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Prologue 裏

読み返したら長かったので分けました。


―――――同日、満月の昇る夜中の二十三時を回った頃。



都心特有のネオンの明かりも、喧騒もある筈なのに、その踏切の周りだけは異様な雰囲気が漂い、人気も無く、妙な静けさが広がっていた。



【……………ゥ………】



そんな踏切の線路の上で、肉塊が蠢く。ソレはぶるりと一度大きく震えると、身体中から血と肉を撒き散らしながらゆらりと立ち上がった。

獲物が自分のテリトリーに入ってきたのを感知した為だ。



「るー、らーらー………うぇっく」



飲み会帰りだろうか、随分と酩酊した様子のサラリーマンの男が一人、遠くから歩いてくる。普段ならかっちりと着ているであろうスーツを着崩し、ご機嫌に鼻唄を歌いながらふらふらと踏切に近付いていた。



「あー……? こんなとこに踏切なんてあったかぁ………? おれってば道まちがえちったかなぁ? ういっく……」



踏切に気付いた男は、きょろきょろと辺りを見渡しながらそう言った。



…………ずり。



ずりずりずり。



「…………あ? 何の音だぁ……?」



ふと、男は不気味に静かな中で音を聞いた。




ずり。



ずり。ずり、 ぐちゃり。 びちゃり。




何かが擦れるような音と、水っぽいものが地面に落ちる音を。




ずり。 びちゃり。




ぴちゃり。 ずり。




その音は、




ずり。 ずり。




だんだんと、近付いてくる。



何の音か気になってその音がする方を見た男の視界に、ぼんやりと人影が映る。その人影をよく見ようと目を凝らした所で、



「ひぃっ!!?」



男は、その人影の正体を見て、体の火照りが一瞬にして引くのを感じた。

何故ならば、その人影は、頭部が大きく抉れ、斜めに大きく傾きながら、肉塊を引き摺って歩いていた。いや、肉塊ではない。よく見るとそれは、千切れた人の腕だった。手にある筈の指が欠けているが、確かにそれは腕だった。神経も血管も筋肉も骨も千切れているが、辛うじて残っている皮膚で肩に繋がっているらしい。先程から聞こえる何かを引き摺る音の正体は、その腕の肉とアスファルトが擦れる音で、水音は長く垂れた髪や抉れた部分から滴り落ちる血と肉の音だったのだと男は理解する。



ぐちゃり。 ずり。




びちゃ。




【ア………ニ………ェ゛………テ…………】


「ひいぃっ」



低く唸るような声が、ソレから発せられる。その声にまるで氷でも当てられたようにぞわりと背筋が冷たくなり、ぶわりと冷や汗が湧く。ソレが段々と此方に近付いてきていることに気が付いた男は、本能的にその場から逃げ出そうと足を動かそうとする。だが、男の足は恐怖から震え、男の意思に反して上手く動かせずに足をもつれさせて転んでしまった。



「ぐっ!? この、くそォ!!」



震えて動かない足を叱咤し、立ち上がることも忘れて這うように逃げようとする男の耳には、後ろから近付いてくる音が段々と大きくなって聞こえていた。



ずりずり。 ずりずり。




ぐちゃり。



その音が近付く度に冷や汗が全身から噴き出す。




ずり。




びちゃり。




本能が警鐘を鳴らし、何がなんでも逃げ出そうと体を動かそうとする。


だが、それよりも先に、



【………ェ……ンォ…ヴ……う……】



ソレが、男に追い付いてしまった。



男のすぐ頭上から、声がする。逃げ出したいはずなのに、見たくないはずなのに、男は振り返ってしまった。



―――――――至近距離にあった眼と、目があった。



鼻につく鉄のような臭いに息が出来なくなる。欠けた頭部からは脳髄がはみ出しているのが見えた。片方だけある眼は落ち窪み、どんな夜の暗闇よりもよりも暗く、澱みきっている。



そして、鏡のように男を瞳に映していた。



本当に恐怖した時には、人間というものは声さえ出なくなるらしい。悲鳴を上げようとした喉は、ひゅっ、という空気を押し出す音しか出せなかった。

目を見開いて凍り付く男に対し、ソレは、千切れていない左腕を伸ばしてきた。その所々皮膚の剥がれた腕は、男の足を掴んだ。ギリギリと、まるで万力で締め上げられるような強い力が掴まれた部分にかかる。そして、ソレはそのまま、男をソレがやってきた方へと引き摺り始めた。



「い、いたいいたいいたいぃぃぃ!! はな、離せよっ!! このッ!!!」



足にかかる痛みと引き摺られる衝撃で男は我に返り、そして得体のしれないモノに足を掴まれ、引き摺られている状態を正しく理解してしまった男は絶叫し、腕から逃れようと藻掻く。足を持てる限りの力で動かし、もう片方の足で腕を剥がそうと蹴る。肉を蹴る感触が革靴の底から伝わる。腕を蹴る度に、ぐちゃ、びちゃ、と、血と肉がスーツや靴に飛び散り、赤黒く汚していく。それを見て、更に男は腕を引き剥がそうと必死になる。男は完全に恐慌状態に陥っていた。



【…ェ、ウゥ………】



だが、どれだけ男が腕を蹴ろうと、ソレから逃れる事は出来なかった。抵抗もなす術なく、男はソレに引き摺られていく。



「何するつもりだよ、離せよぉ!!」



ザリザリ、ザリザリと、スーツとアスファルトの擦れる音が男の耳に嫌に響く。そんな男の耳に、もう一つ、音が聞こえた。



―――――――カン カン カン カン カン



まもなく電車がやってくる事を告げる、踏切特有の耳に残るサイレンが、辺りに響く。



それを聞いて、男は今、目の前のバケモノに自分が何処に連れていかれようとしているのか気付いた。気付いてしまった。



このまま連れていかれれば、どうなってしまうことかも。



「ま、まさか、」



全身の血の気が引く。息が乱れる。



ソレの向こうで、赤いランプが点滅して、危険を知らせている。



「い、いやだ、」



遮断機のバーが降りるのが見えた。



「いやだ、」



頭に響くサイレンの音が、男の前でぽっかりと口を空けて待ち構えている【死】へのカウントダウンに聞こえた。



「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だァ!!!!」



狂乱状態に陥った男は、匍匐前進のように腕を反対側に動かそうとする。だが、引き摺られる力の方が強く、男は踏み切りの方へと少しずつ引き摺られていく。ならばとアスファルトの上に爪を立て、その場に留まろうとするも、引き摺られる度にガリガリと嫌な音を立てるだけだった。



カン カン カン カン



サイレンの音が、間近に聞こえる。



「………あ、あ。でも、ここで死ねば…………」



その時、不意に男はある可能性を見いだしてしまった。恐怖に当てられた思考で死について考えた所為か、その可能性を見つけてしまった。



「………楽に、なれる?」



ここで死ねば楽になれるかもしれない、という可能性を。

―――――少しだけこの男について話すと、この男は、会社勤めのサラリーマンである。それだけを聞けば至って平凡なように聞こえるが、問題は彼が勤める会社そのもの。その会社は、俗に言うところの『ブラック企業』というものだった。

上司は自分がやるべき仕事を押し付けてくる上に嫌み三昧。

しぶしぶ引き受けた仕事に少しでもミスがあれば怒鳴り散らされる。

休みは休日出勤で潰れるのが当たり前。

有給休暇など殆んどない。

飲み会などでは無理矢理酒を飲まされる、など、その他にも精神負担が心に重くのし掛かるような事がまだまだあった。

入社してからずっと、そういう環境で仕事をすることを強いられていた。最初は耐えられもしたが、段々辛くなってきていた。だが、辞めようと思っても、このご時世では転職もままならず、そのまま黙って働き続けることしか出来なかった。

そんな環境に居る為に、周りの同僚や先輩後輩の目は淀みきり、目に見えて疲れ果てているのが分かる顔をしていた。


いつか鏡を覗き込んだ時の自分と、同じ顔をしていた。



「………この先一生、あんなところに居るくらいなら、いっそ………」



楽になりたい。



そう考えた途端、抵抗が徒労であるように感じ、全身の力が抜け落ちる。



地面が微かに振動するのを感じた。



死が直ぐそこまでやってきているのだと理解し、一つ息を吐く。



死を目前にしたその顔は、諦感に満ちて、酷く穏やかだった。



「………あぁ、でも、」



せめて死ぬ前に同僚の墓参りぐらい行っておけば良かった、と頭の片隅に思った、次の瞬間、





〈駄目だよ〉





男とも、女ともつかない無機質な声が聞こえた。

その声に驚いて反射的に顔をあげた次の瞬間、足の痛みがふっと消え、視界の全てが黒に閉ざされる。その状況が理解できないまま、次には浮遊感を感じた。



「えっ?」



何が起こったのか分からず、男は放心する。ふと、サイレンの音が遠退いている事に気付き、踏切の方を見る。すると、先程自分を引き摺っていたバケモノが踏切の間際に立っているのが見えた。大分距離が開いている場所からソレを眺めている事に気付いて、自分が今どうなっているのかと足の方を見ると、膝を抱えて座った時のように足が曲がっているのが見えた。そして、背中と膝裏を何かに支えられている事に気付き、自分が今抱き上げられていることに漸く気付いた。呆然としたまま顔を上げると、黒いフードを被った鴉のような嘴を持った顔が視界に入る。



〈立てるか?〉


「え、あ、はい………」



先程聞こえた声は、どうやらこの鴉のような顔の人物から発せられたようだ、と、機械のような声―――例えるなら、ニュース番組なんかで聞くような、声を無理矢理機械音に変えたような声で、問いかけられた事で気付く。問われた質問に頷くと、そっと地面に下ろされた。男がその場でぼんやりとその人物の挙動を目で追っていると、黒いコートの裾を翻してバケモノから自分を遮るように立ったその人は、背中に背負っていた物―――刀を、納刀したまま引き抜いた。



【グゥゥ………】



黒コートが刀を構えたのを見て、バケモノも低く唸り、まるで獲物を前にして飛び掛かろうとしている獣のように体を縮めた。


糸がギリギリまで張り詰めているような緊張感が辺りに満ちる。


電車が通り過ぎる際に鳴る風を切る音が、妙に響く。


――――――――サイレンが途切れ、遮断機のレバーが上がったその瞬間、



【ガァァッ!!】



バケモノが一瞬速く動き、黒コートに飛び掛かった。

口から血を撒き散らしながら一足飛びに距離を詰め、腕を振り下ろしてきたソレの攻撃を黒コートは刀で難なく受け止め、右に受け流す。そこから一歩踏み込んで切り上げるように黒コートは刀を振るった。すると、バケモノはそれを避けて飛び退き、着地と同時に千切れかけの腕を鞭のようにしならせる。どう見ても神経が繋がっていない筈のその手の先がぐわっと開き、黒コートへと向かっていく。それに対して、黒コートは慌てすらせずに刀を握り直すと、刀を勢いよく振る。振るった刀は手首に当たり、腕はバケモノにそのまま弾き返された。

男はと言うと、まるで映画でも見るようにぼんやりと黒コートとバケモノの応酬を見ていた。目の前で起きていることが本当に現実であるのか実感が湧いていなかった所為もある。それに加え、先程まで彼岸の瀬に自ら望んで立っていたことも相俟って、男は逃げるという選択肢を選べずにいた。

黒コートとバケモノの拮抗は暫く続き、防戦一方で一度も攻撃していないのにも関わらず、黒コートがじわじわとバケモノを踏切側へと追い詰めていっていた。迫りくる攻撃を何度も弾き返し、バケモノが踏切に降り立ったその瞬間、



カン カン カン カン



不意に、踏切のサイレンが鳴り響く。その音を聞いてか、バケモノがぎょっとしたように辺りを見渡し、絶叫する。



【ア、ァ!? アアァァァ!!?】



そして、踏切の反対側へと走って……逃げようとした。だが、その逃亡は、遮断機のレバーによって阻まれる。ならばと次は此方側に戻ってこようとしたが、黒コートがそこにいる上に、此方の遮断機も下がってしまった。すると、バケモノは更に絶叫を上げ、狂乱したように髪を振り乱しながら線路の上から逃れようとする。だが、そうすると、何かに阻まれるように線路の上へと弾き返される。


もしかしたら、そこから出られなくなっているのかもしれない。ぼんやりと傍観者のように見ていた男は、そんな事を思う。


そして、その姿が、先程の死から逃れようとする自分と重なって見えた。


地面が微かに振動している。電車がやって来るのだろう。

なら、あのバケモノは一体どうなるのだろうか。


また、轢き潰されて、肉と血を線路上にばら蒔くことになるのだろうか。


その時、痛みはあるんだろうか。


他人事のようにそう思っていたその時、突然黒コートがバケモノに向かって走り出す。




そうして、先程まで振るっていた刀を投げ捨て、遮断機を飛び越え、()()()()()()()()()




「え」



突然の事に男が思わず声を上げて手を伸ばしたその次の瞬間、電車が線路上を高速で通り過ぎていった。

突然人が線路上に飛び込んでいった所を目撃しては流石に放心状態のままではいられず、男は慌てて踏切に近寄る。

男が近付いていくうちに電車が完全に通り過ぎ、サイレンの音はぴたりと止んだ。座り込んでいた場所から少し近付いた所で、男は足を止めた。遮断機の向こう側に黒い人影を見つけたからだ。


ゆらりと立ち上がったその人影は、先程見た黒コートで間違いなさそうだった。よく見ると、何かを抱え込んでいるのが分かる。黒コートがくるりと振り返ると、その腕の中には、先程まで戦っていた筈のバケモノが抱き上げられて収まっていた。



「ひっ」



その光景を見て、男は思わず後退りする。

男の怯えた様子も気にせず、黒コートは、先程自分を下ろした時のようにそっとバケモノを地面へと下ろした。所々肉の剥がれた脚では上手く立てなかったのか、体をふらつかせたバケモノを、黒コートは気味悪がりさえせずにそっと支え、地面へと座らせる。ぺたん、と座り込んだバケモノは、自分より高いところにある鴉の顔を呆然とした様子で見上げる。



【…………ドゥ、し、テ……】



不意に、震え上がるような声が男の耳に届く。その声がバケモノから発せられていると理解するのに時間は要らなかった。バケモノも混乱しているのだろう。どうして、先程まで攻撃していた相手を助けたのか。男にとっても疑問だった。バケモノから発せられたその問いは、黒コートに投げ掛けられていた。それに対し、黒コートは、



〈『たすけて』と言ったのは、貴女だろう〉



たった一言、機械の声でそう返した。



〈………貴女は、マツダレミで間違いないな〉


【!】


「え………?」



そのまま続けて確認するように、黒コートは人名を口にし、問いかける。その人名を聞いて、バケモノは驚いたように目を見開く。

そして、男も、同じように目を見開いていた。


『マツダレミ』という名前を、彼も知っていたからだ。


マツダレミ………『松田(まつだ)玲美(れみ)』? 今、この黒コートはそう言ったのか?


そう考えた所で、男ははっとして辺りを見渡す。そして、此処が何処の踏切であるかを漸く彼は理解した。



この場所は、この踏切は…………彼の同僚であった『松田玲美』が、死んだ場所だった。



一度しか花を供えに来ていないとはいえ、どうして忘れてしまっていたのだろう。



では、まさか。

今、『松田玲美』と呼ばれて、体を震えさせて、目を見開いた、このバケモノ――――いや、このひとは。



【ワたシ、ヲ………知っテルの?】



目を見開くバケモノは、黒コートに訪ね返す。その問いに対して、今度は黙殺せず、黒コートは頷いた。



〈悪いが、貴女について調べさせてもらった。………随分と、酷い目にあったんだな〉



鴉の顔………いや、よく見ると、それは顔ではなく面であることが分かった。その面から発せられる無機質な機械音声が、バケモノ―――――松田玲美に対して情を滲ませる。


あぁ、そうだ。もし、今地面に座り込んでいるそのひとが、もし、男の知る()()()()()()()であるならば。



〈会社の上司による暴言や振る舞いに多大な精神負荷を与えられ、それによって鬱病を発症。会社を辞職し、その後、この踏切で電車に轢かれて死亡。居住していたアパートの部屋から見つかった遺書の内容から、自殺だと判断された。これで、間違いないな〉



機械音声が書類でも読み上げるように淡々と告げる言葉に、ソレはこくりと頷いた。その様子を見て、男は、ソレが同僚であった松田玲美本人であるという到底信じられない現実を突きつけられた。


この男の知る松田玲美は、入社当初から活発で前向きな性格で、優しい人だった。その人柄に加え、容姿も中々整っていたことから、密かに彼女に憧れていた社員は男女問わず何人も居た。

だが、その容姿と性格が、仇になった。

彼女の容姿を見て気に入ったらしい上司が彼女に迫り、それをきっぱりと拒絶した結果、その上司からいじめが始まった。ただでさえキツい職場であるのに、さらに職場の他の誰よりもずっと酷な立場に立たされた彼女は、最初は気丈に振る舞っていたものの、最終的に辞職してしまった。偶然にも彼女の隣のデスクだった彼は、空っぽになった隣のデスクを見て、仕事の効率よりも先に彼女の心を案じる『大丈夫かな』という言葉が頭に浮かんだ辺り、自分も彼女を気に掛けていたんだなと気付かされた。彼女がこれからちゃんと何処かでやり直せるように祈っていた。


だが、その祈りは届かなかった。


その一ヶ月後、職場に彼女の訃報が届いた時、男は思わず飲んでいたコーヒーを取り落としてしまった。

その後執り行われた葬式にも参列したが、最後に顔を見ておこうと会いに行った彼女の亡骸の入った棺の窓は閉まったままで、最後まで顔を見れずに彼女は灰になった。


その所為もあったのだろう。男には、松田玲美が死んだという実感が無かった。この町を歩いていればまた何処かで会えるような、そんな気持ちがあった。もしくは、現実が受け入れられなかった、というのが正しいのかもしれない。とにかく彼は、彼女が死んだも思えずに、墓参りや花を供えに来たのには、同僚に連れられて来た際の一回だけだった。



また何処かで会えると、思っていたから。



それは、結果として叶えられた。



だが、再会した彼女は変わり果てていた。


明るい笑顔が似合う可愛らしい顔は、頭部が大きく抉れている。

腕は千切れかけ、辛うじてついているだけ。

裂けた肉の隙間から、骨と思われる白いものが見え隠れする。

さらりと風に靡いていたさらさらの髪は、血と肉で汚れ、ひどく傷んでいるのが男でもよく分かる。


一緒に働いていた頃とは比べ物にもならないくらい恐ろしい姿へと変わり果ててしまっていた。

ふと、男は、先程自分は何をしていたのか考え、顔を青くする。また自分は同僚を見殺しにする所だった事に気付いて、ゾッとした。



〈楽になりたかったから、踏切に飛び込んだのか?〉



黒コートが、松田に対して問いかける。その問いに対して、松田はぴくりと小さく体を揺らすと、ゆっくりと頷いた。



【楽ニ、なリ()かッた……から、勇気を出シて……デも、な、れ、()かッタ………】



〈そうだろうな。自殺したところで地縛霊になるだけ。その場所で永遠に死の苦痛に苦しみ続けることになるだけだ。貴女みたいにな〉



『楽になりたかった』。

ごぽりと口から血を吐き出しながらそう途切れ途切れに言葉を紡ぐ松田に対し、黒コートは何でもないようにそう返した。さらりと言われた言葉を聞いて応したのは男だった。

なら、もし、先程、あのまま線路に連れ込まれて死んでいたとしたら。


自分も、ここで死に続けることになっていたのか。


いや、それだけではない。自分は、もう死んでいるとはいえ、同僚に危うく人殺しをさせるところだったことに、漸く気付いた。



〈そこのアンタ。さっき抵抗やめて死のうとしただろ〉



そう気付いてしまった所で、黒コートの意識が男に向けられた。鴉の面に嵌め込まれた硝子の目が男に向けられ、機械音声を投げ掛けられる。男はその言葉にビクリと体を震わせた。図星だったからだ。



〈自殺を考えてるならやめておきな。この人みたいにその場所に囚われて、縛られて……その場所で永遠と死に続けることになる。どんなに楽になりたくてもなれない、誰にも助けてもらえない、地獄よりも苦しい永遠と続く苦痛が待ってるぞ〉



ただそれだけを淡々と告げると、黒コートはまた松田に向き直った。



〈さっき、人を線路に連れ込もうとしたり、攻撃してきたのは、貴女の意思でやったのか?〉



黒コートがその問いを投げると、松田は頭を横に振った。



【違ウゥ、の………体が、勝手ニ゛………わダじ、アんナノ、やりたくない、のニ………】



地を這うようなその声は、震えていた。顔が見える訳ではないのに、今にも泣き出しそうだと、男は感じる。



〈………そうか。何にせよ、人を殺す前でよかった。貴女の魂が完全に穢れずに済んだ〉



黒コートは松田の答えに一つ頷き、そう言って松田と視線を合わせるように右足を地面につけて跪いた。そうして、松田を真っ直ぐ見る。



〈したくないことをして、辛かっただろうに。助けを求めても理解されなくて、悲しかっただろうに。何度も電車に轢かれて、痛かっただろうに。


………よく堪えたね。もう、大丈夫だ。今、引導を渡してやる〉



そう言った黒コートはそっと松田の体を抱き締める。その、次の瞬間だった。


真っ黒な霞のようなものがぶわりと松田の体から溢れだす。それは大きく膨張すると、黒コートと松田を包み込むように辺りに充満する。男がぎょっとして目を剥いたその時、黒い霞が少しずつ薄れていく。黒に阻まれてよく見えないが、それでも目を凝らしてその光景を見ると、まるで、黒コートに霞が吸い込まれているように見えた。


霞がだんだんと薄まり、完全に消え去る。黒コートが抱き寄せていた体を離して立ち上がり、二歩ほど下がる。すると、そこには、



「………まつ、だ………」



男の知る、松田玲美がいた。

頭部の欠損や、千切れた腕など見当たらない。記憶にある松田玲美その人が、そこに居た。



『………遠藤、くん』



思わず名前を呼んだ声は、ふわりと浮き上がって立つ彼女の耳にしっかりと届いていたらしい。ゆっくりとした緩慢な動作で閉じていたその目を開いた松田は、男を―――かつて同僚であった遠藤隼輝(えんどうとしき)を見て、確かにその名を呼んだ。


その声は、寒気を覚えるような声ではない。忘れかけていた松田玲美の、優しいあの声だった。



『遠藤くん、本当にごめんなさい………私、遠藤くんを危うく殺してしまうところだった』



夢でも見ているのかと目を見開く遠藤に対し、松田は顔を悲しそうに歪め、遠藤に対して謝罪する。



「あ、松田、俺、おれ……!」



その謝罪に対して、遠藤の口ははくはくと動く。

言いたいことが、話したいことが、沢山あった筈だった。会って話したいと思っていたことが、話しておけば良かったと後悔したものがあった筈だった。だが、遠藤の口は、何も言えなかった。あまりにも話したいことが、有りすぎた。

遠藤が松田に対して何にも言えずに居ると、松田は少し笑った。



『あはは、全くもう、咄嗟の時に話せなくなる癖は相変わらずみたいだね』



その笑顔は、遠藤がもう一度みたいと願っていた笑顔そのもので。

その笑顔を見た瞬間、自然と口が動いていた。ずっと言いたかった言葉が、するりと口と出ていた。



「松田っ! 支えてやれなくて、ごめん! あの時助けてやれなくて、見殺しにして、本っ当にごめん!! 俺が、俺があのクソ上司に一言言えてれば、お前、おまえ、は、しなずに、すんだのに、」



後悔、絶望、自己嫌悪、罪悪感。

心の中にしまいこんでいたそれらが、口から発せられる。言葉にする度に込み上げてくる涙は、きっと口から出しきれなかった分の感情からくるものだろう。



『………ばかだなぁ。私が死んだのは、君の所為じゃないのに。まさか、ずっと気にしてくれてたの?』



踏切のむこうで、彼女は遠藤の言葉を聞いてそう言って、少し呆れを滲ませながら笑う。



「あたりまえだろ!! おまえが死んだってきいたとき、おれがどれだけ、後悔したと思ってんだよ!! おまえともっと、話していればって、おまえのことをもっと、見ておくべきだったって、何度も思ったよ!! あやまんないでくれよ、殺されたってしかたねぇぐらいのこと、おれはお前にしたんだ!!」



反対側に居る彼女にもよく聞こえるように、遠藤は涙混じりに、心内を曝け出して半ば怒鳴るように叫んだ。商談の時のような理路整然とした言葉はそこにはない。感情のままに叫ばれる言葉は、あまりに支離滅裂だった。



『……全く、もう。遠藤くんの所為じゃないって言ってるのに』



遠藤の心からの叫びを聞いて、目を丸くしていた松田は、ふわりと笑う。その笑みに遠藤は思わず見惚れた。



『………時間みたい。もう、いかないと』



不意に、松田が自身の足を見た。遠藤もそれに続いて松田の足元を見て、ぎょっとする。


足の先から、少しずつ、薄く―――消えていっている。


松田玲美は、成仏しようとしている。



「まつだ、お前、」



それを遠藤が理解し、思わず名前を呼んだその時、視界の端で赤色の光が見えた。



カン カン カン カン



一拍遅れの踏切のサイレンが、辺りに響き出した。

遠藤ははっとして、慌てて踏切を渡ろうと走り出す。だが、あと一歩の所で、遠藤を阻むように遮断機が下りた。



「くそ、こんなのっ」



『だめ!!』



遮られて苛立った遠藤が感情のまま遮断機を越えようとしたその瞬間、松田が制止の声をあげた。その声に、ぴたりと体が動かなくなる。



『それはだめだよ。危ないでしょ』



まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるように、松田は遠藤を優しく窘める。その言葉を聞いて、遠藤は目を見開き……本当は今すぐにレバーを飛び越えて走り出したいのをぐっと堪えて、踏切から離れた。

遠藤が悔しそうな顔で踏切から離れていく様子を見ていた松田は、にっこりと笑う。そして、少し離れた所に居る黒コートに話しかけた。



『どなたか存じ上げませんが、ありがとうございました。あなたのお陰で、漸くあの世に行けそうです』



そう言って深々と頭を下げた松田に対し、黒コートはただ手をひらりと振って返した。そして、指先を踏切の方へ………遠藤の方へ向ける。無言ではあるが、自分よりあっちだろ、と言わんばかりのその仕草を見て、松田はその思いに甘えて、遠藤の方を見た。

松田から見た遠藤の顔は、涙をぼろぼろと溢して、随分と情けなくなっていた。その顔を見て、いつかの日に何人かと一緒に映画を見に行った日を思い出した。あの時も、映画が終わった後、皆の前だったのにあんな顔で泣いていたのを思い出す。それを皮切りに、生前の様々な日々がぶわりと浮かび上がり、頭を駆け巡る。



『大丈夫か』と、何度も自分を本気で気遣ってくれた彼との、優しい思い出を。



『遠藤くん、あのね! 私、見捨てられたなんて思ってないよ! いつも私の事心配してくれて、本当にありがとう! あの時、私は遠藤くんに救われてたよ!』



鳴り響くサイレンの中、踏切の向こうで松田はサイレンに負けない大きな声でそう言った。

その言葉に、遠藤は衝撃を受けていた。確かに彼女に度々『大丈夫か』と声をかけて仕事を手伝ったりはした。だがそれは、同僚として、当たり前の事をしただけで。


だからそれが、彼女の心を救っていたなんて、遠藤には思いもよらなかった。



『それでもまだ、気にしてるならさ!』



そんな遠藤の内心を知らずに、消えゆく彼女は笑って、言った。



『生きて、遠藤くん! おじいちゃんになるまで生きて、私に色んなお話聞かせて! 私、向こうでずっと待ってるから!!』



笑って告げられたその言葉は、酷く重く遠藤の心に沈み込む。遠藤は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら大きく、何度も頷いた。

地面が振動する。電車がやってくるのだろう。この電車が通りすぎる頃には、きっと彼女は居なくなってしまう。そう確信した遠藤は、大きく口を開く。



「松田!! おれ、本当は―――――!!!」



そして、最後に、長い間会えなくなる前に、ずっと言いたかった言葉を、叫んだ。



「―――――――――」



電車の通り過ぎる轟音と、サイレンの音に声が掻き消される。



―――――だが、電車の車両の隙間から見えた彼女の顔は、最後に優しく笑っていた。



…………完全に電車が通り過ぎ、遮断機が上がる。そのときには、遠藤が思っていた通り、彼女はもうそこには居なかった。きっと、あの世へと旅立ったのだろう。暫くの間、彼女が立っていた場所を見つめる。



コツ、コツ、コツ。



そう足音を立てながら向こう側の暗闇から姿を現した黒コートが、此方側へと戻ってくる。そうして道端に投げ捨てた刀を拾い上げると、すっと遠藤の横を通っていく。



「あ、あの!」



去ろうとする黒コートに、慌てて遠藤は振り返って声をかけた。黒コートは立ち止まり、振り返る。



「助けて下さり、有難うございました! 俺のことも、彼女のことも……本当に、ありがとうございました!!」



深々と頭を下げた遠藤に対して、黒コートはじっと彼を見つめるだけだった。少しの間見つめていた黒コートは、何も言わずにコートを翻し、去っていく。



その場には、遠藤だけが取り残された。



―――――――――――――――――――――――


約一ヶ月後。


道に植えられた桜の花弁が吹雪く道を、少女が走り抜けていく。制服を身に纏ったその少女は、角を曲がり、小道を抜け、その先の踏切へと辿り着く。

踏切の前では、何人か同じ制服を着た学生の姿が見える。少し前までは………ここが『ひきずり踏切』と呼ばれていた頃は、学生は此処に寄り付かなかったのに、今では通学路として通る学生もいるようだった。そうなったのには、勿論訳がある。こっそりとこの町に流行り始めた噂が、その訳だ。


その噂は、『大きな鴉が、ひきずり踏切のお化けを退治した』、というモノだ。


踏切の遮断機の前で、電車が通り過ぎるのを待っている学生を横目に見ながら、踏切の脇にしゃがみこむスーツ姿の男がいた。遠藤隼輝が、そこにいた。

遠藤は抱えていた小さな花束をそっとそこに置くと、手を合わせた。



「………よう、松田。なぁ、聞いてくれよ。あのクソ上司、俺達全員に訴えられて地方に移動になったんだぜ。もっと早く上に報告してれば良かったな………」



まるで誰かに語りかけるように、遠藤は口を開く。いや、『ように』ではない。実際に語り掛けているのだろう。あの世にいる、あの人に届くように。



「それでな、本題はここからなんだけど、今までの業績が認められて、俺が課長に昇進することになったんだ。思ってもみなかった昇進でかなりビックリして辞退しようとしたんだけどよ、皆が俺なら任せられるって言ってくれてさ。だから俺、自分なりに頑張ってみようと思うんだ。


どうか、あの世から見守っててくれ」



最後にそう言って締め括ると、遠藤は目を開け、立ち上がる。そうして、踏切に背を向けて歩き出した。真っ直ぐと前を見るその目には、生気が溢れていた。

その遠藤の背中を学生の集団の中から見送る人物が居た。先程の少女―――菫だ。



(………うん、良かった。大丈夫そうだ)



遠藤がしっかりと自分の足で歩いていることを確認した菫は、前を向き、他の学生に混じって踏切を渡る。



(いざ仕事しに行ったら人が引きずり込まれかけてるし、助けようとした瞬間抵抗やめて死のうとするし………どうなることかと思ったけど、うまい具合に収まったみたいで本当に良かった)



一月ほど前の夜の遠藤の様子を思い出して、菫はほっと胸を撫で下ろす。菫にとって、生を諦めた人間の表情というものは、いつ見てもぞっとするものだった。

―――先程からまるで菫は遠藤のことを知り合いかのように考えているが、遠藤は菫の事は知らない。分からない、の方が正しいが。それはそうだろう、遠藤と菫は直接対峙してはいるものの、今の菫とはとても結び付かない格好をしていたのだから。



噂の『大きな鴉』こと、一月前の夜に遠藤の前に現れた黒コートの正体は清沢菫であることを、面識もないのに気付ける筈もなかった。



(いや、それよりも、あんなエッモいシチュエーションに遭遇するとは思わなかったなぁ………。霊の正体が会社の同僚だったとかどんな確率? しかもどうも片思いしてたみたいだったし……運命の悪戯にも程があるわ。……乙女ゲー世界だからか? だとしたら乙女ゲー世界補正ヤバすぎでしょ)



人混みの中に紛れて進みながら、菫は踏切での出来事を思い返していた。

まるで漫画や映画にでもなりそうな奇跡の一場面。踏切を挟んで行われる二人のやり取りを見て、鴉を模した面――――正体を隠すために着けているペストマスクの下で、本当は菫は涙ぐんでいた。遠藤の前から去って遠くまで来た後、暫くの間悶えていた。今でも思い出すと少し泣きそうになってしまう。



(………まぁ、現実的に考えればあんな奇跡みたいなシチュエーションになったのは、単純に時期と二人の人柄が聞いてるこっちが吃驚するぐらい良かったからだろうけど。噂が出回り始めて割りと経ってるけど、松田さんはまだ誰も殺してなかったし、何より彼女自身が誰かを殺すのを拒んでた。自分が味わった苦痛を他の人に味わってほしくなかったのかな。事故や殺人による死因で幽霊になった人の大半は道連れを望むってのに、優しい人だ。遠藤さんも、他人を真剣に思いやれる本当に良い人だったみたいだし。いつもはこんな優しいお別れなんてないのにねぇ)



主人公(明美ちゃん)が関わったからかしら、と根拠のない理論を考えつつ、菫は歩きながら奇跡の光景に思いを馳せる。

今までの経験上、松田と遠藤のようなケースは本当に極稀なケースである事を菫は理解していた。もし何か一欠片の要素でも欠けていようものなら……あの夜の奇跡の光景は、あっという間に後味の悪い悲劇へと姿を変えていただろうというのは、直ぐに予想できた。



(…………まぁでも、いい方向に転がって良かった。祓い屋やってる意味があったな)



色々考えてはいたが、菫は最終的にはそう結論を出し、くすりと小さく笑う。自分の仕事―――――祓い屋としての努力が報われたのは、素直に嬉しいことだった。

そんな菫が上機嫌に歩いていると、坂の上に目的地が見えてきた。

今日から菫が通うことになる、山吹学園の校舎が、姿を現した。



(うっわ流石町内一のマンモス校、でっか。敷地ひっろ。語彙力溶ける)



前世通っていた高校とは全く違う、山吹学園のスケールの大きさを目の当たりにして、菫は校門の前で立ち止まってまじまじと校舎を見てしまう。



(うわー………ゲームのスチルのまんまだ。まさか私が()()山吹学園に通うことになる日が来るなんて)



前世の私では考えられなかっただろうな、と思いながら、自分の横を通り過ぎる他の生徒の邪魔にならない校門の隅で、菫は校舎を見続ける。

あの山吹学園とは、ゲームの舞台になっている山吹学園のことである。まさか此処に通う日が来るとは思いもしなかった菫は、感慨深い思いに浸っていた。

そんな風にぼんやりしている菫の姿を見つけ、小走りで近付いていく人影が一つあった。



「菫ちゃーんっ! おはよう! 遅くなってごめんっ」


「お、明美ちゃん! おはよ! そんな待ってないから謝んないでー」



花が綻んだような笑顔を浮かべながら声をかけてきたのは、明美だった。菫は校舎に注視していた意識を引き戻し、挨拶をしてきた明美に挨拶を返す。

菫が学校に入らずに居たのは、明美を待っていたのもあった。実はあの踏切での出会い後何度かやり取りをしている内に自分たちの高校の話になり、明美に菫も山吹学園に通うことがバレてしまった為に、何なら校門で待ち合わせして二人で行こうか、という話になったのだった。



「制服似合ってて可愛いねー!」


「え、そ、そうかな? ありがとう。菫ちゃんも可愛いよ」


「ありがと! さてと、それじゃあいこっかぁ」


「うん!」



下ろし立てのブレザーに身を包んだ明美を素直に菫が褒めると、明美は照れ臭そうに笑い、菫を褒め返した。菫は明美のその可愛さに内心悶えつつも顔には出さず、笑顔で中に進むように促し、歩き始めた。



「どんな学校生活になるか、楽しみだね!」


「あはは、そうだね」



これからの学生生活に胸を踊らせて目をキラキラとさせる明美を横目に見つつ、これからこの学園で起きる波乱を知っている菫は内心苦笑する。菫はまだ何も知らない明美が少し哀れに思えてしまった。



(かといって私も平穏な学園生活を送れるかというと微妙なんだけど………)



自分もあまり言えた立場ではないことを思い出し、菫はまた一つ苦笑を溢す。



(どう考えてもこの学校で私がやることは乙女ゲーじゃあないんだよなー。恋愛的なドキドキじゃなくて恐怖とか緊張感からくるドキドキなんだよなー。どう足掻いてもジャンル違いを起こしてる気がする……現実はこんなものだろうけど。まぁとにかく、私側の事にこの子は巻き込まないようにしないと。ただでさえゲームの方のイベントがあるのに、いらない心労を負わせたくないし。正直オタクとしてはゲームのイベントは出来れば出歯亀させてもらいたいけど………目をつけられると厄介だしなぁ)



「菫ちゃん? どうかした?」


「ん? いや、横顔も可愛いなって」


「も、もう! からかわないで!」


「えー、事実を言っただけなんだけどなー?」



考えていたら思わずじっと明美を見ていたらしい。菫の視線に気が付いた明美が不思議そうに首を傾げる。はっと自分が明美を見ていたことに気付き、それに対してふざけ半分で『可愛い』と褒めて誤魔化すと、明美は白い肌の頬を少し赤くした。そんな初心な反応を見せる明美の可愛らしさを存分に堪能し、二人で談笑しながら昇降口まで歩いていく。



(………まぁ、なるようになるか。私は私がしたいことをするだけだし)



ぐだぐだ考えていても仕方がない、と思考を一旦切り上げた菫は、校舎の中に足を踏み入れた。



こうして、清沢菫の山吹学園での学園生活が始まったのだった。

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