絶対に助け出す
う、と掠れた声とともに、わずかな身じろぎをした。
「乙女」
ほっと安堵の吐息とともに笑みがこぼれて、もう一度キスをする。確かめるように、ネリアーのキスはどんどん深くなり……とうとうそれ応えるようにトーヴァが目を開けた。
深い水底を思わせる濃く鮮やかな青が、ネリアーのすぐ目の前で驚いたように数度瞬く。
「え?」
「乙女、目を覚ましてくださいましたね」
少しだけ唇を離してうっとり微笑み、ネリアーがさらにキスをする。
ひとしきりキスをされてようやく引き離すと、トーヴァは震える手でネリアーの顔を撫で回した。
「あっ、あのっ、ネリアー」
「はい、乙女」
「生きて……いたの?」
頷くネリアーに、わずかに目を潤ませたトーヴァは思い切り息を吐く。
「もちろんです。私があなたを置いてひとり死ぬなどあり得ません。よしんば避けられない死であった時には、必ずあなたも共に連れて行きますからね」
「それは……ちょっと……でも、生きてて、よかった」
ゆっくりと身体を起こして、トーヴァはしっかりとネリアーを抱き締めた。体温と、脈打つ心臓の音がとてもうれしい。
「ほんとうに、よかった」
もう一度思い切り抱き締めて……ネリアーがたしかに生きていると実感できるまでひたすら抱き締め続けて、トーヴァは立ち上がった。
「ネリアー、リュドミラ殿も連れて、ここから出ましょう」
ネリアーも、剣を杖になんとか立ち上がる。
「そうですね。あなたはそうおっしゃると思っていました」
「ネリアー?」
「私たちに彼女を起こすことはできませんし、今の私に彼女を運ぶことは少々厳しいですが、なんとかしましょう」
確認すると、魔紋は再び輝いていた。もう一度あれをどうにかしなければ、運び出すことも叶わない。
「乙女、少し待っていてください」
ネリアーは傍らの犬に命じて、魔紋へ向かわせる。今度も魔紋はその効果を発揮して、しばし輝きをなくした。
「犬が……」
トーヴァの呟きに応えず、ネリアーは次の呪文を唱えた。
現れたのは、ゴツゴツとした岩の塊のような土の精霊だ。土精はネリアーの指示に従って眠ったままのリュドミラを担ぎ上げる。
「乙女、それではこのままここを出ましょうか」
リュドミラを担ぐ土精に“透明化”の魔術を掛けて、ネリアーは歩き出した。足元の覚束ないようすにトーヴァは慌てて駆け寄ると、腕を回してしっかり支える。
「あれから、どのくらいの時間が経ったのかしら」
「外に出てみないとなんとも……日は暮れていそうですが」
「この格好で王宮を歩いていたら、見咎められそうだわ」
「たしかに……一度、魔術師寮に寄りましょう。まだ私の部屋がそのままですし、薬も置いてありますから」
外はもう深夜と言ってもいい時間だった。
主たる月も従たる月も天頂近くに昇っている。これならあまり目立たず移動できそうだと、少しほっとした。
一度だけ、あまりのひどい格好に魔術塔の入り口を守る警備兵から呼び止められたが、ネリアーの説明で納得したのか、すぐに解放された。
魔術師寮は、本来、魔術塔の対として建造された塔だ。
外観は魔術塔とそっくりだが、しかし、内部はかなり改装されている。ここに住む魔術師は二十に満たない数で、部屋の数にも余裕があるという。
ネリアーの部屋は上階で、一階層まるまるを使っているとのことだった。
リュドミラをベッドに置いて土精を返したとたん、ネリアーはとうとう限界を迎えたのか、長椅子に倒れこんだ。
「乙女、その戸棚から治癒薬を取っていただけますか?」
「ええ」
言われた戸棚を開けると、いくつもの小瓶が並んでいた。ラベルを確かめてひとつ手に取り、ネリアーのところへと戻る。
「これでいい?」
「はい……では、飲ませていただけますか?」
「じゃあ、少し身体を起こして……」
「口移しで、飲ませてはくれないのですか?」
「――え?」
寝転がったまま言われて、たちまちトーヴァの顔に血がのぼる。
「なっ、何を……」
「実はほんの少し動くだけで、身体中が痛むのですよ。ですから、口移しで飲ませていただきたいなと」
にっこりといつものように微笑むネリアーに、馬鹿なことを言うなと反射的に返そうとして……長衣についた血の跡が目に入ってしまった。
顔色もあまり良いとは言えない。
「今回、だけよ」
「乙女?」
「次は私も気をつけるし、あなたももう無茶なことをしないって約束するなら、今回だけは飲ませてあげる」
ネリアーはたちまち蕩けるような笑みを浮かべた。目を細めて、真っ赤になったトーヴァの頬をゆっくりと撫でる。
「約束しましょう、乙女。あなたに危険が及ばない限りは、ですが」
「――もう!」
トーヴァは少し乱暴に栓を開けた。
ひと息に中身をあおって覆いかぶさると、ネリアーの腕がしっかりとトーヴァを抱きとめた。
そのまま唇を合わせたトーヴァは、舌先でネリアーの口を開けさせる。
少しずつ含んだ薬を流し込んでいき……移し終えるのを待っていたかのようにネリアーの舌が差し込まれ、口内に残った薬を舐めとっていった。
「約束しましょう。あなたが死ぬ時には私も一緒ですし、私が死ぬ時にもあなたをひとりにはしません」
ネリアーがうっとりと囁いた。しかし、トーヴァは何が気に入らないのか、顔を思い切り顰めて首を振る。
「そういうのも、だめよ」
「なぜです?」
「私の母なら絶対こう言うもの。“ふたりで死ぬことを考える前に、ふたりで生きる方法を勝ち取れ”って。私も、そのほうがずっといいわ」
そんな言葉を返されるなんて、ネリアーは思ってもみなかったらしい。驚きに目を丸くして、けれど、すぐに破顔する。
「ええ……そうですね。あなたがそう望むなら、いついかなる時も必ずふたりで生きる方法を勝ち取りましょうか」
「ええ、そうしましょう」
窓の外を、コツンコツンと叩くものがいる。
すぐにカーティスが確認すると、小さなコウモリだった。
薄く窓を開けると、コウモリは迷わずカーティスの手に止まり、トーヴァの声で「魔術師寮に泊まる」と伝言を述べ始めた。
「カーティス、今の、なあに?」
下ろした天幕の向こう側から、ジェルヴェーズが尋ねる。襲撃の後ということもあり、未だ眠れずにいたのだろう。
「申し訳ありません、起こしてしまいましたか? 今のコウモリは“伝令”です。トーヴァからのメッセージを運んでくれたのですよ」
「“伝令”……トーヴァからの?」
ジェルヴェーズが声を弾ませる。うれしさのあまり天幕の中から飛び出してくるのではないかと、カーティスが少し焦るくらいの声だ。
「姫殿下にはたいへんご心配をおかけしました。トーヴァとネリアーはふたりとも無事で、今夜は魔術師寮に留まるそうです」
「ほんとう? ふたりとも、ほんとうに無事なのね? でも、魔術師寮に留まるって、どうして?」
「何か理由があるようですが、“伝令”には託せないものなのでしょう。明日、早朝に戻るので、報告はそれからするとのことです。
ですから、姫殿下。もう安心してお休みください。今夜は私がここで不寝番をしますし、大丈夫ですよ」
「ええ……ふたりが無事で、ほんとうによかったわ」
ようやく安心して気が緩んだのか、ジェルヴェーズはごそごそとシーツをたぐり寄せるとすぐに寝息を立て始めた。
カーティスはその気配を確認して、剣を手にしたまま窓際の椅子に座った。
翌朝、メッセージどおり、トーヴァとネリアーは夜が明けてすぐ、離宮に戻ってきた。大きな長櫃を土精に運ばせて、だ。
「トーヴァ、ネリアー!」
いつもよりずっと早起きしたジェルヴェーズが駆け寄ってくる。
「心配したのよ。何も連絡がないのに、夜になっても戻ってこないのだもの」
「申し訳ありません、姫様。それについては、後ほどゆっくりご説明します」
トーヴァはぎゅうと抱き着くジェルヴェーズを、やさしく抱き締め返した。
それから、そっと長椅子に座らせる。
「姫殿下、まずはこちらをご覧ください」
ネリアーに命じられて、土精がゆっくりと長櫃の蓋を持ち上げた。中を覗き込んだジェルヴェーズが驚きに息を呑み、トーヴァを振り返る。
「トーヴァ、この方、もしかして……」
「はい、リュドミラ殿です」
長櫃の中には、毛布に包まったリュドミラが眠っていた。
「では、このリュドミラは魔術で眠らされていて、放っておけば永遠にこのまま目が覚めないのね?」
「そのとおりです、姫殿下。しかも、目を覚まさせるためには、彼女を愛するもののキスが必要です」
「なら、リュドミラの婚約者を呼べばいいわ。近衛騎士のルスランを」
さっさと目覚めさせて洗いざらい話させなくてはとジェルヴェーズは息を巻いて、けれど、とネリアーを見返した。
「それじゃ、あの偽物のそばにいるリュドミラは何者なの? あれもアルトゥール殿下のように偽物ということ?」
「こちらが本物のリュドミラ殿なら、そういうことになりますね」
ジェルヴェーズはむむむと考え込む。
こうも偽物ばかりとは、いったいどうなっているのだろうか。
「時に姫殿下」
「なあに?」
「昨夜、姫殿下をお助けしたというこの“誘い火”ですが、どうやら光精ではなく光霊ですね。少々光がくすんでおりますが」
「そうなの?」
ジェルヴェーズは、昨夜からずっと自分について回る光の玉へ目を向けた。けれど、光精ではなく光霊だと言われても、違いがよくわからない。
「はい。光精とは、意思のない精霊未満のものです。このように誰かに“懐く”ということはあり得ません。雷や嵐が人に懐かないのと同様に、です」
「まあ!」
「ですが、光霊でしたら納得はいきますよ。
光霊というのは、死後、魂が神々の御許である“十天国界”へ昇る時の姿ですから、意思のようなものも持っているはずですし」
ジェルヴェーズは、感心したように、光霊だという光を見つめる。
ネリアーの話は少し難しい。だが、これが光霊なら、自分が好かれていると感じられたのは気のせいではなかったようだ。
「ただ、本来なら天上に昇るはずの魂がなぜここに……という疑問は残りますが……いえ、少しお待ちください」
きょとんと頷くジェルヴェーズのそばをふわふわ漂う光に向かって、ネリアーはいくつかの呪文を唱えた。
しばしの間じっと光霊を観察して、ネリアーは大きく目を見開いた。
「――驚きました」
「どういうこと?」
なぜ驚くのかと、ジェルヴェーズが首を傾げる。トーヴァやカーティスも、いったい何がとネリアーの言葉を待つ。
「この光霊には“銀の緒”がついています」
「シルバーコード? 銀の紐が付いているってこと? でも何も見えないわ」
「ネリアー、それってまさか……」
やっぱり意味がわからず、ジェルヴェーズは不思議そうにネリアーと光霊を見比べている。
トーヴァとカーティスにはネリアーの言葉の意味がわかったのか、驚きに目を瞠ってまじまじと光霊を見つめている。
「ええ。これはまだ生きている者の魂ですね。
身体を見失い、戻れなくなったということでしょうか。この城内か、もしくはこの地域に目覚めなくなった者がいるはずですが……」
ジェルヴェーズは思わず傍らで眠ったままのリュドミラを見た。目覚めない者なら、ここにもいるのではないかと。
「ネリアー、なら、この光霊はリュドミラってことかしら?」
「いえ、違います。少なくとも、コードはリュドミラ殿の身体に繋がってはいません。これは違う者の魂でしょう。
けれど、誰のものかまではさすがにわかりません。何しろ、個々の魂を見分ける方法などありませんので」
「そう……」
たしかに、リュドミラの魂にはジェルヴェーズを助ける理由がない。
残念そうに眉を寄せるジェルヴェーズに、トーヴァは「まずは殿下のことが先ですよ」と声をかける。
「リュドミラ殿が目を覚ませば、何があったのかもう少し詳しくわかるでしょう。きっと、本物のアルトゥール殿下の手がかりも掴めるはずです」
「そうね……」
ジェルヴェーズはじっと考える。
昨夜襲われてから、ずっと考えていたことだ。
そろそろ、自分だけの手には余る事態になっているのではないか。
ジェルヴェーズを襲い、魔術塔地下で何かを企んでいることも知られて、このまま偽物が鳴りを潜めたままでいるだろうか。
「カーティス、戦神教会の高司祭を呼んでちょうだい。ルスランの呪いを解いてリュドミラを起こしたら、ふたりから話を聞き出して。
ネリアーとトーヴァは、殿下とリュドミラふたりの偽物が何者なのか、調べられるだけ調べて。今日中によ」
「わかりました」
「クレール、国王陛下と王太子殿下に、面会を申し出てちょうだい。できれば今日中に、おふたりだけに内密に、直接話したいことがあると」
「はい、姫様」
ジェルヴェーズはぎゅっと手を握り締める。
あの偽物は、アルトゥールの姿を借りるだけでなく、自分を“魔導師”の後継であるかのように振る舞ったのだ。
絶対に許せない。
「わたくしは必ずオーリャ様を助けるの。だから、わたくしはわたくしにしかできないことをするわ。オーリャ様の名誉も守ってみせる」
【魔術師協会のFAQより】
Q:なんで時留めの眠りの解除は対象を愛する者のキスなんですか
A:呪文開発者の趣味
Q:対象を愛する者が見つからない時はどうすればいいですか
A:諦めろ(※ディスペルでもいちおう可)





