いいって! 本当に興味があるわけじゃないんだよ!」
「いやあんなに熱心に見てた人がそんな事言っても説得力皆無なんですが………」
菫の提案に明美は首をぶんぶんと横に振る。それを笑いながら少し揶揄う。そして、もう一度尋ねた。
「本当にいいの? 見に行かなくて」
「………うん。大丈夫」
「ふーん、そう。それじゃあいこっか」
念押しで明美に訊くと、明美は少し間を開けてからこっくりと頷いた。それを見て、それ以上は特に追求せずに、菫は歩きだす。それに合わせて、明美も菫の隣に並んだ。
(………『見に行かない』のね……うーん、マジか)
明美のその返答を聞いて、菫はこの後起きるイベントを察した。
「この後はどうする? 明美ちゃん何か気になるところある?」
「いや、あとは特にないかなー……」
「んじゃ、帰ろっかー」
そんな会話をしながら、校門に向かって歩く。それは集団にも近付く、ということでもあって、徐々にはっきりと集団の中心にいる彼等のシルエットが見えてくる。右隣にいる明美と会話をしながら、興味のないフリをしながら道幅を狭めている集団を避けて、すっと横を通る。ちらりと明美越しに集団の中心にいる彼等を見て、心中で感動に打ち震える。
(………生きてる……顔がいい……)
実際にそこにいる彼等を目にして語彙力が吹き飛んだような感想を心中で抱く。画面越しに見ていた彼等が実際にそこに居て、笑顔で勧誘しているのを見て感動を覚えてから、不意に菫は冷静になった。
(………それにしても、あそこまで近付いてたのに一切妖気が感じられなかった。やはり長いこと人に紛れて生きていると妖術の扱いが巧くなるんだろうか。これなら確かに他の祓い屋が分からないわけだ。彼等が妖怪だと気付けないのも、無理はないな。ここまで変化が巧いと手に直接触れたりしない限り分かんないだろうなぁ)
歩きながら神経を研ぎ澄ませ、自身の周りに漂う妖気を出来る限り拾おうとするも、菫には一切妖気らしきものは感じられなかった。仕事で妖怪と対峙した時の、あのぞくりと背筋が粟立つような気は一切しない。ただ暖かい春の麗らかな空気しか感じられなかった。
大体の妖怪は人間に変化していたとしても妖気が少しは溢れてしまう。だが、それが一切無いということは、それだけ人間に紛れるのが巧いということになる。菫を含め、大体の祓い屋はその妖気を辿って仕事をするので、相手が変化が得意だととてつもなく厄介だったりする。例えどれだけ追い詰めたとしても、変化して人混みに紛れられてしまえば、一瞬で見失ってしまうなどということも少なくはない。
「………でさ、部活見学の時なんだけど、一緒に行かない?」
「おー、いいよ! 一人で行くのも寂しいしね」
問いかけられたのを切っ掛けに直ぐに思考を切り替え、明美との会話に興じる。ありがたくも部活見学という高校生にとっては青春の一ページに刻まれるであろうイベントに誘ってくれたのに速攻で頷き、同伴できる喜びに菫は内心打ち震えた。
そのまま他愛もない話をしながら校門に向かって歩いていると、ふと、明美が立ち止まって目を瞬いた。
「ん? どうかしたの?」
「………なんか、あそこに落ちてない?」
突然立ち止まった明美に問いかけると、明美は道の先を指差した。
(来たか! 遭遇イベント)
そう考えながら、菫は明美の指差した方を見る。すると、その先の道に、何か薄い水色のものが落ちているのが見えた。
「んー……あ、あの水色っぽいやつ?」
「そうそれ! 何だろう……」
そう言って早足で前を歩き出した明美に、菫は黙ってついていく。そうして地面に落ちていた水色のものを拾い上げた明美は、ぽんぽん、と優しく叩いてそれに付いた砂埃を払った。
「それ、ハンカチ?」
「そうみたい……誰かの落とし物かな」
菫は明美の手元を横から覗き込んでそれを見る。薄い水色のハンカチは、綺麗に折り畳まれていた。
ハンカチを手に、明美はキョロキョロと辺りを見渡す。どうやら探している人が居ないか見ているらしい。菫もそれに倣って周りを見る。何かを探しているような人は今は視界の何処にも見当たらなかった。
「探してるような人は見当たらないけど……」
「そうだねー。うーん………出戻りになるけど、職員室行く? そうすれば預かってくれるかもしれないし……」
「あー、そうだね。そうしよっか」
菫の提案に今度は頷いた明美が、元来た道を歩こうと方向転換した所で、後ろから誰かが走ってくる音が聞こえた。
「おーい! そこの水色のハンカチ持ってる君!」
「え?」
実質ほぼ名指しのような呼び掛けに、明美が思わずといった様子で振り向く。それに倣って菫も振り向くと、向こうから白い髪の青年が走ってきていた。
(遭遇イベキターーー!!)
内心のテンションのボルテージが上がるのを感じながら、菫は明美共々振り返ってその場で待つ。そのまま走ってやってきた美しい青年は、二人の前で立ち止まった。
前世での菫の推しが、そこにやってきた。
(うわあああ推しだあああ!!!!推しが生きてる!!!!えやっぱ顔がいい………やべぇよ………やべぇよ……)
「いきなり呼び掛けてごめんね。それ、僕のなんだ」
(そして声もいいな!?!?いや知ってたけど!!!!)
息切れすることなく颯爽とやって来たそのすらりとしたシルエットの美しい青年は、立ち止まると笑顔でそう口にする。穏やかなその笑顔は、何があったのだろうと見ていた周りにいる生徒の注目を一気に引き寄せた。菫は、というと、直ぐ目の前にいる青年を見て、内心が一気に荒ぶり出していた。その感情が顔に出ないように表情筋を総動員して真顔を保つ。ここで叫んだらただのKY、ここで挙動不審になったらただただキモい奴、と何度も交互に自分に言い聞かせ、何とか静かに成り行きを見守ることに努める。
そんな菫の心情は露知らず、そして周りの視線も気にせず、その青年は、それ、と言いながら、明美の手の中にあるハンカチを指差す。
「あっ、落とし主の方でしたか! どうぞ」
「うん、拾ってくれて有難う」
呼び掛けられてきょとんとしていた明美は、その言葉で自分が何故話しかけられたのかを理解したらしい。そう言ってハンカチを青年に差し出した。そのハンカチをにっこりと笑って受け取り、そのままポケットへとしまった。
「おーい、見つかったかー?」
(もう一人キタ!! あ、でも威圧感やば………)
するとそこへ、青年の背後からもう一人大柄な青年がぬっと現れた。菫が咄嗟にそう思ったのも無理もない、後からやってきたその青年は、高校生にしては随分と身長が高かったのだから。目の前の白い髪の青年も菫より頭一つ分程高いが、どちらかと言えばすらりとシャープな印象が強い。それと比べると、体つきも男性らしくがっちりとしていることも相俟って、尚更彼が大きく見えた。
「あぁ、もう見つかった。この子が拾ってくれてたんだ」
「そうか、良かったな」
後からやってきた青年は白い髪の青年と短く会話すると、明美の方を見る。
「………! お前………」
そうして、紅いその目を大きく見開き、瞠目する。
(お、気付いたな)
本当に思わずしてしまったのであろう青年のその仕草を見て、菫は青年が何に驚いているのかを察した。
「……? 何か?」
「あっ、いや、えーと………」
そのまま固まって何も言わずに明美をじっと見る青年に、どうしたのだろうと明美は首を少し傾げ、問いかける。それで自分が不自然なタイミングで黙ってしまった事を理解した青年は、思わず言い淀み、視線を彷徨わせる。その様子を見て、明美は不思議そうな顔をした。
「いや、おんなじ一年なんだなーって思って! ほら、ネクタイ一緒だしよ」
(いやそれはちょっと言い訳として苦しくない?)
何か話題が無いかと探していた視線が、明美の首元に止まる。そしてきっちり締められたネクタイの色を見てか、慌ててそれを話の話題に持ち出した。思わず心の中で菫が苦言を呈したのも仕方はない。その話題を出すには、少し不自然だった。ちらりと白い髪の青年の方を盗み見てみると、菫とほぼ同じような事を考えていたのだろう、少し呆れたような顔をしていた。
「あ、本当だ。じゃあ二人とも一年生なんだね」
青年のしているネクタイの色を見て、明美は笑顔でそう言った。どうやら青年の言葉に納得したらしい。それでいいのか主人公、と菫は内心突っ込みを入れた。
誤魔化せた事にほっと息を吐いた青年は、次にはニッと人好きする笑みを浮かべた。
「そうだぜ。俺、B組の岸辺奏太。で、こっちのハンカチ落としたおっちょこちょいが同じくB組の水瀬蛍な」
「おい聞き捨てならないぞ、誰がおっちょこちょいだって? 今日はたまたま落としただけだ。いちいち一言余計なんだよ、バカナタ」
「お前もな!!!」
大柄な青年――――岸辺奏太が、笑顔で自分と白い髪の青年――――水瀬蛍を紹介する。奏太によるかなり悪意のある紹介は流石に癇に障るらしく、蛍はその端整な眉を吊り上げ、仕返しだとばかりにきつめの毒を吐いた。それに対し、奏太は少しキレながら叫び返した。
(やべぇ、あの応酬だぁ……実際はこんな風にしてんのか……なんか、気の許せる友達特有のやり取りっぽくていいな………尊い……)
その様子を自分に関心が向けられていないのをいいことに、菫はじっと見つめていた。
この二人との遭遇は、ゲームでもあった光景でもある。イベント名は『落とし物のハンカチ』。帰ろうとしていた明美が道に落ちていたハンカチを拾い、それを蛍に返すというイベントだった。
ゲームでは先程の解説の後、菫が明美に問い掛けたような『見に行く?』というメッセージが出てくる。その後に二つ選択肢が表示され、『見に行く』を選択すると別の遭遇イベントが、『見に行かない』を選択すると、この二人に会うことが出来るのだった。ちなみに、好感度はもちろん、『スプーン一杯の親切』という実績を貰えたりもする。
「あはは、二人とも仲良いね」
「これの何処が仲良しに見えるんだい……?」
奏太が言い返したのを切っ掛けにぎゃいぎゃいと言い合う二人を見て、明美はくすくすと笑う。その言葉を聞いて、蛍は奏太から視線を移し、笑う明美を見て顔を顰めた。
「私はD組の阿倍野明美だよ。よろしくね、二人とも」
「よろしく」
「阿倍野、かぁ………よろしくな! ………で、そこのお前は?」
(へっ)
蛍の注意が此方に向いたことにより途切れた口喧嘩の合間に、明美はにっこりと優しく笑って自己紹介をした。それを聞いた二人は、笑顔を返した。一瞬奏太が明美の名字に小さく反応したが、すぐに笑顔になる。そして、そのまま奏太はぼうっと自己紹介し合う様子を見ていた菫を見る。まさか話しかけられるとは思っていなかった菫は、突然水を向けられて驚き、目を瞬く。
「え、私?」
「おう。お前以外に誰がいんだよ」
菫が思わず奏太に聞き返すと、奏太は呆れたような顔をし、何を言ってるんだ、と言わんばかりの口調で菫にそう言い返す。その時、菫の視線と、奏太の視線が合わさった。
(あ、こっち、みてる)
何よりも真っ先に、菫はそう思った。
奏太の吸い込まれそうな程美しい紅い色の眼は、真っ直ぐに菫を見つめていた。
その隣の蛍からは、煌めくような黄金色の眼も此方に向けられていた。
画面越しに見ていた時は、プレイヤーの自分ではなく、その場にいる明美を見ていたその二対の眼が、きちんと菫を映していた。
「えっ、と………私は、清沢菫! 明美ちゃんと同じくD組だよー。よろしくね」
その視線に居心地の悪さを感じながら、不自然にならない程度の笑顔で、当たり障りのない自己紹介をする。その笑顔がどうかぎこちなく見えていないことを祈りながら、菫は二人を見た。
「清沢な、よろしく!」
「よろしく、清沢さん」
どうやら慌てて繕った笑顔はきちんと役割を果たしたらしい。彼等は菫の心情には気付かず、菫に笑ってそう言い返した。
「二人は部活見て回ってるの?」
「ん? まぁ、そんなとこだな。そしたらコイツがハンカチ失くしたとか言い出してなぁ………」
明美が二人に疑問を投げ掛けると、彼等は視線を菫から外した。その視線から逃れた事で、漸く菫は息を吸うことができた。そこで知らず知らずの内に呼吸が止まっていた事に気付き、心中で苦笑を溢す。
(本物の推しに会うと呼吸が止まるのはオタクの性なのか……? いやもう死んでもいいやとか思っちゃったけどさ。前世の友人よ、今漸くお前の気持ちが分かったぞ……)
前世の菫の同じくオタクの友人が『推しに会うと呼吸止まるよ』と言っていたのを今更思い出し、そして深く共感する。何せ前世の菫はコスプレイベントなどに行こうとすると悉く用事が被った為、現実で推しに会うという経験が全く無かった。その所為でその友人の言う『推しが目の前に居る状況』を実際に体験したことがなかったのだ。
菫が内心で前世の思い出を思い出している間も、会話は進んでいく。
「おい、余計な事を言うな。二人はこれから帰るところだったのかな?」
「うん、そうだよ。私も菫ちゃんも見たい部活がなかったし、ちょっと早いけど帰ろうかって」
「へぇ、そっか」
菫が居ることで少し変わってはいるものの、概ねゲームだった時と同じような会話を三人がする傍ら、菫は気付かれないように深呼吸をし、乱れた呼吸を落ち着かせる。
(動悸ヤッベェ……自分に話しかけられることは想定してなかった……ん? いや、ちょっと待てよ?)
お目にかかることは出来てもまさか話しかけられるとは思ってはいなかった菫の心臓はばくばくと跳ね、未だに落ち着く様子がない。その激しい動悸を落ち着かせようとしているところで、ふと、菫は気付く。
(いや、そうだ、ここは現実でゲームじゃない。話しかけた奴の隣に友達らしき人間がいたら普通は気になって話しかけるよね……あー、うっかりしてた)
そうして、内心頭を抱える。
そう、これは少し現実的に考えれば分かることだった。
ゲームのイベントではまだ仲の良い友達も居らず、明美が一人で帰っている時に起きるイベントだった。だが、ここには菫がいる。イベントの通りに進むはずだと自分の存在を度外視して考えていた自分の方がおかしいことに気付き、菫は自身の浅慮であった事を悟った。
(うーん、やっちゃったなぁ。今後の事もあるし、話しかけてもぼーっとしてる変な奴と思われてないといいけど……)
そんな懸念を抱きつつ、菫が考えている内にも進む会話を聞きながら、オタクの性を一度引っ込め、目の前の青年二人を観察する。
(………それにしても、この二人もここまで近付いてるのに妖気が感じられない。一目見ただけじゃ妖怪って分からないな。これじゃ町でどれだけ近くですれ違ったとしても分かんないだろうなぁ)
適当に相槌を打ち、話を聞くフリをしながら、目の前の彼等―――妖怪である彼等を見て、そう考える。
「それじゃあ、そろそろ行くか」
「あぁ、そうだな」
目の前の二人がそう話したのを聞いて、イベントがもうすぐ終わることを菫は察する。
「僕達、そろそろ行くよ。まだ見たい部活もあるし……。重ね重ね言うけど、ハンカチ拾ってくれてありがとう」
「どういたしまして! それじゃあ、またね!」
「長々と引き留めて悪かったな。二人とも帰り道気をつけて帰れよー」
そう言ってお互いに手を振って別れ、奏太と蛍は校舎の方へ、明美と菫は校門の方へ、それぞれ反対側に歩いていく。
「ふふ、入学初日に新しく友達が出来ちゃった」
「ねー。面白い偶然もあったもんだね」
「そうだね」
歩き出して少ししてから、明美がにこにこと笑いながら嬉しそうにそう言った。明美の可愛らしいその笑顔に心臓を撃ち抜かれつつも、菫は頷いた。そして、そのままちらりと、菫は少しだけ明美から視線を外した。
(………あの様子だと、ゲーム通り明美ちゃんのコレに気付いたみたいだったな。その証拠に滅茶苦茶視線感じるし。まぁでも、)
このデカすぎる霊力を感じたら、そりゃびっくりするよなぁ。
肌に突き刺さるほど大きい、明美の周りに漂う霊力を感じながら、菫はそう思った。
先程の目を剥いた奏太の様子を見て、そして背後から感じる視線を総合して菫はきっと彼等が気付いているだろうと考える。顔には出ていなかったが、きっと蛍の方も気付いているだろう。彼等妖怪は霊力に対して中々機敏であるのは、菫も理解していた。
(普通こんなに駄々漏れにしてたら妖怪の格好の餌だ。今までどうやって生きてきたのかが謎なぐらいだもんね。思わずぎょっとする気持ちは分からなくもない)
楽しそうに話し続ける明美の会話を聞きながら、菫は心中で奏太に同意した。
(……この霊力の多さは、やっぱり安倍晴明の末裔だからか)
そう考えて、菫は内心苦笑を溢す。
『阿倍野明美』が産まれた家は、歴史に残るかの陰陽師・安倍晴明の末裔の家だった。だが、今菫の隣で微笑む彼女は、その事実を一切知らない。
それを彼女に知らせる前に、両親が交通事故で亡くなってしまった為だ。
だが、そこまでならまだ知ることが出来た。未だに祓い屋などがいる父方の親戚が彼女を引き取ることが出来れば、まだそのチャンスはあった。だが、紆余曲折あったものの、結局彼女がその後引き取られたのは何も知らない一般人の母方の親戚だった。それ故に、彼女は自分が膨大な霊力を持つことも、それによって妖怪に狙われやすい立場である事も、そもそも妖怪や悪霊、怨霊が実在することすら知らない。
両親が今まで生きてすらいれば、もしくは父方の親戚に引き取られていれば、彼女は自身から漂うその霊力の抑え方も知れただろうに、そうはいかなかった。
そうして自衛の手段を知らないままこの学園にやってきた彼女は、その霊力の高さから攻略対象達に目をつけられることになる。………と、いうのが菫が知っている『阿倍野明美』の設定だ。
(………確か、今日だよな。明美ちゃんが妖怪に目ェつけれるの)
ゲームでの流れを思い出し、菫は明美を盗み見る。
この後のゲームの流れはこうだ。明美が一人で下校していると、妖怪に目をつけられる。その日はそのまま家について何ともないが、問題は次の日だ。夕方の帰り道、道を歩いている明美に、妖怪が襲いかかる。それを攻略対象が助けたことで、明美は攻略対象達と関わっていくことになるのだ、が………
(……………何か、見捨てるみたいで、いやだなぁ)
隣で何も知らずに笑う明美のその笑顔を見て、菫の心の内に罪悪感が湧いた。
菫はこれから明美にとって恐ろしいことが起きるのを知っている。菫にはそれから明美を守ることが出来る力がある。彼女を守りたいなら、ただ彼女の霊力を隠せるようにしてやればいい。だが、本当にそれをしていいんだろうか。そんな懸念が菫の心に引っ掛かって行動に移せずに居た。
確かに、未来を変えれたとするならば、明美は妖怪に襲われず、怖い思いをせずに済むかもしれない。
だが、それで彼等との繋がりが途切れてしまったら?
自分を守る方法を知る機会を完全に失くしてしまったら?
………それこそ、死ぬような目に合うんじゃないのか?
そう考えると、菫はそれを出来なくなった。だってここは、現実なのだから。ロードすれば過去に戻れるゲームとは違う、紛れもない現実なのだから。
「……明美ちゃん」
「うん? なに?」
話が途切れた隙に、菫は明美に呼び掛ける。明美はその呼び掛けに直ぐに反応し、菫の目を見つめた。
「………帰り道、暗いところには気を付けてね。最近、変なのが多いから」
「えっ、うん………どうしたの、急に」
その真っ直ぐな瞳から目を逸らしたくなるのを我慢し、菫は遠回しに明美に忠告した。自分の罪悪感を軽減する為の行動とは分かってはいても、菫はこれだけはどうしても言っておきたかった。
今まで話していた話とは何の関係もない、話の脈絡もない突然の言葉に、明美は首を傾げる。それに対して、にっこりと菫は笑った。
「いや話してて思ったんだけどさ、やっぱ明美ちゃん可愛いからさ。狙われないか心配になって」
「えっ、も、もう! 私そんなに可愛くないって言ってるでしょー!?」
「いやいやいやいや明美ちゃんは可愛いんだってー! 何回も言ってるけどいい加減自覚して??」
菫の予期せぬ所からの褒め言葉に面食らった明美は、一拍遅れて頬を赤く染め、首を横に振って菫の言い分を否定した。それを逆に否定し、菫は明美を『可愛い』と褒め倒す。その光景だけを見れば、何処からどう見ても、きゃいきゃいと騒ぐ女子高生同士の可愛らしいじゃれあいだった。
その後は部活見学は何処から回ろう、などという取り止めのない話をしながら校門を出て、家に向かって歩いていく。
先程の二人が、此方を見ていることに明美だけ気付かずに。
「………ミナセ、あいつ……」
「………あぁ、あれはまずいな」
明美達と別れてすぐ立ち止まって振り返り、彼女達の姿が見えなくなるまで見ていた奏太が、横にいる蛍とちらりと目配せしあう。たった一言と視線を交わしただけで、二人の心中は一致した。
『あの子を放っておけば死ぬ』、と。
「あれはちょっとなぁ………」
そう呟いて、奏太はがしがしと頭を掻く。
先程別れた二人の、背の低い方――――阿倍野明美の放っていたあまりにも大きい霊力を察知した瞬間、彼は思わず絶句してしまった。こんなものを垂れ流しにしていたら何時妖怪に食い殺されてもおかしくはない。しかも、本人はそれに全く気付いていない様子だった。あの様子だと、自分が妖怪に狙われやすいことすら知らないのかもしれない。
常人より少し多い程度なら放っておいてもどうにかなるのだが、あれはどうにもなりそうにはなかった。人間を食らう妖怪に目をつけられようものなら、直ぐに手を出されているだろう。例えて言うならば、自分の目の前に突然、誰のものでもない極上のステーキが、ぽんと置かれたようなものなのだから。
「………どうする? ほっとくのはやっぱりねーよな?」
「当たり前でしょ。別にあの子がどんな目に遭おうとどうでもいいけど、あの霊力を何処ぞの妖怪が食おうものなら、将来的に此方が危ういしね」
一応と尋ねてくる奏太の言葉に蛍がそう返す。現実的に考えて述べられたその口調は先程と同じく穏やかであるものの、何処か冷やかだった。
「それに………」
ちらり、と蛍は手の中のハンカチを見る。
「……これを拾ってもらった恩もある。その恩を返させてもらわないとね」
そう言って、きゅっ、とハンカチを軽く握り締める蛍を見て、奏太はニッと笑った。この永い付き合いの友は人を嫌いだと言うが、やはり何処かヒトに対して甘いのを、彼は知っていた。
「取り敢えず、アイツらには話しておいた方がいいな。行くぞ」
「あぁ」
蛍は奏太の言葉に頷き、二人で歩き出す。校舎に続く通りを横道に逸れ、今はほぼ使われていない旧校舎へと続く道を進んでいった。