まだ道はある
「カーティス、助かったわ」
城門までカーティスを送りながら、トーヴァは「でもね」と続けた。
「あの場では“悪魔”って言ってたけれど、たぶん違うと思うのよ」
「だろうね。トーヴァ従姉の懸念は、あの場では少し言いづらいものだったんだろう? 例えば……“悪堕ち”とか」
カーティスの言葉にトーヴァは黙り込んでしまう。少し険しい表情を浮かべ……「そうよ」と吐息混じりに頷いた。
「“魔導師の遺産”のことを思い出して、最初に浮かんだのが母さんのことだったの」
「ヴィー叔母上?」
「ええ。あなたも知ってるでしょう? 母さんは、昔、“堕天”に触れられて“悪魔混じり”に身体が変容してしまったから。幸い、心までは変えられずに済んだけど。
強い力を持つ魔道具……伝説に謳われるほどに力を持つものにも、良くも悪くも触れただけで人に影響を与えるものがあるわ。それこそ、姿を変えずに心だけ変えてしまうような……“魔導師の遺産”だもの。そんな魔道具だって、おかしくないんじゃないかしら」
俯くトーヴァの肩を、カーティスは励ますように叩く。
「“暁の国”は、その昔、“大災害”による滅びを迎えるまで、強力な魔術をあやつり偉大なる“魔導師”を自称する、傲岸不遜な魔術師たちの支配する国だった……だっけ」
「そうよ」
「自在に魔力を操り、大規模な魔術装置をいくつも作り上げ、魔術こそが唯一絶対だという価値観に基づいて魔術師以外を迫害した……そんな“魔導師”の遺したものなんてろくなものじゃない、ということだね。
つまり、触れたものを“悪堕ち”させることだって、十分にあり得ると」
こくりと首肯するトーヴァに、カーティスもなるほど、と頷く。
「たしかに、今の殿下が別人にすり替わったものだというほうが、皆にとって良いことだろう。殿下本人が“悪堕ち”したよりも、ずっと」
「それに、もし、二年前に既に殿下が“悪堕ち”していたのだとしたら……もう、二年経っているのよ。今更、“もとに戻れ”なんて効かないわ」
「“贖罪”の神術を使っても難しいだろうな。あれは、まず、自分は改心しなければならないのだと認めさせることから始めなきゃいけないんだ」
ふたり揃って、大きく溜息を吐く。
こんなに鬱々と考えたところで良いことなんてないのに、考えてしまう。
「――やっぱり、父上が俺に遍歴の旅に出てトーヴァ従姉を訪ねろと言ったのは、この件が絡んでるんだろうな。父上自身もはっきりとはわかってなかったのだとは思う。けど、無関係とも思えない」
「そうね……そうかもしれないわ」
けれど、俯いたままぎゅっと眉間に皺を寄せるトーヴァに反して、カーティスは急に空を見上げた。
「けど、それならまだ道はあるということだよ」
トーヴァはパッと顔を上げて、カーティスを見つめた。
「本当にそう思う?」
「そうでなきゃ、猛きものは俺をここに寄越したりしない。つまり、皆、まだまだ力を尽くし切ってないということでもあるさ」
「猛きものの聖騎士様が言うと、なんだか説得力あるわね」
ようやくトーヴァは笑った。カーティスも肩を竦めておどけてみせる。
「姫殿下にも言ったように、まずは敵を知ることから始めよう。トーヴァ従姉は、そういうの得意だろう? ミケ叔父からしっかり学んでたじゃないか」
「ええ、そうね。あれこれ悩むより、まずは知るところから始めるわ」
「クレール。カーティスをわたくしの護衛にしたいわ」
窓の外を眺めながら、ジェルヴェーズはじっと考え込んでいた。
「姫様? カーティス様は、何分にも戦神教会の聖騎士殿でございますし……いえ、でも遍歴の旅をなさっているとおっしゃっていましたね」
反射的に無理だと答えそうになったが、しかしとクレールは考え込む。
遍歴の旅の途上にある聖騎士は、その間、どこの教会にも仕えていないという扱いだったはずだ。
「オーリャ様を助けるのに、聖騎士殿がいらっしゃればとても心強いと思うの。戦いの神に仕えているなら、きっと剣の腕だって申し分ないはずよ。それに、聖騎士殿には隠れた悪魔の正体を見破る力があるというわ」
「はい。遍歴の騎士を王や領主が食客として迎え入れる話も聞いたことがあります。カーティス様はトーヴァ様の従弟君でございますし、姫様が一時の護衛として迎え入れても、あまり問題はないかと。
何しろ、戦神の聖騎士なのです。品行やお人柄の面でも信頼できましょう」
クレールの言葉に、ジェルヴェーズはにんまりと笑う。何しろ、相手は悪魔だ。聖騎士がそばにいるなら、悪魔を相手にこれほど心強いことはない。
「ではクレール。カーティスをわたくしの護衛に迎える手続きをお願い」
「はい。すぐに話を通して参りましょう」
「ありがとう。よろしくね」
一歩ずつ、一歩ずつ、確実に。アルトゥールを助けるために、ジェルヴェーズができることはすべてやろう。
カーティスを送った後、トーヴァは魔術省兼魔術師協会である魔術塔へ向かった。
誰か、魔術師を見繕って話を聞くためだ。
詩人には詩人の魔法があり、その魔法の能力を伸ばしたいと魔術師協会の会員になる者もそれなりにいる。だから、吟遊詩人でもあるトーヴァが協会に興味を持ったとしても不自然ではない――という、設定で。
本当なら、詩人学院の卒業証でもあればよかったのだが、あいにくトーヴァは父から学んだだけだ。学校には通っていない。何か証明をと言われたら、数曲歌えば認めてくれるだろうか……なんてことを考える。
塔の敷地入り口の門で、まず警備兵にあれこれと質問され……訪問者用の部屋までは通された。
決まった担当者などはいないらしく、かといって約束もなしにいきなり魔術師長に会えるなんてこともなく、トーヴァはただ待たされる。
「こちらに、協会への入会希望者がいると聞きましたが」
コンコンガチャ、とノックから返事をする間もなく扉が開いた。あまり、礼儀や作法には頓着しない魔術師がきたのか。
「はい」
トーヴァは立ち上がり、きれいな一礼を返す。
「トーヴァ・カーリスと申します。私は吟遊詩人で……あの?」
扉を閉めるなり、じっと凝視されてトーヴァは困惑する。
背に流した青とも緑ともつかない淡い髪色は、あまり見ない色だ。その髪からちらりと見える耳は、まるで魚のヒレを思わせるような形をしていて……。
「“精霊混じり”?」
珍しさに、思わず呟いてしまう。
“精霊混じり”は、“悪魔混じり”や“神混じり”のような種族同様、遠い祖先が精霊と混血して生まれた種族だ……と言われているが、実際は違う。
先祖や当人が、精霊の影響を受け過ぎて変容してしまった種族が、“精霊混じり”なのだ。ゆえに、数は非常に少なく、あまり目にすることもない。
この魔術師は、恐らくは水に寄った“精霊混じり”だろうか。
魔術師はくすりと笑って、一気に間を詰めた。すっと流れるように歩み寄り、近過ぎるくらいに近寄って、トーヴァの手を取る。
「ええ、“精霊混じり”です……と言いたいところですが、少し違います。私のことはネリアーとお呼びください、乙女」
「――は?」
「あなたからはとても芳しい水の匂いがします。あなたは水に縁の深い方でしょう? 目も、深い水底のように青い……ねえ、私の水の乙女」
鼻の頭が触れそうなほどに間近から目を覗き込みつつ、ネリアーはトーヴァの指先にキスをする。
いったい誰が誰の“水の乙女”だというのか。何の話をしているのだ。
「あの、待ってください。私はトーヴァ……トーヴァですから、その……」
「あなたが私に真の名を捧げてくださるまでは、“乙女”とお呼びします」
「ま、真の名って」
「だってそれは、あなたの“名”ではないでしょう? 半分とはいえ、“水妖”である私にわからないとお思いですか?」
「“水妖”!?」
「ええ。ご存知ですか?」
なぜこんなことになっているんだろう。
トーヴァは困惑にひたすらぐるぐると視線を彷徨わせながら、どうにか本題を切り出す隙を探す。
けれど、どうにも腰が引ける。この魔術師は勘弁してほしい。
「――チェ」
「チェ?」
「チェンジで」
「変化がどうかしましたか?」
こういう時は“チェンジ”と宣言するものだと義姉が言っていたが、もちろんそれでどうにかなどならなかった。
「あの、他の方は、いらっしゃらないので……」
「ああ、交代ですか。どうも手隙なのは私だけだったようでして。それに、あなたを放って交代などしませんよ」
「いえ、交代してくださって構わないのですが」
「水の乙女は、つれないことをおっしゃる」
するりと頬を撫でられて、「ひっ」と声が漏れる。これほどまでの危機感を感じたことなど、これまでの人生で一度もなかった。
ひんやりとした手のひらで何度も何度も頬を撫でながら、ネリアーはうっとりとトーヴァを見つめている。
「乙女? 何か悩みでもおありですか? もし魔術を嗜みたいのでしたら、私が乙女の力になりましょう。魔術が必要なのだというなら、それも私が。
ですから、私のものになってください、乙女」
「いえ、その……あなたのものになるとかどうとかは横に置いといてですね、私は、こちらの魔術師のどなたからお話を伺いたいと、訪ねてきただけですので、その、その……“乙女”とかそういうのは間に合ってるんです! 他の方をあたりますから!」
「そんなことは言わず、どうか……ねえ、乙女。“水妖”の一途さをご存知ではありませんか? あなたは私の乙女なのに、私を放ってどこかへ行ってしまうとおっしゃるのですか」
「ちょっ、だから、そういうのは……!」
トーヴァの頭の中で、“水妖”の娘に魅入られて生命を落としてしまった男の悲劇の伝説が、ぐるぐると渦巻いていた。