イオ、ソープに体験入店する(Cパート)
「おう、おめえがイオリかい。なるほど、なかなかの上玉じゃねえか」
夜霧のマーカスは上機嫌にそう声をかけると、気張ンなよ、と一声かけて女とともに奥へと消えていった。緑色のショートボブの女は、こちらをねめつけるように視線をくれたような気がした。激しい憎悪にも似た嫉妬に、イオリはぶると震えた。
「さ、ボスの目通りは済んだろ。イオリ、今日はもう休んでいいから。明日から早速店に出てもらうからね」
禿げ上がった頭の支配人、ノードが淡々とイオリにそう告げる。
ふざけるな、と声をぶつけたい気分にかられたが無駄であった。今のイオはイオリである。声を出せば魔法は解ける。まるでそうしたおとぎ話の主人公のようであったが、当人からすればたまったものではない。
「今日はここで休んでもらうが、明日以降は客を取って一緒に寝てもらう。……くれぐれも、明日から頼んだよ」
そこはいわゆる、リネン室──シーツの替えなどが放り込まれた空間であった。ベッドとは名ばかりの、異臭のするシーツが積み重なった場所。イオリは見えないように吐くジェスチャーをするが、どうにもならぬ。
「……勘弁してくれよォ。俺が一体何やったってんだ?」
支配人が姿を消したことでようやく呪縛を解かれたイオは、異臭のするシーツの山を避け、真新しいシーツの山を崩すと、そこに身体を投げ出した。
「だいたい奴らも奴らだ。なんで分かんねェんだ。女の園だろここは。見飽きてんじゃねェのかい。区別くらいつけろッてんだ」
「……あのう」
しばらく、イオは声に気づかなかった。この部屋は自分だけの部屋であり、よもや自分以外の誰かがいるなどとは考えなかったのだ。精々いるとすればリネン室の妖精くらいのものだろうと。
「あの、神父様……ですよね?」
その言葉でようやく彼は現実に引き戻された。そうだ。自分は神父のイオだ。ソニアに半分騙されるような形で、このグリーン・プレイスに女装して潜入するハメになったのだ。彼が振り返ると、そこには彼と同じようにリネンに腰を下ろし、肩に薄汚れたシーツをかけた少女が、部屋の隅に座っていた。
その少女に、イオは見覚えがあった。
そしてその記憶の内にある少女は、もっと可憐で気高かったはずであった。数日前、自分の教会にやってきて祈りを捧げた少女。両親の遺した借金返済のため、娼館に身を沈めた少女──アリサ。神々しい聖女のようだった彼女の外見は、今や打ちのめされ、暴力を振るわれたことで面影をなくしていた。顔色は土気色、唇は紫。シーツから出た腕や足には青あざや生傷が刻まれている。まるで別人だ。
「あなたは、アリサさん」
「はい。……すみません、身体が痛くて。このままでお許し下さい」
彼女は立ち上がる事すらできなさそうであった。怪我をしているのか。しかしそうであれば、このような場所で転がされている理由が分からぬ。
「わたしが悪かったのだと思います……。メイさんの常連のお客様が、たまたま私を目に止めたのが、お気に召さなかったとかで……」
意気消沈した様子で、彼女はまるで悪事を懺悔させられる罪人の如くゆっくりとつまらせながら述べた。イオには分かる。彼女は恐らく、力でそう思わされたのだ。自らに罪があると。お前が悪いのだと暴力でもって思い込まされた挙句、それを信じざるを得ないところまで追い込まれたのだ。
「……誰にやられたのですか」
「神父様、それは」
「神は常にあなたを見ています。しかし神の目の届かぬ場所があるのも事実」
彼はアリサの前ではまさしく神の使いであった。それほどの金看板でも掲げねば、この敬虔な少女は真実を話さぬだろう。
「ですから私を通して神に懺悔すべきです。神の子よ、あなたは試練を受けたのですから」
アリサはしばらく思い悩んでいたが、どうやら決心がついたようであった。彼女をここまで追い込んだのは、イオも顔を合わせたあの頬に傷の入った男──ザインであった。アリサはここに務めてまだ数日であるが、既にグリーン・プレイスの客達の間で、噂になってしまっていた。
誰が命じたのかはわからない。アリサはそう言った。しかし、ザインは昨日突然勤務を終えたアリサを呼び出した。そこには、ザインと夜霧のマーカス、そして彼にしなだれかかるメイの姿があったのだった。
そこからはもう、凄惨な折檻──いや拷問と言い換えても良い、残虐行為がアリサを襲った。顔以外の見えない位置に、暴力の嵐を浴びせたのだ。ザインの残虐ショーを、まるで酒の肴とするように、マーカスとメイは笑いながら食事をしていたという。
「逃げようとは、思わなかったのですか」
「私には借金が残っています。それに、逃げ出せば知り合いに奉公に出した弟や妹にも類が及ぶと」
「……ひでェ話だ」
アリサはそれだけ言い終えると、一息ついて再びシーツの山へと身を沈めた。肉体的にも精神的にも、彼女は痛めつけられていたのだ。いやむしろ、こうしてなんとか話ができているのも不思議なほどだ。
死にかけている。そう言っても、過言ではない。
「……それにしても、神父様もどうしてこのようなところに」
「これも神の試練と割りきってはいます」
「そう、なのですか? ……それより、神父様。ひとつお願いがあるのですが」
この時のイオは間違いなく神父であった。迷える子羊を導く導き手であった。彼女の懇願に応える義務があった。彼は自ら彼女の細腕を掴み握りしめると、目元の涙を指で拭ってやった。
「私にできることならば」
「私は、メイが憎い。マーカスが、ザインが憎い。憎いのです。しかしそれは神の教えに背く醜い感情。娼館に身を落としたような私は、まだ……まだ神に救われると信じているのです。神父様、私は罪深い女です。地獄に堕ちるともうわかっています。ですからどうか一言『神はお救いになる』と仰っていただきたいのです」
「たったのそれだけですか?」
彼女は小さく頷いた。イオは彼女の手を強く握った。彼女は望んでこの娼館に堕ちたわけではない。彼女に罪などあるものか。それでいつか出られるという希望があるのならば、まだ良い。入って数日で謂れのないことでここまで痛めつけられた彼女に、どんな希望が残っているというのか。
「お願いです。私を──」
「おう、アリサ! てめぇ誰に断ってこんなとこにいやがる!」
突如リネン室の扉を蹴り開け、入ってきたのはザインであった。それも、彼の子飼いの部下数名も一緒だ。
「ノードの野郎、くだらねえ事を考えやがるぜ。ここなら見つからねえとでも思ったのか? おうイオリ、どきやがれ! こいつは連れて行くからよ。おう!」
イオリは声を出せない。
もしも声を出してしまえば、即座に彼の正体が露呈するだろう。イオができるのは、ポケットに隠した黄金のロザリオを握りしめることくらいであった。数名の屈強な男たちに抱え上げられたアリサは、イオリに向かって手をのばす。イオリもまた手を伸ばしたが、届かなかった。
「……イオリ。いいことを教えてやらあ。あの女はよう、身分をわきまえなかったんだ。ここのナンバーワン、メイの姉御に敬意を払わなかった。ここじゃな、それは殺されても文句が言えねえのよ」
ザインは低い声で、まるで『親切心を働かせているように』ゆっくりとイオリにそう告げた。彼はさらに強くロザリオを握った。今すぐ殺してやりたい。だが今はその時ではない。彼は唇をぎゅっと結び、ザインが去っていくのをじいっと待ち続けた。
「おう、ザイン。連れてきたか?」
ザイン達がアリサを連れてきたのは、マーカスの部屋であった。巨体をソファーに沈め、床に投げ出されたアリサを見下ろしながら、せせら笑った。隣には、やはり笑みを浮かべているメイの姿があった。彼女は投げ出されたアリサへと近づくと、今まででは考えられぬ猫なで声で言った。
「本当にごめんなさいね、アリサ。実はあなたに話があるの。……別のお店で働かない?」
「別の……?」
アリサはそういうのがやっとであった。メイはモスグリーンの髪を耳に引っ掛けながら、そうよね、とマーカスへ問うた。
「おう。俺も先日のはやり過ぎたと思っていてよう。おめえみたいないい女はこれからもここで働いて欲しいんだが、おめえも嫌になったんじゃねえか。……それでよ。俺の知り合いが、別の娼館をやっているのよ。そこに移ってもらおうと思ってな」
アリサにはすでに、賛同や否定を入れられるような状態ではなかった。彼女はうなだれるばかりであったが、その沈黙を全員肯定と捉えたようだった。
「決まりね。あなたはもっといいところで働けるのよ。天国みたいなところよ」
メイは、何度もそう繰り返した。自分を罵り、マーカスやザイン達に命じてさんざん自分を貶めたその口で。どす黒い感情が、彼女の心中を犯したが、それを口にするだけの力すら、アリサからは失われそうになっていた。
「ザイン、そうと決まれば送ってやんな。後はおめえに任せるからよ」
「へい。おら、立つんだよ!」
ザインの言葉を合図に、部下たちは再びアリサを強引に立たせ、荷物のごとく運び去っていった。メイはそれを満足そうに見つていたが、彼女の姿が見えなくなるとマーカスへとしなだれかかった。
「ねぇ、親分。私は悪い女よねえ。嫌いな女は追い出さないと気が済まないの。だって親分は、ナンバーワンの私が好きでしょう? 親分だって、私がナンバーワンじゃなくなったら見向きもしなくなっちゃうわ」
マーカスは豪放に笑うと、メイの身体を抱きしめる。彼にとってメイは、わがまま放題の少女のような女であった。そんな『満足』という言葉を知らぬ女を喜ばせることこそ、男の甲斐性と信じて疑わぬ。
「気にすることじゃねえ。今度入った、イオリとかいう女。あいつはなかなかのスキモノと見たぜ。アリサが抜けた分、稼いでくれるだろうよ」
「そうだけど……あなたへの上納金が当分少なくなってしまうわ。それでもいいの?」
「おめえが満足すると、俺も満足するのよ。それ以外のことなど、知ったこっちゃねえ」
マーカスは決め台詞に酔ったように、手元のワインを引き寄せ、ぐいと飲み干した。メイは、とうとう言わせてやったという満足感からわずかに笑みを浮かべた。これでこの男も、上納金のことでああだこうだと当分は言わなくなるだろう。全く、面倒なことだ──。
深夜。
ドモンは勤務をようやく終え、帰宅の途についていた。
神父を女装させ、中に放り込む。二日後、同僚のサイと共に内偵調査を行う際に乗じて、標的を全員始末する。なるほど、よく出来た作戦だ。ドモンはソニアのアイデアに思わず舌を巻く。彼の持つ経験は本物だ。こうした搦手を、何度も成功させてきたに違いない。
「……ま、神父にゃちょっと貧乏くじを引いてもらいますかねえ……」
広い袖に手を突っ込み、つらつらとものを考えながら、ドモンは暗闇を進んだ。既に魔導式ランプは明かりを無くし、月のみが道を朧げに照らしていた。
「おう、早くしねえか!」
「ザインの兄貴、こいつ、やばくねえですか」
「動かなくなりやがった」
橋の上で、数人のいかにもガラの悪そうな男どもが数人集まり、なにやら囲んでいた。ドモンが男たちの間から見たのは、女の病的に白い足。
「や、どうも。皆さん集まって、いったいどうなさったんです?」
男たちはドモンの呼びかけに顔をこちらに向けたが、一瞬で嫌なものを見てしまった、とでも言いたげな嫌な表情を浮かべた。ドモンの存在はまさしく招かれざる客であったのだろう。動揺する男どもを押しのけると、細面で頬に傷のある男──ザインと呼ばれていた男が頭を下げた。
「そのジャケット。憲兵官吏の旦那でございますね」
「いかにもその通りです。一体何があったんですか」
「手前どもは、娼館『グリーン・プレイス』のもんでございます。見ての通り、娼婦を一人別の娼館へ運んでいく途中だったのですが……死んじまいましてねえ。どうやら病気か何かだったようで。難儀しておるんですわ」
ドモンは改めて女の側にしゃがみ込む。月明かりで見辛かったが、めくれ上がった袖口から、青あざや生傷が見え隠れしていた。
「で。あんたたちはこの女どうするつもりなんです。まさか、川に流すつもりじゃないでしょうねえ。最近『グリーン・プレイス』の娼婦が一人、死体になって川から挙がったって話も聞いてますから」
「まさか。へへへ……旦那、そんなことはありやせん。手前どもで、女の事もきちんと埋葬いたしますから、どうか見逃してもらえませんかねえ」
ザインは手際よく金貨を五枚ほど懐から取り出すと、ドモンの袖口に強引にそれを放り込む。そこまでされて、突っ返すのもおかしい。ドモンは右袖口にあつらえた隠しポケットに金貨をしまってから、言った。
「そんならいいんですよ。……でもひとつ言っておきますが、こいつは貸しです。見逃す必要がないのなら、この金は返しに行きますから」
「律儀な旦那さんだぜ。なあ。安心してくださいよ、きちんと始末をつけますから。ねえ?」
ザインは部下の男共と一緒に、安堵からか笑った。そして、モノ言わぬ死体と化した女を部下達に担がせると、ドモンとは逆の方向に去っていった。
次の日。
南地区の水路下流で、死体が発見された。グリーン・プレイスで働いていた娼婦、アリサであることがすぐに判明したが、店側は「既に退職しているので関知しない」と言い切り、捜査にも応じなかった。マーカスを恐れる憲兵団にとって、それ以上手を出すことは危険な賭けであった。いつものように形通りの調書を支配人のノードから取ると、憲兵団は全てを忘れた。
ドモンは、少女の最期を、憲兵官吏が取った書面で知った。てひどい暴行で、彼女は内蔵を痛めていたらしく、それで徐々に衰弱し、あの橋で息絶え──川に流された。無惨な最期であった。彼女は娼館という世界の中でも、懸命に生きようとしていたというのに。
「神父はどうでした、ソニアさん」
主のいない教会は、存外に静かであった。ドモンは色街から帰ってきたばかりのソニアに、明日の段取りをつけるために客としてグリーン・プレイスに潜入させたのだ。代金は、昨日ザインたちが出してくれた金で賄った。
「げっそりしてたぜ。何しろあんな潜入の仕方だ。もしバレれば殺されても文句は言えねえ。あそこは女の園だからな。大したもんだ」
「ソニアさん、面白がっちゃまずいですよ」
フィリュネがそうたしなめるが、ソニアはタバコをはさみ持ちながらくつくつと喉を鳴らす。しかし、彼もまた伝えるべきことを伝えるために、咳払いをして仕切りなおすと、イオからの情報を伝えた。
「旦那。あんたの見立て通り、今朝方死体が挙がったっていう女の子は、グリーン・プレイスでひどい目に合わされたらしい。なんでも、メイの客をとった取らねえで、一方的に目を付けられてな。それで、マーカスと部下どもを使って、後はなぶり殺しだ。あのまま生きてりゃ、もっとひでえ場所に売り飛ばして、金に変えるつもりだったらしいぜ。ザインの野郎、小遣いを取りそこねたってご立腹だったみたいだ」
ドモンは黙ってそれを聞き、静かに頷いていた。クズども。誰も見ていないと、声を挙げるものはいないと、本気でそう思っている奴らだ。しかしここに、見ているものがいる。腰を上げる者がいる。
「明日、ザインは色街を出て、借金の取り立てに行くそうだ。一筋縄じゃいかねえってんで、夜に抜け出して嫌がらせと脅迫をしに行くんだと。……奴には貸しがある。きっちり返しておきたい」
「マーカスは店に残るんですか」
「ああ。離れにある、マーカス専用の部屋でくつろいでるだろうとさ」
フィリュネもそれに頷いた。彼女はマーカスの商売を追いかけ、情報の裏をとっていたのだ。
「彼は借金の取り立てでかなり潤ってます。おまけにグリーン・プレイスからも上納金を取ってて、合わせたらとんでもない額になるみたいですよ。働かずにメイといちゃいちゃしてても、余裕らしいです」
ドモン達は、これまでに集まった金を聖書台へと置いた。金貨四十二枚。一人頭七枚。大きな断罪だ。弱き人々の恨みこもった金だ。そう思わねば、断罪人などやっていられない。
「それじゃ、話はつきましたね。神父も、そろそろ女の気持ちがわかった頃でしょう」
「ホント、旦那さんって神父さんに厳しいですよね……」
フィリュネは呆れたようにそう言ったが、ドモンはどこ吹く風であった。