大人ってずるい
愛の勝者? と、カーティスはもう一度呟く。
たしかに猛きものは戦いと勝利を司る雄々しき神だ。
だが、猛きものの司る“戦い”や“勝利”は、ジェルヴェーズのいうものとは微妙に違っているのではないか。
「姫殿下……その、そういった戦いは……」
「なあに、カーティス?」
「その、愛と情熱の女神が司るものではないかと考えるのですが……」
「まあ!」
ジェルヴェーズが目を丸くする。
そんなこと、考えても見なかったという表情だ。
「でも戦いよ? 猛きものは地上のあらゆる戦いを司るのではなかった? なら、愛の戦いだって猛きものの手の中にあるはずだわ!」
「ですが、姫殿下。その、愛というものは、武具を携えての戦いとは違うものではないかと」
“鋼の蹄”も同意するように縦に首を振る。カーティスも、思わぬ問いにどう説明すれば良いだろうか、必死に考える。
「そもそも、姫殿下はなぜそのようなことを?」
カーティスから見て、アルトゥールは婚約者としても男性としても誠実だし、ジェルヴェーズに惹かれているようでもあった。
おそらくは誰が見てもそうと考えるはずだ。なのに、何か行き違いでもあったというのか。
ジェルヴェーズはむうっと剥れて、わずかに視線を泳がせる。
「――オーリャ様は、わたくしのことをまだ子供だと思ってるの」
「はい」
きゅっと眉を寄せて、そのことがとても不満なのだという表情のジェルヴェーズを、カーティスは膝をついたままじっと見上げる。
「ただ頭を撫でたりするだけで、キスもしてくれないのよ。まるっきり子供扱いなの。オーリャ様は、わたくしのことを婚約者じゃなくて、かわいい子供だくらいにしか思ってないのだわ。
だって、婚約者にはキスをするものでしょう?」
「それは……」
ふっと笑みを浮かべるカーティスに、ジェルヴェーズはここでも子供と思われているのかと、ますます不機嫌になる。
が、カーティスは別なことを考えたようだった。
「アルトゥール殿下は、姫殿下をとても大切になさっておいでなのですよ」
「でも」
大切って言われても、子供のように大切にされるのではうれしくない。
ジェルヴェーズの口がへの字に曲がる。
「実は、私の父と母も、殿下と姫殿下のように歳の離れた夫婦でして」
「まあ」
「母が嫁いだのは、ちょうど姫殿下と同じくらいの歳の頃でした。母は姫殿下よりも幾分か小柄ですし、それこそ、子供めいて見えたのでしょうね」
「そうなの?」
なぜ、急にカーティスの両親の話が出て来るのだろうか。
ジェルヴェーズは不思議そうに目を瞬いた。
もしかして、カーティスの母の話に、自分がアルトゥールの愛を勝ち取るためのヒントがあるというのだろうか。
「結婚したころの母も、姫殿下のように悩んだのだそうですよ」
「まあ……まあ……」
こんな身近に先例があったなんてと、ジェルヴェーズは期待する。カーティスの母の話の中に、やはりヒントがあるのか。
「父は遥か西の“深淵の都”の出身で、都で成人と認められる年齢は十八なのですが、当時、まだ十五だった母と結婚はしたものの、“本当の夫婦”になるのはまだまだ早過ぎると考えていたそうです。ゆっくり、時間をかけて進んでいこうと……父は母が大切でしかたないものですから」
あれ、とジェルヴェーズは首を傾げた。
ヒントはどこに? と。
「――でも、この国も“深森の国”も成人は十六で、わたくしはもう十五を過ぎたのよ。成人までは一年もないわ」
「殿下もきっと、姫殿下が大切なのですよ。姫殿下はとても可愛らしいお方ですから。どうしても気になるのでしたら、話をしてみてはいかがでしょう」
結局諭されただけだった。
つまり、カーティスの父は、アルトゥールと同じタイプだということなのか……いや、もしかしたらもっと奥手なのかもしれない。何しろ、結婚したあとまでしばらく何もしなかったというし。
では、いったいいつどうやって、カーティスの母は夫と夫婦になったのだろう。今ここにカーティスの母がいれば、きっと教えを乞うことができたのに。
とても残念だ。
ジェルヴェーズは悶々と考えて……やはり一番有効と思われる「攻める」という手段を教えてくれたネリアーに、もう一度尋ねてみることに決めた。
「ネリアー、ちょっと来てちょうだい」
夜、ネリアーが部屋に下がる前を狙って声を掛ける。トーヴァが先に下がって、ネリアーがひとりになった一瞬を狙ってだ。
ここを外すと、ネリアーがひとりでいるタイミングはほとんど無い。
「姫殿下? 私は乙女のところへ行かなければならないのですが」
「ええ、わかってるわ。でも、少しだけ聞きたいことがあるの」
ネリアーはちらちらと扉に視線をやるが、それでもジェルヴェーズに言われては留まらないわけには行かない。
「しかたがありません。では、手短にお願いします」
侍女長のクレールが何か言いたげな顔をして後ろに控える。ネリアーが余計なことを言わないでくれますようにと、まるで祈るように。
「昼間、わたくしに“攻めればいい”と言ったことを覚えてるかしら?」
「ああ、何かと思えば、そのことでしたか」
いったい何事かと訝しむ表情は、すぐに笑みに変わる。
「アルトゥール殿下はどうやら素直になれない性質かと思われましたので、姫殿下からお誘いするのが手っ取り早いのではと考えた次第ですよ」
「誘い……」
ジェルヴェーズは目をまん丸に見開き、ごくりと喉を鳴らす。いつもならこんなはしたない真似はしないのに。
「それなら、誘うとか攻めるとかってどうやればいいのかしら」
「ああ、そういうことでしたか」
いったい何が引っかかっているのかと思えば、なるほど……と、ネリアーはしばし思案を巡らせる。
「姫殿下、少々お待ちいただけますか?」
「ええ」
何を思いついたのか、ネリアーは足早に部屋を出る。しばらく後、戻って来ると、手に一冊の書物を携えていた。
「姫殿下には、こちらを進呈いたしましょう」
「まあ。これは何の書物かしら?」
「乙女の所持する、女性に人気の物語ですよ。主人公の恋人が、アルトゥール殿下のような男性の話を選んでみました。参考になれば幸いです」
「では、これは恋物語なのね。これを読めば、オーリャ様をどう攻めてどう誘えばいいのかわかるということ?」
「はい。おひとりで読むのがよろしいと考えますが……ああ、けれど、もし読んでいてわからないことがあるようでしたら、殿下にお尋ねになることをお勧めします。きっと、しっかりと教えてくださるでしょう」
「まあ!」
書物を手渡して暇を告げると、ネリアーはそそくさと部屋を出ていった。
「あ、あの、姫様、そちらは……」
ジェルヴェーズは食い入るように書物の表紙を見つめている。
侍女長のクレールが、おずおずとジェルヴェーズに呼びかけるが、声は届いていないようだ。
「“令嬢の秘密レッスン”……ネリアーが言うには物語なのよね? でも、“レッスン”っていうことは、教本なのかしら?」
パラパラとめくってみると、やはり物語の形を取った教本のように読み取れた。きっと、大人の淑女が夫となった相手を「攻める」とか「誘う」とか、そういう時のためのノウハウが載っているのだろう。
「トーヴァったらずるいわ。こんな書物があるのに黙ってるなんて。もっと早く見せてくれれば良いのに」
「姫様……その書物は」
「教本みたいなのよ。これを読んでオーリャ様を攻めれば、きっとわたくしにキスをしてくださるってことね」
しっかりと書物を抱えるジェルヴェーズは、うれしそうに笑う。
クレールはどうにも言うべき言葉を見つけられず……しばし口籠って、結局は日和見に徹することに決めてしまった。
何しろ、相手はアルトゥールだ。キスをねだるくらいなら問題ないだろう。
それに、そろそろ閨のことを教える時期に来てもいた。小難しい説明より、こういう書物から入るのも悪くはないのではないか。
クレールは小さく吐息を漏らして、「姫様には、くれぐれも節度をお忘れなきよう」と言うだけに留めた。
今日は遅くなると、すでにアルトゥールからの連絡は入っている。これ幸いと自室にこもってさっそく、ジェルヴェーズは書物を読み始めた。
「まあ、やっぱり物語になっているのね」
主人公は少し気弱な伯爵令嬢だった。
歳の離れた婚約者と順調に距離を縮めていくものの、手すらほとんど握らない相手に主人公は悩みを募らせていくのだ。
自分に魅力がないから、婚約者はこうも素っ気ないのかと。
まるで自分とアルトゥールのようだと、ジェルヴェーズは夢中で読み進めていった。この主人公のように行動すれば、自分もうまくいくのではないか。
物語は半ばを過ぎて佳境に入り、主人公はとうとう自分から行動しようと決意した。やはり、今のジェルヴェーズのように、だ。
「まあ! まあ!」
けれど、行動とは具体的に何をするのか。
やっと肝心なところに辿り着いて、ジェルヴェーズはページを捲るのも文字を追うのももどかしく感じながら、先へと進む。
とうとう、主人公は逡巡を交えながらも自分から婚約者の手を握り、キスを求め……ジェルヴェーズは思わず喝采を挙げる。
「まあ! やっぱり、ちゃんと言わないとだめなのね!」
主人公の本気を見て取ったのか、婚約者もとうとう腹を決めたらしい。主人公の望みが叶い、ようやく婚約者も積極的に行動に出た。
愛を囁き、「本当は、ずっとこうしたかったのだ」と熱い抱擁とキスを交わし、主人公は感極まって涙を流した。
年齢がずっと上の婚約者は、主人公が若く美しい令嬢だから、ずっと気後れしていたのだと告白しながら、何度もキスを繰り返す。
本当は、いつもこうして愛を交わしたかった。けれど、自分のようないい歳の男が無碍に手折ってしまっていいのかと悩んでもいたのだと。
「まあ……まあ……!」
もしや、アルトゥールも同じように悩んでいるのだろうか。
この物語ほど離れてはいないものの、ジェルヴェーズは八つも歳下で、成人まではあと一年近く残している。アルトゥールも年齢の差を気にして、ジェルヴェーズにキスもできずにいるのだろうか。
「もう、オーリャ様ったら! わたくしは立派な大人の淑女になったのよ。気にすることなんて何もないのに」
そこからはあっという間だった。
ふたりの思いが通じ合い、物語はクライマックスへ。呆れるほどにたくさんのキスを交わしつつ、とうとうベッドインに至り……。
「――まあ。どうしましょう」
ジェルヴェーズの眉がぐぐぐと寄った。
物語の内容がさっぱりわからない。
「秘密のお花? 思いが叶うとお花が芽吹くものなの?」
どうも何かを暗示しているようなのだが、今ひとつわからない。何度か繰り返し読んでみるが、やっぱりわからない。
ひょっとして、成人しないとわからない暗号で書いてあるのだろうか。
「わからないことはオーリャ様に尋ねるようにってネリアーが言ってたのは、このことかしら? オーリャ様ならわかるってことよね?」
大人ってずるいと思いつつ、ジェルヴェーズは読み進めていく。せめて絵があればもっといろんなことがわかるはずなのに、とんだ落とし穴だ。
あとでネリアーに文句を言おう。
ふと、パタンと扉の閉じる音がかすかに聞こえた。
どうやらアルトゥールが帰って来たらしい。
いつの間にかずいぶん時間が過ぎていたのかと窓を見やって、それから……ジェルヴェーズはにんまり笑った。
そうだ、ネリアーの言うとおりだ。
この物語に大人の秘密があるなら、アルトゥールに教えてもらおう。ついでに、こういうものも読める大人なのだからとキスもねだってしまえ。
ジェルヴェーズはガウンを羽織ると、本を抱えてアルトゥールの部屋へと続く扉を開けた。





