返せ
自分のせいだ。
ここは、かつて“魔導師”を名乗った魔術師たちの作り上げた本拠地なのに、注意を怠ってしまった自分のせいなのだ。
気休め程度の初歩の初歩でしかない癒しの魔術を何度もかける。これだけの血を吐いているのだ。内臓のどこかに傷を受けたのかもしれない。
手先が器用でちょっとした魔法が使えて、戦いもそこそここなせて伝承に一家言あって……文字通りただの“器用貧乏”な自分には、それが精一杯だった。それ以上のことなんて、何もできない。
「ネリアー……」
ネリアーは水妖に近いのか人間に近いのか……今、どうすればネリアーが助かるのか、それすらもわからない。
義姉のように、医術の心得があればよかったのに。伯父のような高司祭なら、蘇生の奇跡だって降ろしてもらえるのに。
――いや、アンバーの“お願い”が自由に使えれば、こんな事態そのものが起こらなかったのに。
ふと、魔法の気配を感じて、ネリアーを抱き寄せた。いったい何がと身構えるトーヴァの目の前に、突然湧き出るように人影が現れて……。
「アルトゥール、殿下……?」
魔術師の長衣を纏ったアルトゥールが、トーヴァの目の前に立っていた。
「どうやって……転移封じがあるはずなのに」
アルトゥールは明らかに転移魔術を使って現れた。
この塔は、もちろん王宮の敷地に建っている。王宮内では、あらゆる転移が封じられているはずなのだ。魔術による不審者の侵入を防ぐために。
だから、転移魔術を使ってここに現れるなんて無理なのだ。なのに、アルトゥールはどうやってここに現れた?
アルトゥールが口の端を歪めて、蔑むような笑みを浮かべた。
「やはり魔術師でもない下等な人間か。己が前にしている者の偉大さにも気付かんとは、呆れたものだ」
アルトゥールはいったい何を言いだしているのか。トーヴァはただただ呆然とするばかりだ。
「ここはもともと何だと思っている? ここは偉大なる魔導師のための宮殿であろうが。魔導師の資格なき者が自由に振る舞える道理などないわ」
「――え?」
「私は少々腹を立てているのだよ、娘。あの魔力のかけらも感じない小娘が私の邪魔ばかりするので、予定は遅れ始めている。おまけに、この魔紋に掛かったほうが精霊もどきだったというのはますます腹立たしい。せっかくの魔力源が、勿体無いことをした」
「殿下……何を、おっしゃっているんです?」
じろりとトーヴァを睨んで、アルトゥールは片眉を跳ね上げた。
「ああ、たしかお前は……そう、この男の記録によれば、北方のストーミアン王家の血筋だったな。竜の末裔とやらの」
ふむ、とアルトゥールは何かを考えるように顎を撫でる。
「まあいい。たしかに多少の魔法も使えるのであれば、まったくのハズレでもあるまい。お前だけでも有効活用させてもらおうか」
このアルトゥールはいったい何なのか。
この、傲岸不遜な振る舞いは、ジェルヴェーズに会うため“深森の国”を訪れたアルトゥールとは違いすぎる。たしかにこれは、別人に違いない。
どこか半信半疑であったジェルヴェーズの主張が、確信に変わる。
無造作に伸ばされたアルトゥールの手から、トーヴァはネリアーを隠すように身を捩った。だが、手は真っ直ぐにトーヴァを捉える。
「“混沌の海にたゆたいし力よ。この者の時を止めよ”」
トーヴァは「あ」と小さく声を上げる。それは、たしか、あの“麗しき茨森の姫君”を百年の眠りに落とした魔術で……。
そこまで考えたところで、トーヴァの意識は暗転した。
「カーティス、トーヴァを探しに行かないって、どうして!?」
とっくに塔を出て帰ったはずだと返された。
なのに、トーヴァもネリアーも、未だ姿を表さない。
ジェルヴェーズは、すぐさまカーティスに塔へふたりを探しに行くようにと命じたのに、カーティスはそれを拒否したのだ。
トーヴァはカーティスの従姉でもあるのに、なぜなのか。
「今、もっとも優先すべきは姫殿下のお身柄です」
「でも、絶対ふたりに何かあったのよ? 今すぐ探せばきっと無事なのよ?」
「それでもです、姫殿下。ふたりに何かあったとすれば、それはこちらが動いていると確実に知られたということです。
ならば、次は姫殿下を狙うでしょう」
「でも、カーティス!」
「今、私が姫殿下のそばを離れることはできません」
きっぱりと首を振るカーティスに、ジェルヴェーズはギリギリと歯を食い縛る。ふたりともジェルヴェーズの命で動いていたのだ。何かあったなら、それはジェルヴェーズの責任なのだ。
「でも、もしふたりが帰ってこれないのだとしたら……」
「大丈夫ですよ、姫殿下。私の従妹は強運に恵まれているんです」
「そんなの、気休めだわ」
「今は少々時間が掛かっているだけですよ」
「でも、カーティス」
「いけません。
私は姫殿下の護衛の任を賜ったのですよ。今、私が一番に考えなければならないのは姫殿下の安全です。どうかお聞き分けください」
ジェルヴェーズは悔しそうに唇を噛んで顔を俯ける。わかった、と絞り出すような声で頷いて立ち上がった。
ここが“深森の国”であれば、ジェルヴェーズはたくさんの人を動かして、すぐにでもトーヴァとネリアーを探させることはできたのに。
今、この国でジェルヴェーズが命じて動かせるのは、たったの六人しかいない。しかも、そのうちのふたりの行方が、今、わからない。
「わたくし、もう寝るわ。何かあったら起こして」
「はい、姫殿下。では、私は扉のすぐ外に待機しております」
一緒に寝室に入ったアンヌが寝着に着替えさせて退出するまで、ジェルヴェーズはひと言も喋らなかった。いつもなら他愛ないお喋りをするのに、今日はとてもそんな気分になれなかった。
トーヴァとネリアーが無事ならいいけれど。
ジェルヴェーズは小さく溜息を吐く。
カーテン越しに透ける月明かりに目をやって、それからベッドに入ろうとして……ジェルヴェーズは急に感じた人の気配に顔を上げた。
部屋の中に、誰かがいる。
「誰!?」
反射的に誰何して、それが誰かに気付いてジェルヴェーズは困惑する。
「アルトゥール殿下……?」
部屋の、影の濃い片隅にいたのはアルトゥールだった。
ジェルヴェーズは、一瞬、どちらのアルトゥールだろうと考える。
だが、その顔に浮かんだ笑みで、すぐに彼が本物はないとわかった。ジェルヴェーズは傍らのテーブルに置いた護剣へ手を伸ばす。
「婚約者が訪ねてきたというのに、あなたは剣を向けるのですか?」
「わたくしはまだ成年を迎えてないもの。それに、婚姻の儀も済んでいないのに淑女の寝室を訪れるなんて……そんな不埒な真似、許されないわ」
アルトゥールは小馬鹿にするように口角を吊り上げた。
「誰が誰に許しを乞うのです? この離宮の主人は私だというのに」
「それは……」
「あの聖騎士だって、今は何の役にも立たないのに、どうするのです?」
扉に目をやって、ジェルヴェーズは息を呑む。扉ともども、壁が一面に凍り付いていた。これではカーティスを呼べない。
「どうして……」
「魔術というのは本当に素晴らしい力だ。
それを使うどころか理解できないほどの下等な人間など、我らに仕える程度の役にしか立たないというのに、何を勘違いしているのか。
我らに成り代わろうなどと……だから、再度、我らの偉大さを思い知らせてやる必要があるのだよ」
陶酔を滲ませるアルトゥールの言葉に、ジェルヴェーズの顔から血が引く。
それは、まるで……まるで、いつかトーヴァが話してくれた“魔導師”が語ったような言葉ではないか。
「――お前、誰なの。なぜ、アルトゥール殿下の姿をしているの」
カタカタと震える手で、ジェルヴェーズは護剣を抜いた。ぼんやりと光を帯びた刀身が、ジェルヴェーズの周りを照らす。
アルトゥールは目を細め、ふん、と嘲笑を浮かべる。
「それで私を刺すと? 魔術を理解すらできぬ女には、その程度の行動しか取れぬということか」
「本物のアルトゥール殿下は……オーリャ様は、どこにいるの」
くっくっと楽しそうに笑って、アルトゥールは一歩前に歩み出る。
「異な事を。目の前にいるではないか」
「違うわ! 本物のオーリャ様のことよ!」
ゆっくりと近づくアルトゥールに、ジェルヴェーズは震える剣先を向けた。こんなにアルトゥールに似ているのに、やはりアルトゥールではない。
指が白くなるほどに剣の柄を握り締めて、ジェルヴェーズはうっすらと涙の滲んだ目でアルトゥールを睨む。
「ねえ、それ以上、近づかないでくれるかしら?」
不意に声がして、ジェルヴェーズの周囲を風が舞った。
ふわりと姿を現したアンバーが、ジェルヴェーズの前に立つ。
「ランタン」
が、アルトゥールの声に応えて火蜥蜴も姿を現した。しゅうしゅうと焦げ臭い煙を吐くランタンは、間髪入れずにアンバーへと襲い掛かる。
「アンバー!」
チ、と舌打ちをしてアンバーは風で絡め取ろうとするが、ランタンは炎を吐いてそれに対抗する。
その隙に一気に距離を詰めたアルトゥールが、ジェルヴェーズを抑え込もうと手を伸ばした。とっさに斬りつけようと構えるジェルヴェーズに、アルトゥールは嘲りだけを返す。
「お前が私を斬れば、“本物のアルトゥール”とやらが死ぬことになるが……よいのか? お前は“本物のアルトゥール”を助けたいのだろう?」
びくりと肩を揺らして、ジェルヴェーズは思わず剣を引いてしまった。
偽物なんて殺してしまいたいくらいなのに、本物のアルトゥールを盾に取られては、それもできない。
「オーリャ様をどこに隠したの」
中の騒ぎに気付いたカーティスが、ジェルヴェーズを呼んで扉を叩いている。扉が開かないのは、きっと凍り付いているせいだろう。
「オーリャ様を返して」
アルトゥールの手が、ジェルヴェーズの首を捉えた。そのままベッドに押さえつけて、顔を寄せる。
「“深森の国”のフォーレイ王家は、ストーミアンとも縁続きだという」
「それが、どうか、したというの」
締めるほどに力を入れてはいないが、それでもとても息苦しい。
「つまり、お前にもほんのわずか竜の血が混じっているということだ」
「だから、それがどうだというの?」
「生まれながらにその体内に魔力を貯める“魔法使い”がどうやって生まれるか、未だ謎は多く、わかっていることは少ない。
だが、“悪魔混じり”や竜の末裔に多く生まれることは確実だ」
腕と首を押さえ込み、アルトゥールはさらに顔を寄せて囁いた。
「それらを掛け合わせれば、より強い力を持つ魔法使いが生まれると考えるのは、とても自然だろう?」
にたりと笑うアルトゥールの表情は、やはり本物とは似ても似つかない。
本物のアルトゥールに、会いたい。
「つまり、わたくしに魔法使いを産ませようとでも考えているのかしら」
ドン、ドン、と壁を揺らすほどの激しい音は、カーティスが体当たりをしているのだろうか。なら、ジェルヴェーズは時間を稼がなきゃいけない。
こいつから少しでも多くの言葉を引き出して、少しでも多くの手掛かりを得て、なんとしてもアルトゥールを助けないと。
「いったい誰とわたくしをつがわせようというの。それに、わたくしに魔法の才はないわ。あればとっくに、お前のことなど黒焦げにしているわよ」
ふふんと笑って、ジェルヴェーズは目を眇める。
「そもそも、誕生と死は神々の手の中にあるものなのよ。魔術師ふぜいが神々を超えようなんて、とてつもない不遜だわ」
「――小娘!」
アルトゥールの手に力がこもる。息ができない。
「わたくし……お前なんかに、負けないんだから……わたくしは、オーリャ様を……助けて、みせる……」
突然、窓がパンと音を立てて割れた。
アルトゥールの手が緩み、ジェルヴェーズは渾身の力で腕を払う。
「小娘が!」
ふたたび掴み掛かろうとするアルトゥールとジェルヴェーズの間に、何かがするりと入り込んだ。まばゆい光とバチバチと弾けるような音に、アルトゥールがくぐもった悲鳴を上げる。
同時に、ようやく扉を破ったカーティスが転がり込んだ。氷壁の魔術を越えたおかげで身体のあちこちに霜をまとわりつかせてはいるが、油断なく剣を身構える。
「姫殿下、ご無事ですか!」
「わたくしは平気! カーティス、こいつを捕らえて!」
カーティスは無言でアルトゥールへと斬りかかった。だが、アルトゥールはどうやってかその斬撃をするりと避けてしまう。
「次元……転移は、封じられているはずだ」
今、アルトゥールは明らかに超短距離の転移魔術を使ってカーティスの一撃を避けていた。この王宮の中で、転移魔術は使えないはずなのに。
「貴様は、何者だ」
カーティスは油断なく身構え、アルトゥールに剣を向ける。高位の魔術師を相手にするなら、間合いを詰められなければ勝ち目はない。
次こそは逃さないと、カーティスはじっくりと隙を伺う。
アルトゥールは答えず、忌々しげにジェルヴェーズを睨み付けた。しかし、何か言葉を発することもなく……無言のまま、姿を消してしまった。
一言メモ:大抵の魔術師は「魔術は神の奇跡を超えられねんだよバーカバーカ」でブチ切れる。





