少しずつ進め
トーヴァはさっそくネリアーと共に魔術師協会の書庫を訪れていた。
協会員になるには一応の身元調査や審査もあるはずなのだが、そこはネリアーがどうにかしたらしい。もっとも、トーヴァの身元だけなら、ジェルヴェーズの側付でもあることで問題はないのだが。
「さあ、乙女。こちらです」
書庫の入り口には、司書がわりの人造生命体がいる。そのホムンクルスに名前と所属を告げる……というのが、利用時の決まりらしい。
トーヴァは、書庫の奥へと向かうネリアーの後に続く。
「この書庫には、基本的に封印の必要がない一般的な魔術書や技術書と、協会に関する記録が置かれています。一応、記録は奥の扉がある書棚に、一般的とはいえ重要な魔術書や呪文書は閉架にと定められていますが。
危険な魔術書や魔導書は、地下倉庫に封印されているんですよ」
「そうなんですか」
天井まである高い書棚にびっしりと並ぶ分厚い本を眺めて、トーヴァは心が浮き立つのを感じる。詩人としての好奇心がむくむくと膨れ上がって、すべてに目を通したいと考えてしまう。
が。
「乙女」
「ひっ!」
目を輝かせて書棚に見入るトーヴァを、ネリアーが背後から抱き締めた。
びくんと背が伸びて、おそるおそる首だけで振り向くと、すぐそばにネリアーの顔があった。
「ここまでご案内したのですから、ご褒美をください」
「え、え、あ、ご褒美……でも」
「今ここには私と乙女だけです。だから、いいでしょう?」
「いや、しかし、ここは書庫ですし」
「今すぐご褒美のキスをください。約束したでしょう?」
ぐ、と言葉に詰まる。トーヴァが約束という言葉に弱いのは、たぶん、母の“誓いや約束は守らねばならない”という教育のせいだろう。
「わ、わかりました。では、奥で……」
それでも、入り口近くとか人目に付きそうな場所は勘弁と、ネリアーの手を引いて奥へと向かった。
立ち並ぶ書棚の間、壁際の奥まった場所まで来ると、トーヴァは大きく数回、深呼吸をした。それから覚悟を決めたかのようにくるりと振り向いて、「少し屈んでもらえませんか」と囁く。
この地域では小柄なほうに入るトーヴァでは、背伸びをしても届かない。
「はい」
甘く蕩けるような笑みのネリアーが書棚に手をついて、上から覆いかぶさるように腰を屈める。
その首に腕を回して、目を瞑ったトーヴァはひと息に唇を押し当てた。ほんのり湿ってひんやりとした感触を、しっかりと唇に感じたところで離れようとして……いつの間にかがっちりと背中を抱えられていることに気づく。
慌てて開いた目の前には、淡い青の目が笑んでいた。いつもは縦に細くなっている瞳孔も、太く丸くなっている。
「ん、なっ」
なんで、と言おうとした唇の隙間から、ぬるりと舌が侵入した。やめろという言葉が発せず、トーヴァはただひたすら、ネリアーの背を叩くだけだ。
ひとしきり蹂躙されて、ようやく離れたところでネリアーを突き飛ばし、袖でぐいと唇を拭った。
「キスするだけで、なんで!」
「ええ、キスだけでしたよ?」
怒りにかっと顔に血をのぼらせたトーヴァは、二の句を告げられずに口をぱくぱく動かすだけだ。
「だっ、それでなんでいきなりあんな……!」
「乙女の唇があまりに甘くて、離れられませんでした」
「なっ、なっ、何を……」
「あなたは芳しいだけでなく、とても甘く深い味わいですね」
「ふっ、深いって、いったい――」
「乙女、こちらが目録です」
ネリアーは頓着することなく、すぐそばの書架の扉を開けると、そこに納められた中から、羊皮紙を綴じて簡単に装丁した冊子を選んで差し出した。トーヴァは思い切り顰め面になって受けとると、内容をパラパラと確認した。
思っていたよりも数が多いことに、思わず溜息が出る。
「どうでもいいものは除外して、用途が明らかなものも除外して……」
「乙女」
「ひっ」
いきなり耳元で呼び掛けられた。
いつの間にかすぐ傍らにネリアーがいたことに、慌ててしまう。
「い、いつの間に……」
くすりと笑って、ネリアーはトーヴァの腰を抱き、閲覧用の机を示す。
「書き写すならこちらで。私もお手伝いしましょう」
「あ、はい……」
手を払い、身体を離し……どんなに追いやろうとしても柳に風の如くさらりと受け流されてしまう。結局くっつかれたまま、どうしていいかわからない。
こんな調子で、アルトゥールの問題を見つけ出すことはできるのだろうか。
目録と羊皮紙を広げてペンを取ったトーヴァの横に、ぺたりと張り付くようにネリアーが座る。
はっきり言って鬱陶しい。溜息しか出ない。
離宮には多くの使用人が働いているが、直接ジェルヴェーズに関わるのは、母国から付いてきたクレール、アンヌ、ベルティーユの三人だ。
“朱の国”側の使用人は、この三人以外である。
アルトゥールが移る以前からこの離宮の管理を任されているのは、家令と使用人頭だ。彼らが使用人たちを取りまとめ、離宮での雑務をこなしている。
――アルトゥールが移る前は本宮からの指示に従って、アルトゥールが移ってからはアルトゥールの指示に従って。
侍女たち三人とトーヴァ、それから新たに取り立てたカーティスとネリアーがジェルヴェーズの直属、それ以外がアルトゥールの直属というわけだ。
「やはり、殿下の噂話を聞き出すとなると、離宮では難しいですわね」
ジェルヴェーズの髪をゆっくりと梳きながら、アンヌが小声で報告する。ジェルヴェーズはやっぱりねと小さく吐息を漏らす。
「自分の仕える主人の噂話になってしまうものね。本宮を当たるしかないわ」
「ええ……本宮で働くものは多いですし」
「そうね、なんとかお前たちには本宮へのお使いを捻り出しましょう。
そう、わたくし、お茶会を開こうと思うの。王太子妃殿下とレオニーダ・レイラ様をお招きして。いつまでも待っているだけではしかたないもの」
ジェルヴェーズはじっと考える。
「“深森の国”風のお菓子を用意して……あちらから持ち込んだお茶もあるわね? わたくしが、こちらのことを教えていただきつつ親睦を深めたいという名目で。そうそう、オーリャ様には姉君もいらっしゃったわね」
「はい。テリヴィスカ侯爵家に降嫁された、ナターシャ・ドミニカ様が」
「ナターシャ・ドミニカ様も招待いたしましょう。わたくしは新参者ですから、これから仲良くしていただなくてはならないもの」
第二王子の婚約者とはいえ、ジェルヴェーズは未だ成人前だ。おおっぴらに社交界へ顔を出すわけにはいかない。だから、あくまでも王族筋の身内に教えを請うという形で、あれこれ話を聞き出すのだ。まだ十四というジェルヴェーズの年齢も、きっと武器になるだろう。
「では、妃殿下方の都合を確認して、日取りを決めましょう」
「ええ」
夕食の少し前になって、ようやくトーヴァとネリアーが離宮に戻った。
まずは夕食を済ませ、落ち着いたところでジェルヴェーズの居室で調べたあれこれを報告する。
アルトゥールは、どうやら今夜も塔にいるらしい。
「アルトゥール殿下は、いったい何をしているのかしら」
いったい塔で何をしているのか。
それに、こうも毎日毎日帰りもせず塔に入り浸られてるのでは、さすがに相手が偽物だとしてもおもしろくない。
「これじゃ、わたくしが何て噂されるかわかったものじゃないわ」
だから早く本物を見つけなきゃ、と、ジェルヴェーズは改めて決意する。
「ネリアーの協力で、“魔導師の遺産”のうち、強い魔力を帯びたものをリストから書き出しました」
トーヴァは、目録から羊皮紙に抜き書きしたものを眺めながら話し始める。
「何かわかったの?」
「それが……さすがに、記述だけでどれがどういうものかまで断言はできないものですが……その、怪しいものがなかったんです」
「まあ。なら、“遺産”は問題ないということではないの?」
トーヴァは、感じた違和感をどう説明しようかとしばし考える。
たしかに、怪しいものはなかった。だけど、こんな当たり障りのないどうでもいい魔道具を、わざわざ塔の地下に隠すだろうか。
「ええと……これは私個人の見解ではあるのですが、本当にまずいものは隠されてしまったのではないかと」
「――どういうこと?」
「目録を見る限り、こんなものを隠しておくなんて、と思うものばかりなんです。もちろん“魔道具”というだけで価値はありますから、隠すこと自体に問題はないかもしれません。けれど……」
トーヴァはちらりとネリアーを見た。ネリアーがにっこりと微笑み返す。
「姫殿下、あの塔は、かつて“暁の国”の研究施設として利用されていました。その、魔導師たちの研究施設にわざわざ隠し部屋を作って納めておくには物足りない品ばかりだと、乙女は考えているのです」
「――宝物庫に、価値のない濁った水晶をダイヤモンドのような扱いで納めていた、ということかしら」
「はい。私も乙女と確認しましたが、たしかにすべてがたいした力を持たない、それこそふつうに手に入るものばかりでしたね。いっそ、不自然なくらいに。
二年前、私が調査に駆り出された際には、もう少し危険なものが混じっていたように思うのですが」
ネリアーが肩を竦めると、ジェルヴェーズが興味津々という表情になって身を乗り出した。
「それは、誰かが改竄したっていうこと? 危険なものをそうでないように見せて、手元に置くために」
「かもしれないですね」
「アルトゥール殿下の可能性が高いのね?」
ジェルヴェーズが声を潜めて確認する。
ネリアーが、然もありなんと両手を挙げてみせた。
「当時、調査を取りまとめていたのは殿下です。
協会長兼魔術師長のサルティニヤ公は、調査の少し前から体調を崩し気味でしたから。それを理由に、殿下に執務の引継ぎを始めた頃でもありますよ」
「そんなの……ねえ、ネリアー。じゃあ、悪魔が潜む魔道具に触れたオーリャ様が、悪魔に取って代わられてしまったってこと?」
「可能性というレベルなら、あるでしょうね」
「では、その魔道具が何かを突き止めれば、オーリャ様を助けられるわね?」
真剣な表情で答えを促すジェルヴェーズに、しかし、ネリアーは「さあ、どうでしょうか?」と肩を竦めた。





