イオ、ソープに体験入店する(Bパート)
「……もういっぺん言ってみろ」
「いや、分かった言わねェ。俺は物分かりがいい方なんだ。おい、顔はやめろ! 手を上げるな!」
教会の巨大十字架オブジェの後ろへ隠れるように、聖職者はサングラスの男から逃れた。ただでさえ不快な目にあった後に、神父は言うに事欠いていっちょ風呂に身を沈めてもらえないかとフィリュネに言い放ったのだ。不機嫌だったこともあり、ソニアは彼女の前に一歩身を踏み出し、イオの腹に拳を一発くれてやった。それがここまでの流れである。
「旦那からなんも聞いてねェのかい。今度の断罪の話をよ」
「生憎まだだな。言い訳なら……」
「言い訳じゃねェよ! なんだよ、ソニア! あんたイライラしすぎじゃねェのかい!」
ソニアは大人であった。それも充分すぎるほど、大人であった。彼は新しい紙巻たばこを取り出し、咥えると、火打ち石で火種を作り、吸った。彼は落ち着いていた。少なくとも分別の無い大人ではなかった。
「……悪かったな。手は出さねえ。だが聞き捨てならん。理由があるならきちんと言え」
「言われなくてもそうするつもりだったんだよ! どうかしてるぜェ」
イオはぶつぶつと文句を垂れながらも、事の次第を話してみせた。
今回の標的──娼館『グリーン・プレイス』のナンバーワン娼婦、メイ・リーは、ここ数年娼館の外に出ていない。娼館づとめの者には、志願したものももちろんだが、借金などでがんじがらめにされた後、叩き込まれる者も多数いる。よって、娼館側から外出を制限することは普通のことだ。
しかしメイ・リーは違う。彼女はグリーン・プレイスを完全に支配している。そもそも外にでる必要が無いのだ。狭い世界の中で、全てが手に入る。……そして、今や外の世界でさえも、内から彼女は全てを蹂躙してみせるのだ。事実、マーカスが後ろ盾になってからというもの、その傾向は顕著になった。彼女が色街の外にあるレストランの料理を食べてみたいと言えば、わざわざ料理人を呼び寄せるほどだ。
「確かにあのグリーン・プレイスはひどいとこみたいだな。あそこから逃げ出した女を殴る蹴るで引きずっていくのを見た。ありゃ、金だってまともに払ってるかどうかも疑問だぜ」
「ああ。今回は旦那が請けてきたんだが、ひでェ話だったぜ。命からがら店から逃げてきた娼婦を、マーカスと手のもんを使って連れ戻して、わざわざ他の娼婦の前に引きずり出して叩き殺したんだ。借金こさえて娼館に売り飛ばすなんざ、今に始まった話じゃねェが……メイってのはもっとアコギな真似をやってやがる。借金だってまともに減りゃしねえらしい」
「……まさかそんなところに行けっていうんですか」
イオはフィリュネの冷たい視線を避け、背中で受けた。そう、とにかくひどい場所だ。給料のピンはねに過剰暴力。ドモンが調べを入れたところ、月一回はグリーン・プレイスに『前日まで勤めていたが、どこの誰だか分からぬ男に身請けされた』娼婦の遺体が、てひどい暴行を受けた状態で川から流れてくる始末だ。ここまで証拠がそろっていそうならば憲兵団が動きそうなものだが、夜霧のマーカスの抵抗を恐れ、なかなか手を出そうとしない。
「それでその娼館に行くとして、報酬は皆さんと同じ金貨五枚なんですか? ちょっと無理です。割に合わなすぎです!」
フィリュネの至極当然の怒りに、イオは面倒くさそうに返した。
「いいじゃねェか、ちょっとくらい。減るもんじゃねェし」
「もういっぺん言ってみろ」
「すまん、もう言わねェ。口が滑ったんだ。手を上げるな!」
三人が大騒ぎをしていると、ふとイオが外に人の気配を感じ取った。彼はその気配が何者かを考えながら、懺悔室へと続くろうかを隔てるカーテンと大聖堂の出入口を交互に見ていたが、ゆっくりと開いた後者を見て、彼は『神父らしい』表情を作りながら言った。
「……というわけで、この話はまた次回と言うことにいたしましょう。おお、神の子よ。我が協会に、何か御用でしょうか」
彼はまるで役者のように大げさに身振り手振りを交えながら、入ってきた女に尋ねた。女は有り体に言えばみすぼらしかった。色あせた服を身にまとい、自前の小さな銀色の十字架を握りしめながら、おどおどと姿勢を低くし入ってきた。
イオは目を見はった。
彼はかなりの遊び人である。女の審美眼も確かであると自負している。女の姿はぼろをまとった聖者のごとし。着ているものこそ粗末に過ぎるが、透き通るような肌に整った顔立ちは、美容に気を使っているという貴族共にも敵わぬだろう。
「アリサと申します。神に祈りを捧げたいのです。どうかお許し下さい」
「それは良いことですね。どうぞ、祈りなさい」
神父は微笑みながら、ソニアとフィリュネの二人に目を向けた。誰かがいる内は、三人はほぼ他人でいるようにしている。二人は、遠くのベンチに腰掛け、狸寝入りを決め込んでいた。
「神父様。お尋ねしたいことがございます」
「神の御名において、お答えしましょう」
「……私は、おそらく娼館に送られます」
「穏やかではありませんね」
女は取り乱すわけでもなく、涙も浮かべず──ただそう報告するように淡々と述べた。固く手を結び、跪きながら祈りを捧げ終え、頭を上げてイオを見た。
「私の家は商家でしたが、父が事業に失敗して命を自ら断ちました。母は父が一人で逝くのは寂しいだろうと共に命を……しかし私には、なんとか養わねばならない弟や妹がいるのです。父が遺した借金も払わねばなりません。……神父様、娼館に堕ちても、神はお救いくださるでしょうか」
帝都であり、帝国でも随一の経済都市でもあるイヴァンでは珍しくもない話であった。ここには様々なチャンスが転がっている代わりに、転落していったものに冷たい。彼女もそうした冷たさに、直接手を触れることになったのだろう。
「気を強く持ちなさい、神の子よ。どのような場所でも神に祈る事は叶いましょう。そして祈りは必ず神に届きます」
彼はそう優しく述べると、彼女に向けて十字を切った。アリサは静かに立ち上がり、ゆっくりと頭を下げ、そのまま聖堂を後にしていった。
「この! アマ! 逃げ! やがって!」
既に女は動かなくなってしまっていた。夜霧のマーカスはそんな女のひどい姿を見ながら、薄笑みを浮かべつつ酒を煽っていた。大柄な男である。頭髪は残っていない。眉も無く、眼光は極めて鋭い。黄色い洒落た羽織を着た、なかなかの洒落者だ。側には、メイがしだれかかりながら、空にした酒をついでいた。彼は自分の好いた女以外には、常人以下──犬や猫、虫以下の感情しか持てないのだ。
「ザイン。こっちへ来い」
「へい」
ザインはゆっくりとマーカスの側へと移動し、礼をした。なおもマーカスは近づくように指を動かし──すぐ近くに立ったところで、ザインを殴った!
「馬鹿野郎! てめえまた商品を無駄にしやがって。これ以上グリーン・プレイスの評判が落ちたらどうする気だ!」
「へい。申し訳ありません」
「女の死体は川に流しとけ。バカヤロウが」
そう言葉を投げつけた後、彼は再びメイの隣に座った。話は済んだ。ザインと部下達は、マーカスのいうことには絶対服従だ。逆らえば何者だろうと死あるのみ。マーカスという恐怖の存在と、死を持って償う鉄の掟こそ、マーカス・ファミリーの結束の秘密なのだ。
「すまねえなあ、メイ。お前の店からまた人死にを出しちまってなあ」
マーカスはまるで愛玩動物に話しかけるように優しく謝意を伝えた。彼はメイの事を心の底から愛していた。メイが同じように考えているかどうかは分からないが、マーカスにとってそれはどうでもよいことだ。彼女にとって都合の良い人間でいることが、マーカスの喜びなのである。
「いいんですよ、マーカス親分。……それより、最近店にいい子がいなくなってしまってねえ。ミレイはいい子なのだけど、あの子だけじゃ間に合いませんよ。また、いい子を連れてきてもらえないかしら」
「おう。おめえがそう言うなら、俺はいくらでも連れてくるぜ。……丁度、借金の契約書をまたいくらか買い取ったのよ。おめえさんがそろそろ困っているだろうと思ってな」
マーカス・ファミリーの収入源は、このグリーン・プレイスからの上納金と、
債務の回収業だ。金貸しからほとんど焦げ付いた借金の契約書を買い取り、自身のファミリーを使って強引に回収していく。契約書の買い取りとて、難癖つけて買い叩くのが常套手段だ。
「ま、二・三日中にはモノになるだろうぜ。楽しみにしてな」
「ダメですか」
「ダメだ」
「何より嫌です」
ドモンは交渉を続けていたが、とうとうそれを打ち切る事にした。ソニアはとうとう折れなかったし、フィリュネも考えを変えなかったのだ。ドモンはフィリュネの淹れた紅茶を飲みながら、ふうと一息ついた。
「ま、それじゃどうしようもありませんねえ。わかりました。今回ばかりは、諦めるとしましょう」
カップをソーサーに戻しながら、ソニアは意外そうに言った。
「やけに物分りがいいじゃねえか、旦那」
「そりゃ、金貨二十枚の断罪はでかいですけどね、中の様子がわからないじゃ何にもできませんし危険すぎますよ。……今度仕事であそこの牽制に入るんですが、あくまで客としてです。奥の様子まで観察できませんし。今回は、断るとしましょう」
ソニアは咥えたタバコを上下させながら、ふとベンチに寝そべり、聖書を頭にかぶせたまま寝ているイオを見た。彼は聖書を神父から奪い取る。眩しそうに目を細めながら、彼はうっとおしそうに目をこすりながら起き上がる。
「なんだよ。神は寝てるものを起こすなって言ったんだぜェ」
「馬鹿言うな。……旦那。いい考えを思いついたぜ。要は、俺達が中に入れればいいんだろう。平たく言えば、そのままメイを殺っちまえればそれでいいわけだ」
ドモンははあ、と生返事をしつつ頷く。ソニアはにやりと笑い、神父の背中を強く叩いた。恐らくはこれ以上ない妙案だ。
「簡単なことだ。何もメイを殺るために何度も出入りすることを考えるからいけねえんだよ。始めっから殺れるやつが入り込めばいい」
「ほお、あんな啖呵を切った後に、俺によく面を出せたじゃねえか。なあ、おっさん」
グリーンプレイスの裏側に急ごしらえめいて建てられた、マーカス・ファミリーの事務所。そこの応接室、上座に大物らしく座るのはザインであった。自分より二回りは年下であろう彼に、ソニアはぺこぺこと恐縮しきりといった様子で口を開いた。
「いや、あの時はどうかしてまして。まさかあのマーカス・ファミリーの大幹部とはつゆ知らず。どうかご勘弁ください」
「へっ、わかりゃいいんだよ、分かりゃあよ。……なんどもいうが、俺はおっさんの事が気に入ったぜ。くそ度胸が座ってやがる。それに、約束通り女の子を連れて来てくれたじゃねえか」
ソニアの隣に座る、ウェーブがかった栗毛の女。背は高いが、顔は悪く無い。そっけなく安っぽい、身体のラインが分からぬような服を着ているが、仕立ててやれば充分にモノになるだろう。ザインは抜け目なく値踏みを終えた。
「それで、ザインの親分に折り入ってお願いがあるんです」
ザインの親分。心地よい響きである。マーカス・ファミリーのナンバーツーであるはずの彼であるが、当のマーカスからあまり良い扱いを受けているとは言い難い。ソニアの物言いは、くすぶっているザインの自尊心をたくみにくすぐったのだった。
「おう。おっさんの頼みなら、多少の無理でも通してやるぜ」
「なら、遠慮無く。こちらの娘はイオリと申しまして、背は高いのですが見てくれが良い。……ですが少々困ったことが」
「なんでえ。いってみな」
「あまり喋らんのです。正直、お店に迷惑がかかるほどだと思うのです」
ザインは頬の傷を指でなぞりながら、イオリの顔を覗き込もうとした。視線を合わせようとしない。いい女だが、恥ずかしがりなのか。女衒の経験豊富であるザインに言わせてみれば、問題にもならぬ問題であった。誰もが簡単に股を開くような娼館に、誰が行きたがるものか。客は相手との駆け引きを楽しみに来ているのだ。
「そんなことは関係ねえ。やりようはいろいろあるもんだぜ。で、支度金だが……なかなかの上玉だからな。多少イロをつけて、十年で金貨八十枚ってところだな」
グリーン・プレイスは、契約時に支度金として金を前払いする方式を取っている。それにしても安い。確かに金貨八十枚あれば、一年は楽に暮らせるだろうが、他の娼館と比べれば雲泥の差がある。明らかに買い叩かれている。
「そこなのですが……イオリもこのような性格で、人見知りときています。同じ店で働く仲間と不和があるようだと嫌だ、と」
「なんでえそりゃあ」
「ザインの親分。お願いです。どうかこのイオリを、体験入店という形で雇っちゃもらえませんか。給金なんぞ僅かで構いません」
「馬鹿言っちゃいけねえ。そんなわけの分からねえこと、通るわけねえだろう」
「じゃあ、支度金として金貨を四枚ほど頂けませんか。一週間後、必ずお返しします。期間が短くなるだけ、親分には迷惑はおかけしませんから……」
ザインは困ったように顎を撫で、ぽんと膝を打った。彼は一度口にした言葉を撤回するような器用な人間ではなかった。マーカスならいざ知らず、彼はまだ若い。頼られることの喜びが、女衒としての判断を鈍らせたのだ。
「仕方ねえなあ。よほど金に困ってるが、その娘を手放したくないと見えるぜ。……条件がある。貸すのは、金貨二十枚だ。一週間後に、利息つけて二十四枚持ってきな。そんなら、体験入店ってのを許してやらあ」
なんたる暴利! イオリもその条件に驚いたのか、伏せ気味だった顔を上げて、ソニアを見た。彼は何も動揺していない。グリーン・プレイスは実質的にメイとマーカス・ファミリーのものだ。メイが殺されるようなことがあれば、マーカスは惚れ込んでいるメイの仇を血眼で探し続けるだろう。つまり、メイと同時にマーカスを排除せねばならない。そして、マーカスの跡を継ぎそうなこの男──ザインもだ。もともと、返す返さないの問題など発生しようがないのだ。
「ありがとうございます」
「じゃ、金を取ってくるからよ。ちょっと待ってろ」
ザインが外に出ていったのを確認してから、イオリ──神父イオは、ソニアに掴みかかりながら小声で叫んだ。
「おい! どういうことだこりゃあ!」
「お前、前も女装してたろ。ぱっと見、まずバレねえ。一週間とは言ったが、もっと早くて済む。……二日後、旦那が同僚と一緒にここに客としてくる。早い話が、憲兵団の内偵調査だ。その時に仕留める」
「それまではどうしろってんだよ」
イオは──イオリは恨みがましそうに言った。
「どうしろって」
「ソニア、あんただって娼館がどういうところか知らねェわけじゃねえだろ。おい、俺はそっちの気はねェ!」
「分かってるよ。つまりは明日、なんとかしのげばいいってわけだ」
「……月のものが来たとかか」
「わかってるじゃねえか」