イオ、ソープに体験入店する(最終パート)
「やあ、来ましたね」
「そりゃ来るさ。役得だろ、こういうのは」
ドモンと同僚のサイは、人混み多い色街へと繰り出していた。無論、仕事である。憲兵団でも珍しく有能で真面目なサイは、こうした内偵調査をよく担当する。もちろん、彼も完全なる堅物というわけでもないので、そうした役得は誰かとわかちあおうとするのだ。なんたる善行か。そして、その善行のおこぼれに最も多くあずかってきたのがドモンであった。
「じゃ、行きましょうか」
「ああ。これ、捜査費だ。……くすねるなよ。ちゃんと中に入って娼婦を買えよ」
渡された金貨を、懐から出した財布にしまいながら、ドモンはへらへら笑った。
「そりゃ僕は金は好きですけど、そっちのほうが得に決まってるじゃないですか」
今日は二人は剣こそ帯びているが、ラフな私服である。灰色の着流しという地味なドモンに比べ、サイは涼しげな縦縞柄の着流しである。人混みに色とりどりの魔導式ランプ、手を引いてくる娼館の従業員達。それらのごみごみした様子を楽しむのもまた、乙なものである。
「さて、ついたな」
グリーン・プレイスの前で、サイは立ち止まる。ドモンがふとあたりを見回すと、フードを目深に被ったフィリュネと視線が合う。彼女は頷くと、指を差した。彼女の差した指の方向を見ると、忘れもしない顔──ザインの姿があった。彼はグリーン・プレイスの裏口のある方の暗がりから明るい通りへと顔を出すと、人混みの波へと自ら飛び込んでいく。
「ドモン。こっちだ。お前も選べよ」
娼館のシステムは様々ある。格子窓から娼婦・男娼を指名する方式、掲示された目元を隠した似顔絵から選ぶ方式。ごく一部の高級店であるが、完全に従業員に任せるといった方式も存在する。指名の際に今晩の遊び相手が露出しないほど、信頼ある店であるというのが定説である。それ即ち、色街自体の信頼度、安心度につながっているのだ。もちろん、逆もしかりである。
「旦那様がた、今晩はお遊びでございますか。それともお泊りで」
にこにこと従業員が腰低く訪ねてくるのを、サイは笑顔で返しながら掲示板の前で悩んでいた。グリーン・プレイスは目元を隠した似顔絵を掲示し、そこから相手を選ぶ──若干博打要素の絡む方式である。
「泊まりで頼むよ。……ドモン、お前はどうする?」
「僕は妹がうるさいんで、遊びにしておきますよ」
「ドモン、ホントにいいのかよ? せっかくの機会だろ?」
サイの言葉に頭を振ると、ドモンもまた掲示板に目を落とした。選べるのは男娼を含め二十名程だ。名前が書いていない。得てして娼館という場所では、同じような化粧を施し、着ているものも制服めいて似通う場合が多い。せいぜいが、生まれ持った肌や髪の色で判別するくらいしか無いのだ。もちろん、それすら嘘である可能性すらある。
「どうするかな。せっかくだから、ナンバーワンのメイと遊びたいところだがなあ」
「あいすいません。今日は既に予約が」
従業員は申し訳無さそうにサイへ頭を下げた。彼もその程度織り込み済み、いわばこれは彼が探りを入れたのである。マーカスがここに巣食うようになってから、メイが店に出る日は限られているのだ。つまり今日は、マーカスとメイは一緒に過ごしている。そのほうが、サイの内偵調査には都合が良い。そして、ドモンにとってもそれは同じだ。
「そうなのか。じゃあ、この栗色の髪の子は」
「イオリでございますね。まだ新人ですが、良い子ですよ」
ドモンはサイの言いように慌てて肩を掴み言った。これでは初っ端から台無しである!
「ちょ、ちょっと。ちょっと待って下さいよ」
「なんだよ」
「その子、僕もいいなあって思ってたんですよ。それに新人だって言うじゃありませんか。……ねえ。そそるじゃありませんか」
「はあ?」
「とにかく! 今回は譲って下さいよ……久々なんですから」
サイはしばらくううんと唸った後、仕方ないなと苦笑し、別の娼婦を選んだ。イオがまかり間違って、誰か別の客に買われでもしたら断罪は成立しない。
「じゃ、ドモン。楽しんでこいよ」
「君も」
サイは二階の部屋に案内され、ドモンは一階の部屋であった。階段際で分かれると、ドモンは別の従業員が指示した部屋へと滑りこむ。
「来ましたよ」
「いらっしゃァ~い」
イオは恐らくは店から支給されたのであろう、なんとも派手で際どい襦袢を身にまとい、一心不乱に桶の中の液体をかき混ぜていた。さながら鶏の卵をかき混ぜるがごとく、空気を取り入れながら。
「いや、あんた何やってんです」
「なんでえ、旦那知らねェのかよ」
イオリ──いや神父は、何年も話をしていなかったのが解消されたように、得意気に話し始めた。
「ローションだよ。いや俺もいつも世話になってるが、なかなか分からねェことも多いと思ったね。こいつは本番前にきちっと人肌くらいに暖めなきゃならねェから、予めこうしてかき混ぜて温度を上げておくんだよ。そうすると使うときにヒヤッとしねェだろ」
「バカですかあんたは。昨日ソニアさんが段取り組む時もあんたかき混ぜてたんですか」
「そうだよォ。俺はな、なにやるにしても本気だぜ。もっとも使う機会は無かったけどな。ソニアも俺もそっちの気はねェし」
「ほんまもんのバカですねあんた」
ドモンはベッドの上にイオの取り分、金貨十三枚の入った袋を投げる。イオは半ば飛びつくようにそれを奪い取り、中身を確認した。長かった。手段を選ばずただ殺しに行くだけならば、どれほど良かったか。
「……あんたの言ってた、女の子の話ですがね」
イオはソニアを通して、ドモンに一つの確認を依頼していた。アリサの消息。あの後、グリーン・プレイスではアリサの存在は『無かったことになった』。せめて生きていてくれさえすれば。そう一縷の望みをイオは外へと託したのだ。
「死にましたよ。死体は川に流されて、今朝あがりました」
ドモンは淡々とそう述べた。イオは彼女の姿を脳裏に思い浮かべたが、すぐに掻き消えた。たった二度だけ顔を会わせただけの少女だ。たったそれだけの彼女は、この世の地獄をいやというほど味合わせられ殺された。
「そうかい」
イオは十字を切り、唯一の持ち物である黄金のロザリオを取り出した。もはや猶予はない。慈悲もいらない。神に祈った少女の理不尽を、イオは晴らしてやらねばならぬ。
「じゃ、殺るか」
彼は笑っていた。渇ききった笑みであった。ドモンもまたその渇いた笑みに応えるように、笑った。人々は娼館に癒やしを求めてくるという。ことこのグリーン・プレイスにそんなものはないのだ。
「クソが……」
ザインは苛ついていた。命令されて借金の回収に向かったのは良いが、既に相手は逃亡していたのだ。人がいればどうにでもなるが、いなければ打つ手は無い。マーカスのやっている回収業はこういうとりっぱぐれがよく起こるので、数をこなすほか無いのだ。
「親分に何言われるか分からねえぜ……」
「おっ、ザインの親分じゃないですか!」
暗がりからいきなり、ザインに声をかける者があった。振り返ると、小さな炎が暗闇に浮かび、掻き消えた。朧げな赤いそれは、タバコの先に点った炎だったのだ。黒いコートにサングラスの中年男。
「おう、なんでえ、おっさんかい」
「いや、ちょうど良かった。実は、金が工面できたんですよ。昨日イオリにも聞いてきましたがどうも合わないらしくてね。さっさと出してやりたいんで」
そういうと、中年男ソニアは、革袋に入った金をザインの目の前に突き出した。じゃらり、と金が鳴っている。この音のためならば、ザインは女の一人や二人、地獄に叩き込んで川に流すことなどわけもない。目の前のこの金のために彼ができることは一体何か。ザインは知恵を巡らせる。
「そうかい。いくら持ってきた?」
「五枚」
「何? 頭でもおかしくなったかよ、おっさん。俺が貸したのは金貨二十枚、利息分として金貨四枚だ。計算もできねえのか」
ソニアは影の中で笑みを浮かべると、金貨の入った袋をザインの足元に放り投げた。金貨がぼろぼろと袋からこぼれ、月の光がまぶしく金貨を照らす。
「何の真似だ、おっさん」
ソニアは答えない。咥えていたタバコをふかし、うつむきがちに紫煙を吐き出すばかりだ。ザインは何かを察し、懐に手を突っ込むと長ナイフに触れた。突然、ソニアは顔を上げ、タバコをぷっと口から離した。くるりとタバコが宙を舞う。地面に近づいていく吸い殻。ソニアはベルトに無造作に差し込んだ銃を抜き、銃口を向け、トリガーを引いた! ザインは頭を撃ち抜かれ即死!
「旦那から預かったんだ。見逃す必要はねえとさ。……確かに返したぜ」
火の点いたタバコは地面に落ち、転がった。ソニアはそれを踏み潰してから拾い上げると、動かなくなったザインを背に、夜の街へと消えていった。
「ザインの野郎、随分おせえなあ」
娼館奥、事務所を抜けた離れの部屋。ここはマーカスとメイが逢瀬を繰り返す場所でもある。
「いいじゃない。今日は私とあなただけで、ゆっくりと」
メイは妖艶にそう笑う。マーカスは目の前のグラスを取ると、ぐいと飲み干す。部屋のさらに奥には、二人のためのベッド。メイは娼婦である。自分の身体でマーカスの力を利用できるならば、安いものだ。事実彼は絶対の力と金をメイに約束してきた。これからもそうだろう。
「おう。誰かいるかい」
「へい」
マーカスの言葉にまるで引き寄せられるように、男が一人離れと外界を隔てる扉を僅かに開け、顔を出した。マーカスの子飼いの部下の一人である。
「しばらく誰が来ても追い返せよ。入りやがったら誰だろうとぶっ殺す」
「へい。ありの子一匹通しませんぜ」
マーカスは恐ろしいが、その男としても良くは思わなかった。彼はいい女となると徹底的に入れあげて、周りが見えなくなる。彼の不興を買い、本当に命を落としたものは両手両足では足りないのだ。
「親分はなんだって?」
「どうせメイの姉御としっぽりやるんだろ。誰も通すなだとよ」
「羨ましいこった。あれぐらいいい女を一回は抱いてみてえもんだ」
「違いねえ」
今日、この離れの警護にあたっているのは、マーカスファミリーの下っ端たちだ。いずれも荒くれ者揃い。意味もなく剣を抜き、仲間同士で駄弁りながら退屈な夜を過ごしていた。ふと、そのうちの一人が妙な者を見た。グレイの着流しを着て、腰に剣を帯びた男が、ふらふらと離れに近づいてきているのだ。
「旦那。こっちは立ち入り禁止だぜ。引き返しな」
おさまりの悪い黒髪のその剣士は、猫背気味にあたりを見回しながら、申し訳無さそうに言った。
「はあ、そうですか。いや迷ってしまいまして。……あなた、マーカス・ファミリーの方ですか?」
妙な事を聞くと思いながらも、男としては別にごまかす意味もなかった。みな、そうだと頷き答えた。
「そうですか……じゃ、道を開けてもらいますか」
「何を……」
ドモンは一歩足を踏み込み、剣を抜き払った。目の前の男は腹を切られ即死! 異変に気づいたもう一人が剣を振り下ろしてくるのを、ドモンはそれより早く切り返す! やはり男は即死! 何が起こっているのか未だに理解していない男に、真っ向から剣を振り下ろし両断! 男は頭蓋を砕かれ死亡! ドモンはそのまま剣の血を振るって飛ばし、剣を納める。ここに長く留まるのは危険だ。彼は後を託し、裏口を抜け人混みに消えた。
荒い熱っぽい息が漏れていた。
男女が折り重なり、小さなろうそくで官能的に情事が影となって浮かび上がる。マーカスとメイはこうして打算で組み上げられた偽りの愛を確かめ合っていた。
ろうそくの明かりが、朧げに三人目の影を写しだした。影はベッドに近づいていき、一瞬消える。お互いの存在を貪り合う二人の男女には、気にも止まらぬ変化であった。一回。二回。三回転。黄金のロザリオに内蔵されたぜんまいが、ぎちぎちと音を立てる。イオはイオリの姿のまま、二人の偽りを冷たい瞳で見下ろしていた。彼はロザリオの端を噛み、横棒をねじって引き出す。鈍く輝く鋭い毒針だ。左手に毒針、右手にロザリオ。彼は手を交差させ、お互いの眉間に毒針とロザリオの先を押し付けた。ロザリオの内部でぜんまいが回転し、メイの眉間に打ち込まれる。毒針がマーカスの眉間を貫く! 痙攣を始める二名!
イオがそれらを引き抜くと、二人はまるで達したかのごとくぐったりと伏し、そのまま動かなくなった。
もはや、ここに留まる理由など何もない。イオは立ち上がると、ソニアに既に持ってきてもらっていたいつもの神父服にカソックコートを羽織ると、二日ぶりに男に戻り、虚栄の光の中を歩く。歩き慣れたはずの色街は、どこか寂しく色を失って見えた。
イオ ソープに体験入店する 終